46.共生の地と耀の過去(9)
轟く爆音と火の粉が乱舞する中――。
「……私の元に来ないか」
異様なほど静かに響いた。
耀は答えられない。
赤い光が乱反射し、泥に伏した身体を起こすことすらできず、ただ見上げるばかりだった。
瞳は朱炎に縫いとめられ、思考は凍りつき、唇は固く閉ざされたまま。
止まらぬ出血が体温を奪い、震えの理由が恐怖なのか寒さなのかも分からない。
一歩。二歩。
朱炎が近づく。
耀は反射的に身を竦ませた。視線を逸らすことは出来ない。
「……耀」
影が覆いかぶさり、次の瞬間、強靭な腕がその身体を支えた。
「……人間との関わり方を、教えてほしい」
命令ではなかった。
これは、望みか?
心の奥を揺さぶる言葉だった。
自分は必要とされているのか。差し伸べられた手は救いなのか、それとも新たな鎖だろうか。
答えの出ないまま、思考は混乱を深めていく。
❋❋❋
朱炎は耀の蒼白な顔を見下ろし、震えの理由を一瞥で読み取った。
――血を流しすぎて冷えている。
彼は耀を抱き寄せた。
なんとも鬼とは言い難い。
髪についた煤を払い落とそうとして、ふと己の仕草に苦笑を漏らした。
(……厄介なものを拾おうとしているな)
そう思いながら、朱炎は耀を抱き上げた。
燃え落ちる屋敷を背に、悠然と去る。
腕の中の拾い物――だが、生きている。
荒い呼吸の隙間には小さな安堵が見え始めていた。
やがて耀の意識が沈む。腕にずしりと重さが加わった気がした。
これは預けられたのか、預かったのか。身か、命か。
朱炎は妙な感覚を覚える。
(本当に、厄介なものを拾ったようだ……)
その夜。
朱炎は適当な廃屋を見つけて宿とする。
瀕死の耀を横たえると、ここで自身の血を与えると決めた。
――血の儀式。
朱炎の力を分け与えるということ。
弱い鬼であれば、一瞬で悪鬼に堕ちる。
だが――。
「……お前は悪鬼にはならないだろう」
確信めいた呟きと共に一滴を垂らした。
この一滴が世界を変える。傷は瞬時に癒え、失われた血肉が蘇る。
耀は身体を弓なりに反らし、声にならぬ悲鳴と共に手を伸ばした。
すぐに朱炎はその手を掴んだ。
「耐えろ」
暴れる身体を強く抱きとめ、耳元で繰り返し囁いた。
やがて、絶叫。
どんな責め苦にも声を上げなかった耀が激しく呻き続ける。
日が昇り、日が暮れる。
朱炎は「耐えろ」と唱え続けた。
❋❋❋
耀は悪鬼には堕ちなかった。
数日の深い眠りののち、目を覚ました。身体は完全に回復していた。
朱炎は確認するように耀の身体に触れ、その反応を観察した。
びくりと身体を強張らせるのは恐れゆえか。心は固く閉じたまま。
まだ過去を引きずっていることが分かる。
身体は癒えても、癒えぬ傷が残っていると。
――ならば試そう。
この者の過去の記憶が残る場所で、壊せるかを。
「……人間との関わり方を、教えてほしい」
朱炎は耀の目をまっすぐに見つめ、改めて伝えた。
見開かれた青藍の瞳。わずかに揺れたのを見逃さなかった。
これらは全て計算通りだ。
朱炎は父・閻王を超えるため、人間をも支配する力を望んでいた。
そのために知を持つ鬼を手に入れ、血と共にその力を喰らおうとしている。
そして、耀こそ、その器。
長い沈黙ののち、耀はかすれた声を絞り出す。
「……私の故郷は、人と鬼が共に暮らした地。あの場所へ戻れば、人と交わる術が……まだ残っているかもしれません」
朱炎の瞳が鋭く光った。
予想通りの答えであった。
「では、その地へ向かう。案内してくれ」
❋❋❋
二人は新たな旅路を定め、廃屋を出た。
夜の森を進みながら、ときに清らかな滝に手を浸し、草木の囁きに心を委ねる。水の冷たさと森の静けさを味わう、趣のある旅となる。
陽のないうちに多く進み、明るくなれば影に隠れた。
影で確認すべきは耀の身体だった。
身体と心が結びつかない現象に、羅刹の影響力を垣間見た。朱炎は耀の中から羅刹を完全に排除したい。
やはり壊すしかないと確信し、また日が暮れると森を進んだ。
曖昧な記憶を頼りに歩む耀。自然を読みながら進む姿からは、知性とどこか品のある気配を漂わせていた。
その滲み出る佇まいは、朱炎の興味を大いに擽る。
やがて辿り着いた耀の実家。
酷く荒れ果てていた。時間が止まったかのように。
喰羅族の襲撃を物語る爪痕が、無数に残ったままだった。
焼け残った柱、崩れた壁、散乱する破片、風化した血痕。
すべてが惨劇の残響だ。
胸を締めつける痛みに耀は立ち尽くす。
朱炎は耀に構うことなく屋敷を見渡し、迷わず中へと踏み込んだ。
耀も静かに後を追う。
❋❋❋
屋根のない部屋に差しかかった。
耀は足を止めてしまう。
――ここに隠れていた。
記憶が蘇り、急に吐き気に襲われた。
目を閉じ、耳を塞ぎ、脳裏に浮かぶ過去の記憶から逃げ回る。
柱や壁にぶつかりながら、倒れるまいと必死に耐えた。
そこへ朱炎が戻ってくる。
無言で耀を見据えていた。
(やはり、厳しいか……)
朱炎は自らの右手を見つめ、ひとつの決断を下す。
耀の肩を掴み、強引に振り向かせた。
「ここは、お前を喰らうに相応しい場所だな」
「…………そんな」
青藍の瞳は激しく揺れた。
朱炎はここでも愉悦を感じた。だが、表情は崩さない。
「どうした?」
「……ここで……私を……ですか?」
耀は恐怖と諦念を滲ませたような声で朱炎に問うた。無言である。
やがて耀は目を閉じて、その場にて膝を折った。
「……どうぞ、朱炎……様……」
朱炎が一歩踏み込んだ。耀の身体を引き上げる。
脱力し切った身体は、どうぞ好きに召し上がれと、抵抗の一つもない。
しなやかに反る喉元は、まるで美しい供物のようだ。
❋❋❋
ここで、終わるのか――。
耀の胸が痛む。これまでの絶望の記憶を全て凌ぐほどに深く痛んだ。
一瞬でも救われたと思ったのかもしれない。だからこそ、なぜと問いたくなった。
この方の元なら生きられるかもしれない。そんなわずかな望みを抱いていたのではないかと、ここで気づく。
だが、殺される――。
家族が死んだこの場所で。
(……そうか、朱炎様は……)
ここで死ねと、計らってくれたということだ。
実にありがたい話だと、胸を痛めながら思い直す。
言い聞かせるしかない、自らに。
薄目を開け、朱炎を見た。
鬼の本能を剥き出しにしたその姿。瞳は紅く発光し、口元に極太の牙を覗かせていた。
耀は緊張のあまり息を呑む。
皮膚を突き破られる瞬間を想像し、なぜかぞくりと粟立ってしまう。
(朱炎様……)
牙が、首筋に触れ――
身体が硬直する。
「……っ……」
鋭い痛みが走った。
しかし、想像していたような行為と異なる。
流れ出す血を舐め上げられ、舌が這う感覚に身体が震えた。
力が抜けて崩れる身体。
それはしっかりと支えられる。その腕に温もりがあり、手つきに優しさがあった。
殺されるのではないと分かった。
恐怖と苦悶は反転し、捧げることが快楽へと変わっていく。
甘美な感覚に体を囚われ、耀は抗う力を完全に失った。
❋❋❋
朱炎の牙が滑らかな肌を何度も貫く。
その度に耀は鼻にかかるような吐息を漏らしていた。
「…………しゅ……え……さま……」
やがてぐったりとした耀が声を絞り出した。
朱炎は耀の頬に手を添える。
「どうした、限界か?」
そう言い終えると、右手を上げた。
屋敷に火が放たれる。
乾いた木材が轟々と燃え、炎は瞬く間に広がった。
動けずにいた耀だったが、この展開には驚きを隠せない。人との関わりを探すために来たのではなかったのかと、声にできない代わりに朱炎の着物を掴んでいた。
朱炎は耀を抱きしめ、低く答える。
「構わぬ。気が変わった」
――なぜ?
耀は眉根を寄せて朱炎を見上げる。
朱炎はさらに言葉を重ねた。
「過去にこだわる必要はない。私が見ているのは、もっと先だ」
そう言って耀を抱えて外へと連れ出す。
少し離れた茂みのあたりで腰を下ろし――
「よく見ておけ」
耀の顎を掴み、燃え盛る屋敷を正面から見せつけた。
それは、過去を焼き尽くす炎だった。
耀が目を逸らすことは許されない。
「お前の過去は、ここで終わる」
「…………」
言葉を失ったまま、炎を見つめ続ける耀。
耳元に囁かれた言葉は残酷でありながら、不思議な温もりを帯びていた。
だからこそ本当に、ここで終わったのだと理解した。
耀は朱炎の腕の中で、かすかに頷く。
――この方に、恩を返さねばならない。いつかこの地に戻らなければ。
人と鬼の共生の地。




