51.新しい家族(5)
耀は汗で額に張りつく前髪をかき上げ、そそくさと着物を整えていた。
わけもなくざらついた感情に襲われている。
(まったく……なぜ、こんな目に……)
ひとつ、小さくため息をついた。ただ血を奪われるだけの行為に、何を焦る必要があるのか。
身なりを整え、視線を遠くに向けて気を紛らす。
澄んだ空気の中で、汗に濡れた自分だけが湿っぽく浮いている。冷静であろうとするたび、先ほどの感触が蘇り、体が勝手に熱を帯びる。その矛盾に、頭を抱えたくなった。
湧き上がる羞恥を振り払うため、目の前の空気をふぁさふぁさと掻いてしまう。
(乱れすぎだ、情けない……)
自らを叱咤して心を落ち着けるしかない。それなのに、ふと耳元が気になり触れてしまった。
「…………」
奪われた耳飾り。主との繋がり。
思い返すと胸が苦しい。
(朱炎様……)
寂しさが込み上げた。
道具のように使われている。いや――
道具として、自分は主に選ばれているのだ。
そう思い直し、朱炎の元に急ぎ帰ろうと決意する。
(私の役目は――)
「耀?」
不意に覗き込んできた大きな瞳。
紅土だった。
耀はじっと見つめられ、居た堪れず「見なくていい」と言い放ち、顔を背ける。
まさか、紅土が近くに来ていても気づかないほどに己を見失っていたとは思わなかった。
「私としたことが……」
「ねぇ、大丈夫?」
「あ、ああ、まぁ……」
紅土の真っ直ぐさに、耀の胸がざわついていた。目が泳ぐ。ますます冷静さを欠いてしまう。
その時――
「耀……」
紅葉の声が割り込んできた。
呼ばれた瞬間、反射的に固まる。
「…………」
「こちらへおいで」
誘うような眼差しに、言い表す事のできない感情が湧いた。
一方、紅土は耀を残し、「紅葉さまー」と言いながら彼女の足元へと駆け足で戻っていった。
その背中を見つめる。羨望が滲む。
(……いや、それよりも)
主の元へ戻らねば――そう思う。なのに、まるで導かれるように、紅葉の方へと進んでいた。
ふわり、と。
柔らかな風に包まれる。
――――――!?
予想もしなかった展開に、耀の体は強張った。
気づけば、紅葉に抱きしめられていた。
「耀……お前はいい子だ」
耳元に囁かれた声に耀は思わず息を呑む。心の奥底まで染み込むような懐かしい感覚だった。
少しの間、その抱擁に身を委ねていた。
やがて、耀ははっとして身を離す。
「……紅葉様。私は朱炎様のもとへ戻ります。火土丸と紅土をお願いします」
「……そうか」
紅葉は薄らと笑みを浮かべた。
「……耀。またすぐに寄るといい。妾は、お前の事も、我が息子のように思うている」
「…………」
耀はすでに背を向けていたが一瞬だけ振り返り、簡単に会釈するとこの場から姿を消した。
どこか寂しさを滲ませるような風が舞った。
※※※
「お?」と、烈炎が足を止める。
肩に乗っていた蓮次が、首を傾げた。
「どうした? れつえん?」
「やけに速ぇのな……」
烈炎が振り返り、鋭い視線で射抜く。
風を裂き、迷いなく突き進む青い気配がある。
「え? なにが?」
蓮次はぱちぱちと瞬きをして、辺りを見回した。
烈炎が感じ取っている“何か”を、その瞳はまだ捉えられない。
烈炎の口元に、不敵な笑みが浮かぶ。
迫る青い影――それは耀だ。
近くを通りかかるはずの耀に、軽く声をかけてやろうと烈炎は思っていた。
だが――
耀は烈炎を見ることもなく、風のように駆け抜けていった。
屋敷へ、最速で戻ろうとしている。
「あ? 無視して通りすぎるってか? ちっとは意識しろよな!」
烈炎の苛立ちがむくむくと湧き上がる。
「落ちんなよ、蓮次!」
「うん!」
烈炎は耀を追う気である。蓮次は烈炎の赤い髪をぎゅっと掴み、胸を高鳴らせた。これから面白いものが見られる――そう直感したのだ。
烈炎の熱が掌に伝わる。昂るままに蓮次が命じる。
「すすめー!」
次の瞬間には凄まじい風圧。
烈炎が風よりも速く駆けたのだ。
耀を追い越すなど、朝飯前だと言わんばかりに。
だが勢いが強すぎた。
「うおぁっ!!」
蓮次の悲鳴が響く。
勢いよく振り落とされた。
だが烈炎は振り返らない。
大きな掌を握りしめ、硬い岩のような拳をつくった。そして――風を裂き、耀の目前に一撃。
――――!!!!!
耀の足が止まる。
危うく顔面を砕かれるところだった耀は、眉をひそめた。
「は?」
その不快を示す顔に、烈炎は愉快そうに返した。
「何をそんなに急いでんだよ」
「邪魔だ」
「あ?」
「お前の相手をしている暇はない」
「俺が暇みたいに言ってんじゃねぇよ」
「私は今、自分の速さを確かめている。一刻も早く朱炎様に報告しなければならない。邪魔をするな。お前はやるべき事をやれ」
「速さを確かめる? 何してんだよ?」
「距離と時間を測っている最中だ……もういい、邪魔をするな!」
耀が烈炎を避けて進むもうとした。
だが、待っていたとばかりに耀の動きの隙をつき、追撃を仕掛ける烈炎。胸の奥で燻っていた黒い感情を拳に乗せて、弾けさせてしまった。
耀は油断していたのか――
烈炎の追撃に巻き込まれ、大きな木の幹に背を打ちつけられてしまう。
「―――ぅぐっ!!」




