40.共生の地と耀の過去(3)
耀は岩山の裂け目に身を滑り込ませた。
今、祠守が指し示した場所に来ている。鬼女・紅葉の魂が眠るという岩屋だ。
しかし。
暗い洞穴を前に、耀は立ち止まった。
妖気も気配も、何も感じられない。あまりに不自然な静けさだ。
「……ここではないのか」
耀は岩山を迂回し、別の洞穴を探すことにした。
少しばかり崖を登る。
すると影が満ち、空気がすんと冷えたのが分かった。
(……何か……感じる……)
たどり着いたかもしれない。
目の前には、木の札がいくつも立てられた怪しげな洞窟があった。
その奥から漂う気配に耀は直感した。
(ここか……)
迷わず足を踏み入れる。
岩肌から滴る水は、音までもが肌に纏わりつくように粘り気がある。
(気が淀んでいる。あまり、長居はしたくないな……)
突然だった。
――――!!
鋭い痛みがこめかみを締めつけた。
視界が波打ち、光がちらつく。思わず額を押さえてしまう。
「…………いるのか」
声を絞り出すが、返事はない。
呼びかけても、その声は闇に吸い込まれるばかりだった。
(どうやら……間違いないな……)
頭痛は治まらない。しかし奥へと進まなければ。
耀は苦しみながらも一歩を踏み出した。
その瞬間――。
奥から閃光が走った。轟音とともに稲妻が炸裂し、石壁を爆ぜさせる。
「ッ……!」
咄嗟に跳び退いた耀の足元に、黒い焦げ跡が広がる。空気には焼けた臭いが漂った。
だが、攻撃は止まらない。雷光は容赦なく落ち続ける。
必死にかわすものの、頭痛で動きが鈍り、視界は暗く滲みはじめる。
(このままでは……!)
そう思ったのと同時。
稲妻が直撃した。
轟音とともに、耀は地面へ叩きつけられる。
「……ッぐ……!」
背を打ち、転がり、全身に電流が走る。筋肉は痙攣し、這いつくばったまま動けなくなる。
「……っ……!!」
呻く耀の前に、濃密な闇が集まりはじめた。それは人の形を失った巨大な怨気。
そこから伸び出てきた大きな手は異形と言える醜いものだった。
その手が耀の顎を強く掴んだ。
「何者か……妾を呼び覚ました……」
低く濁った声。女の声でありながら、人の響きを逸脱している。
(これが……紅葉様……)
耀は用件を告げたかったが雷の術が身体を蝕み、舌が痺れて答えられない。
「……そうか、答えぬか」
違う、話をしたいのだ。術を解いてくれ。そう願う耀の思いは、伝わらなかった。
ふと、鋭い爪が耳元へ滑り、視界を共有するための耳飾りに触れた。
耀の胸に焦りが走る。
(やめろ……! それは……朱炎様からの……)
抵抗しようとしても体を動かすことができない。
その爪は朱炎の針をなぞり、耀の耳朶をふにふにと弄んだ。
「っ……っ!」
耀の瞳が潤む。
紅葉の喉から、くっくっと嗤う声が響いた。
「ふふ……若いの。耳を赤らめおって……可笑しな鬼よ」
耀は敏感な耳を弄ばれる。雷撃の痺れと重なって、身体の奥から奇妙な疼きを感じてしまった。
「……っ……!」
紅葉は愉快そうに笑った。
「この耳飾り、ただの品ではあるまいな」
(そう……これは朱炎様と繋がる……大切な……)
耳が、身体が熱を帯び、意識が遠くなっていく。
そのとき――。
「ほう……」
興味深げな声が響き、怨念の影は徐々に女の姿をとり始める。
痩せ細り、爛れた皮膚に乱れた髪。眼窩からは黒い炎が漏れている。
醜い老婆のようでもある。
姿を現した紅葉は耀の顔を両手で持ち上げ、深く覗き込んだ。
耀の左目。
青い瞳の奥に――別の影が映っている。
「…………誰だ」
耀は答えられない。だが、分かる。
漆黒の着物を纏った鬼の王。
朱炎だ。
脳裏に無理やり流し込まれる映像で、見ることができるらしい。
耀の自我は遠のいており、ただ遠巻きに眺める感覚だった。
朱炎が紅葉に向けて言葉を放つ。
『我が使いだ。あまり強く痛めつけるな』
堂々とした声に、かすかな笑みが帯びている。
紅葉の目が細められた。
「無礼な。まず挨拶が先であろうが」
怒気を含んだ声が轟き、岩肌が震える。怨気は濃さを増し、雷光が耀の体を打ち続けた。
(……朱炎様……!)
耀は心の中で叫んだ。
だが、朱炎は耀に構うことなく挨拶を交わした。このまま、紅葉との対話を進めるようだ。
「しかし、朱炎。まずは術を解けと頼むのが主の務めであろう? この小鬼が壊れてしまうぞ」
嘲笑うように紅葉が煽った。
それに対し、朱炎は涼やかに答える。
「心配には及ばぬ。この子は痛みに強い」
耀の脳裏に映る朱炎は、わずかに口角を上げていた。
紅葉は裂けた口を大きく開け、嗤うしかない。
「使いが嬲られる様を愉しむか。ずいぶんと歪んだ絆よのお」
言い終わると同時に紅葉の怒気は弱まった。
耀の身体を侵している雷撃もほんのりと和らぐ。
だが。
耀はかえって痛みよりも快楽の溝へと落とされてしまう。
(……朱炎さまっ…………!)
岩屋の奥で、鬼の怨霊と鬼の王が相まみえる。
耀はその媒介として、朦朧とした意識のまま、瞳に映される光景を見ていた。
「……さて。何の用ぞ。妾を叩き起こしてまで。つまらぬ話ではあるまいな」
朱炎は片眉を上げ、静かに返した。
「もちろんだ」




