41.共生の地と耀の過去(4)
岩屋に満ちる怨気は濃く、重く、冷たい。
その只中で、朱炎の声だけが異様に鮮やかに響いた。
「もちろんだ」
堂々たる返答に、紅葉は目を細める。
「……ふん」
だが次の言葉を口にせず、ただ耀の顎を掴んだまま、耳飾りを弄んでいた。
洞穴には、かすかな声が零れている。
それは苦痛の呻きか、それとも熱に浮かされたような吐息か。
「……面白い子よ」
紅葉は朱炎の話を真剣には聞いてない。それよりも、耀の反応見て愉しんでいる。
耀は雷撃に痺れながら、敏感な耳を撫でられ続け、耐え切れずに声を洩らしていた。
「全く……よく躾けられておるのだな。なに……ここが良いのか?」
紅葉の声は愉悦に濡れていた。
爪は耀の耳朶や首筋をなぞる。
やがて、朱炎がふっと嗤う。暫し紅葉を遊ばせていたが耀の艶めいた声が次第に大きくなったため、止めに入る。
「紅葉。お前の望みを叶えてやろう」
王の言葉に、紅葉の指先がわずかに止まる。
しかし、すぐに耳朶をふにふにと揉みながら、かすれた笑みを浮かべた。
「……妾の望み? だが、それと引き換えに何を求めるのだろう。妾とて容易く言葉に踊らされはせぬぞ」
挑むような声に、朱炎は淡々と問い返す。
「ならば問う。このまま、ここに留まっていていいのか」
紅葉の顔が、僅かに動いた。
「……何を申す」
「浮かばれぬ怨念に縛られ、醜い姿で。生きるでも死ぬでもなく、ただ留まる。――それでよいのか、と聞いている」
沈黙が落ちた。
洞穴に残るのは、耀のくぐもった息遣いと水滴の音。
やがて紅葉の声が低く震えた。
「お前に、何が分かるというのだ……妾の、何が」
その響きには怒気と共に、かすかな怨嗟を孕んでいた。
紅葉はふと遠い日を思い起こす。
かつて京の都に暮らしていた。異能を持ちながらも、人として生き、人として人を愛した。
しかし、ある日突然追放された。一人の武将を愛し、愛されすぎたためだ。
悲しみに暮れたが、流れ着いたこの地の村人達と交流し、次第に心を癒した。
そして、都で宿した子をこの地で産み、育てた。
息子は立派に成長した。
そして紅葉は、都にいる父に会わせてやりたいと考えたのだ。
そのためには金を得ねばならなかった。
そこで、村では良い顔を保ちながら、他所の土地では悪事を働く。
それをずっと繰り返した――人としてあるまじき行為。
やがて、人々は紅葉を恐れ、鬼と呼んだ。
いつしか鬼の心を持って生きていたのだ。
そして――ついに。
都から討伐の手が伸びた。
炎に包まれる中、息子の叫びが耳を裂いた。刃に貫かれる姿を、目の前で見せられた。
胸を裂く痛みと共に、紅葉もまた首を切り落とされた。
ただ愛しただけなのに――。
その恨みが紅葉をこの世に縛りつけ、今なお怨霊として留めている。
「……妾は人間よ。鬼などではない」
紅葉は呻くように呟いた。
しかし朱炎は冷ややかに返す。
「ならば、その姿は何だ。怨みに縛られ、醜悪な影と成り果てた。それこそが鬼ではないか」
紅葉は歯を食いしばった。
だが朱炎の言葉は止まらない。
「怨みを晴らそうとは思わんのか。お前を殺した者どもに、息子を奪った人間どもに」
「…………」
「もう一度、生きてみたいとは思わぬか。我々と共に――次は、鬼として」
その響きは、岩屋の奥底まで染み入るように広がった。
紅葉の手が止まる。
「……もう一度、生きる……鬼として……」
その言葉は、彼女の胸奥に深く刺さった。
忘れていた心臓の鼓動が、かすかに蘇るかのように。
紅葉は目を閉じ、しばし黙した。
やがて、低く問う。
「……では、お前の望みは何なのだ。妾を呼び覚まし、言葉を交わすその裏に、何がある」
朱炎は、口角をわずかに吊り上げた。
「我が妻が、そちらに住まう。守ってやってほしい」
「……妻、だと」
紅葉の眉が動いた。
「詳しいことは、お前が今触っている子の耳にある」
紅葉は手元を見やった。
ぐったりと項垂れる耀。その耳に、光を帯びる耳飾り。
「……そうか。この耳飾りは……」
「そうだ、紅葉。その耳飾りは、私からの文だ」
朱炎の声が重なった。
紅葉の瞳が揺らぐ。
爪を動かせば、容易にこの耳飾りを奪える。針を指に刺せば、朱炎の意志を余すところなく読み取れるだろう。
だが。
耀の顔が悲しげに歪んでいた。
朱炎との繋がりを引き裂かれることを恐れるかのように。
紅葉は小さく息を吐き、手を引いた。
「……そうか。では考えておこう。ただし、まだお前たちを信じると言った覚えはないのでな」
朱炎は揺るがぬ声で答える。
「構わぬ」
次の瞬間、耀の瞳に映る朱炎の姿が掻き消えた。
洞穴に残るのは、怨気の気配と、耀の荒い呼吸だけ。
雷撃は止み、耀はその場に横たわったまま。胸を上下させ、荒い息を吐いている。
紅葉は静かに彼の頭に手を置いた。
その掌からは、痛みを和らげるような柔らかさが滲んでいた。
「お前は……これで良いのか」
紅葉の声は、先ほどの嘲りとは違う。
情けを孕んでいるかのような穏やかな声。
「――あの狂った男の、何が良いのだ」
耀は目を伏せた。
脳裏に過ぎるのは、朱炎に初めて出会った日と羅刹の最期。
「……この命は、朱炎様の……ために……私は、生かされた身……ゆえ……」
紅葉はしばし彼を見下ろし、小さく吐息を洩らした。
「……少し、眠ると良い」
紅葉はそう言って耀の瞼に手を翳した。




