45.共生の地と耀の過去(8)
「ならば、私が出向いてやろう」
「…………」
青髪の鬼が顔を上げた。
その瞳には驚愕と畏怖、抑えきれぬ動揺が渦巻いていた。
朱炎の口端が愉悦に歪む。
――そうだ。その顔だ。魂を揺さぶられたかのような、その表情が見たかった。
「立て」
空気を引き締めるように強く放たれた短い命令。周りの鬼達は、何かを悟ったかのようにそそくさと気配を消した。
残された青髪の鬼は、命令に従おうと膝を立てるがうまく力が入らない。
体力的な問題か、それとも何か、恐れているのか。
視線も泳いでいる。術が解かれた今、自身の意思で主の元に戻るには不安が大きいのかもしれない。
朱炎はしばらく待っていた。
やがて青髪の鬼が自身の足で立ち上がると、朱炎は「案内しろ」と命じた。
返事は無く、反応も悪い。歩き出すまでにも時を要したが、朱炎がそれを責めることは無かった。
青髪の鬼に前を歩かせ、朱炎は背後から静かに歩を合わせる。
夜の森を静かに進んだ。
ざわめく葉の音も今夜は小さい。
その静けさを破ったのは朱炎だ。
「なぜ……お前のような者が喰羅にいる」
突然の問いに戸惑う青髪。朱炎はその艶のない青髪を見て目を細める。
「その髪、その眼。お前は喰羅の血ではあるまい」
朱炎が追及するも、返るのは沈黙だけ。
「言えぬか……」
「…………」
また二人はしばらく歩いた。しかし、川に近づき、さらさらと水の流れる音に乗せて、途切れ途切れの呟きが聞こえる。
「……殺……されて……残った、一人……自分が……」
まるで自分の意思で口を動かしたのが久方ぶりというように、話しづらそうだ。
朱炎はこれを機に、問う。
「どこの出身だ?」
朱炎が最も尋ねたかった事である。
青髪の鬼は足を止めた。遠くを見ている。
朱炎も続いて足を止めた。
やがて青髪の鬼が口を開く。
「……人と鬼…………人と鬼の……地で……」
朱炎は続きの言葉を待っていたがそれ以上は話されなかった。
だが、これで確信した。
目の前の鬼は、朱炎が欲していた鬼である。
かつて耳にした、特異な鬼一族がいた事を。
人間の貴族と交流し、勢力を広げた一族。
「鬼の貴族」と呼ばれ、少しばかり有名であった。
「知性」を培い、受け継ぐ青鬼一族。
朱炎はかつてこの「知」の鬼を喰いたいと思っていた。
しかしその一族はいつの間にか途絶えたと聞いた。
だが、今、目の前にいる鬼は間違いなくその生き残りだ。
「名は、なんと言う」
朱炎が、青藍の瞳を真っ直ぐに見つめた。
「……耀……と……申し、ます……」
薄暗い森の中。
耀は羅刹の元に戻る道中、何度も後ろを振り返っていた。朱炎の存在を確認するために。
その度に、ぎらりと光る赤い瞳。
目が合えば、耀は唾を飲み込んでいた。
やがて、木々の間から屋敷の影が現れる。喰羅族の屋敷だ。
「こちらです…………」
しかし、耀が振り返り、声をかけた時――
朱炎の姿はそこになかった。
茫然と立ち尽くす耀。胸に、冷たい痛みが広がる。
(……やはり。そうか)
怒りよりも深い悲しみに囚われた。
耀は全てを諦めて、一歩、屋敷の庭へと足を踏み入れた。
――任務に失敗した。
おそらく酷い折檻を受けるだろう。
けれど、それももう、いつものことだ。
❋❋❋
バサッ――
耀の身体が、投げ飛ばされて庭に転がる。
視界がじわりと赤に染まった。
生暖かな血が頬を伝い、目に入り込んだ。拭う力もなく、耀はただ瞼を閉じた。
羅刹からの体罰など、日常の一部に過ぎない。
だがこの日の打擲は苛烈を極めていた。
すぐ癒えるはずの小さな傷すら疼き続け、身体の自由が奪われていく。
意識は遠のき、世界は揺らぐ。
死ぬだろうか――ああ、死ねるかもしれない。そんな思いさえよぎる。
途切れては繋がる曖昧な意識の中で、夢か現実か分からなくなっていった。
❋❋❋
朱炎は森の茂みに身を隠していた。
喰羅族、羅刹。醜悪だが強さはあると聞いていた。
――さて、どれほどの相手か。
朱炎はそれを見極めるために、気配を消して観察していたのだ。
そして見た。予想通りの展開であった。
庭先で頭を下げ続ける耀に、羅刹が体罰を加えている。ただ適当に殴る蹴る。何やら武器で差しまくる。
そのやり方は美しさの欠片もない。
朱炎は羅刹の粗雑な責め方に、腹を立てた。あの素材であれば、もっと美しく痛めつける事ができるだろうにと。
また、拘束も無いのにひたすらに体罰を受け入れる耀も煩わしく思う。大人しく平伏したまま、抵抗もせず、全てを諦めたような表情を見せている。
これでは何一つ、面白くない。
さらに、羅刹以外の鬼達までもが手を出す始末。
このままでは耀が死ぬと分かる。
――死なせるものか。
耀が意識を手放した頃、朱炎はその姿を現した。
羅刹の動きが止まり、周りの鬼達が息を呑む。
凄まじい圧を放つ、朱炎。
羅刹は「ほう?」と興味を示した。
朱炎が告げる。
「なぜ失敗と言える?」
朱炎の声が、夜気を裂くように低く響く。
「私はこの通り、攫われてここに来ているが? この者の働きを褒めるべきではなかろうか?」
羅刹はわずかに眉を動かしたが、すぐに口角を吊り上げる。
「……これはこれは朱炎殿、名の知れたお方と、こうして言葉を交わせるとは、羅刹一族の誉れよ」
朱炎はゆるりと目を細めた。
「……羅刹よ。強き鬼の血を欲するのは鬼の性だ。私もお前を喰らうに値するかもしれぬと確かめに来てやった」
「……あ?」
羅刹の牙が、がたりと動く。
朱炎は軽く首を傾け、吐き捨てるように言葉を落とし続ける。
「力はあろう。だが、品がない。下卑た笑いに、粗雑な振る舞い。そのような者を喰らう気にはなれぬ」
「……なんだと」
羅刹の顔がぴくりと引きつる。
朱炎は淡々と続ける。
「阿呆を喰えば、己も阿呆になる。私は下劣なものを口にする趣味はないのでな」
「……ふん、減らず口を。朱炎よ、よく聞け! 我に呑まれるのはお前の方だ!」
朱炎はわずかに口角を上げた。
「……良かろう、ならば――」
その声音はあまりにも静かだった。
刹那、朱炎の影が一閃した。
朱炎は距離を詰め、羅刹の口腔へ拳を突き入れる。
「喰えばいい。お前が欲しているのは私の力であろう?」
「……なっ」
「ああ、存分に喰らえ」
愉悦に濡れた声音とともに、朱炎は自らその拳を切り離した。
羅刹は咄嗟に飲み込み、次の瞬間――
絶叫した。
膨れ上がる肉体。血管が裂け、皮膚が破れ、異形へと変貌していく。
耐えきれぬ力に呑まれ、羅刹は瞬く間に悪鬼へ堕ちた。
手下の鬼たちが次々と喰われる。
悲鳴と怒号、肉の裂ける音が屋敷を満たした。
朱炎はただ静かに愉悦の笑みを浮かべていた。
切り離した手首は、もう完全に復活している。
屋敷全体が、戦場のような騒然に包まれていた。
気を失っている耀の耳に届く。
(……何が……起こって……)
耀が重い瞼をこじ開ける。
曖昧な意識の中、ぼんやりと視界に映るもの。
そこに立っていたのは――
あの朱炎。
まさか本当にこの場に来たのかと疑う。
確かに共にこの屋敷を目指したが、幻覚のようにも思えていた。
伝説と恐怖の代名詞、朱炎。
その実体が、目の前にある。
紛れもなく本物。
朱炎の視線の先では、羅刹が狂乱している。悪鬼に堕ちたその姿は、配下を喰らい、屋敷を破壊する獣そのものだった。
そして、それを見つめる朱炎は――。
静かに笑みを漏らしている。
いや、愉しんでいる。
地獄を見物するかのように。
耀は震えた。痛みのせいではない。本能が、命の根源が震えてしまう。
(……この鬼は……何者だ……)
強さだけではない。
まるで運命そのものを手にしているかのような、絶対の存在。
朱炎が片腕を掲げた。
炎が爆ぜ、屋敷全体を呑み込む。
炎光に照らされたその顔は――。
まるで、神のようだ。
破壊と支配を司る、恐るべき神の貌。
「よく見ておけ。お前の主の最期をな」
遠くから響いた朱炎の声。
耀は朱炎の視線の先を見る。
(……最期)
豪炎に覆われた羅刹は断末魔を上げている。
屋敷全体が炎に囚われ、逃げようとした者も炎が絡みつくようにして逃さなかった。
やがて朱炎が耀に振り返る。
炎の渦を背負い、悠然と立つ姿は揺るがない。
「…………」
耀は声を失い、泥に伏す。
朱炎は眼を細め、低く告げた。
「私の元に来ないか?」
轟音と火の粉の中、その誘いはひどく静かに落とされた。
耀はただ恐怖に凍りつき、答えることができなかった。




