44.共生の地と耀の過去(7)
閻王の屋敷
広間は、重い沈黙に包まれている。
厚い柱と岩の壁に囲まれ、火を焚かずとも空気は熱を帯びている。
閻王を中心に、側近たちが列座し、各地の鬼の動向や異形の兆候を巡って議論が交わされていた。
朱炎もその場に座していた。だが、彼の眼差しは話題に留まることなく遠くを見ている。
朱炎は突然、立ち上がる。
「朱炎様」
閻王の側近の一人が、慌てて注意を促す声を上げる。話し合いの最中に立ち上がるなど礼を欠く行為であると。
しかし朱炎は薄く笑い、冷ややかな視線を投げた。
「……ふん、耳も目も節穴か。これほどの鈍さで父の傍に仕えるとは」
その声音には、あざけりと苛立ちが混じっていた。側近たちは互いに顔を見合わせ、戸惑うばかり。
「父上もまた、随分と鷹揚な御身だ。これほどの気配すら見逃して、よく玉座に座していられる」
「朱炎様! あまりにも無礼が過ぎますぞ」
また一人の鬼が声を荒げた。
だが、閻王は低い声でただ一言。
「よい、好きにさせておけ」
閻王は軽く頷き、朱炎を制止することなく放任した。
朱炎の唇が吊り上がる。
彼は、座したまま動かぬ父とその配下を一瞥し、嘲るように背を翻す。
居室には、彼が去ったあともしばらく刺すような緊張が漂い続けた。
朱炎が感じ取っていたのは、殺気ではなかった。だが、確かにこちらへ迫ってくる気配。
殺伐とした恨みが混じり合いながらも不思議なほど無に近い気配。通常の鬼どもが放つ荒々しさとは次元が違う。どこか歪んだ存在感。
外に出て夜空を見上げれば、青白い月が黒い靄の中を急ぎ進むように見える。おそらく、風が強いのだろう。
「匂う……」
繊細だが迷いのない真っ直ぐ匂いと隠しきれない色の香。わずかに、風によって運ばれてくる。
朱炎は気配を消して闇に紛れた。
ここで待ち伏せし、捕らえようと。
やがて。
夜の庭に影が走る。
見かけたのは群青色の装束に青い髪、白い肌。闇の中の月が雲に隠れたまま忙しなく進むように見えるおかしな現象のよう。
その異様な姿を一瞥し、朱炎は悟る。——下級の鬼ではない。
すぐに捕らえることもできたのだが、朱炎はわざと距離を取り、泳がせた。興味が勝ったのだ。
青髪の鬼は慎重に、知恵ある動きで影を縫うように進んでいる。足跡を残さず、視線を避け、逃げ惑う小動物のように隙を突く。
奇妙なその足取りは、子供の鬼の棲む離れの小屋へと向かっていた。
朱炎の眼が細められる。
そして、青髪の鬼が小屋へ入る直前――
「そこまでだ」
低く呟き、青い影を捕え、押し潰した。
青髪の鬼はもう逃げられない。朱炎の手がその体を捉え、闇の中へ引きずり込む。
地下の岩場。
朱炎が拷問に使う閉ざされた空間だ。
青髪の鬼は縛りつけられても恐怖する事なく、瞳は淡々と朱炎を映している。
「さて、聴かせてもらおう。何をしに来た」
口を割らない青髪の鬼に、朱炎はあらゆる責め苦を与えた。
日を跨いで続く拷問。
朱炎の手にかかればどんな鬼も絶叫し、悪鬼へと堕ちるのが常だった。だが、青髪の鬼は呻き声ひとつ上げなかった。
痛みをまるで感じていないのか。傷は異様な早さで回復し、悪鬼に堕ちる気配すらない。
「……つまらん」
――あの鬼、あまりにも反応が悪い。
朱炎は青鬼を放置して一度地上に戻った。
「また変な遊び道具を見つけたようで」と父の側近が愚痴のようにこぼしていた。
そこを朱炎はわざと横切り、冷笑を含ませて吐き捨てる。
「あれは外れだ。それとも、お前が代わりを務めるか?」
閻王は朱炎に「ほどほどにしておけ」と言い放ち、配下とともに去っていく。
このあと、朱炎の拷問は苛烈を極めた。それでも青髪の鬼に変化はない。
もはや死者を責め苛んでいるかのようだった。
朱炎の苛立ちは日に日に増す。
時折、閻王の配下が一度様子を窺いに来たが、朱炎の狂気に触れるのを恐れてすぐに引き返していった。
朱炎の手が止まる。
何をしても反応が無い、目の前の若い鬼。
やがて朱炎の苛立ちは興味へと変わり始める。
拷問部屋はひどく静かだった。
「貴様……死なぬ呪いでも受けているのか」
嘲笑混じりに吐き捨てた瞬間、初めて青髪の鬼の目がわずかに見開かれた。
朱炎はその変化を見逃さなかった。
気づきは呪いを解くきっかけとなる。
再び責め苦を与えると、傷の治りは遅くなり、残り始めた。
表情は依然として淡々としている。だが、どこか安堵すら浮かべているように見える。
死を待ち望むかのように。
朱炎は気を凝らした。
細い首に巧妙に隠された術具を見つける。黒い金属の首輪。
「……なるほどな」
手を翳し、火の気を送り込んだ。呪術は焼き払われ、ただの首輪として残る。これは所有者が生きている限り外れない物だろうと理解した。
この時、青い瞳がわずかに揺れていた。
朱炎は手下を呼びつけた。
「この鬼はもういい。追い返せ」
そう命じ、自らは背を向けた。
自室に戻った朱炎。
庭に背を向けても背中越しに感じ取れる、あの者の初めての抵抗。
山の麓まで降りたと思われるが、青髪の鬼は何度押し返されても嫌だと叫び、足を踏ん張っているようである。
――ようやく面白くなってきた。
朱炎は込み上げる嗤いを止められない。
口角を上げると、すぐに現場へと移動する。
複数の鬼が青髪の鬼を押し立てていた。
「帰れ。もう用はない。二度と来るな!」
青髪の鬼は「嫌だ、嫌だ」と叫び、必死に抗っている。
朱炎が近づく。
一斉に動きが止まった。沈黙が落ちる。
青髪の鬼は膝をつき、項垂れた。
「……殺してください」
朱炎は冷ややかに見下ろす。
「……もう一度問う。誰の指示だ。何をしに来た」
青鬼の鬼は俯いたまま、震えていた。
朱炎は待つ。
やがて消えかかりそうな声がする。
「……喰羅族……羅刹……。申し訳……ございません……」
土下座する姿に、周囲の鬼は顔を見合わせていた。
朱炎の眼光は鋭くなる。
喰羅族――羅刹。鬼を喰らい、一族を皆殺しにするという、忌まわしき一族。
醜悪な姿と伝え聞いていたが、目の前の鬼はその伝承とは似ても似つかない。だが、全てが合点がいった。
さらに青髪の鬼は、声を絞り出すように続けた。
「……誰でも……いいから、攫ってこいと……命じられました」
聞いて、朱炎は喉を鳴らし、盛り上がる嗤いを抑えきれずに漏らした。
その嗤いは喜悦とも侮蔑ともつかず、その場にいる鬼たちの背筋を凍らせる。
夜空では厚い雲は晴れ、月の光が二人の間に差し込んだ。
真っ赤な瞳を、蒼白い月光が照らし出す。
狂気で昂った鬼の顔――――
「ならば――私が出向いてやろう」




