39.共生の地と耀の過去(2)
耀は隣村へ向かうため、静かな森を歩いていた。
探すのは鬼女紅葉。
朱炎の妻と同じ名を持ち、同じく人から鬼へと堕ちたと伝えられる女鬼だ。
噂だけは耳にしていた。強大で、誰も近づけぬほどの圧を放つ鬼だと。この辺り一帯を震撼させるほどだというのに、その気配はどこにも感じられない。
それほどの鬼ならば、隠すことなどできぬはず。
なのに──。
耀は足を止め、眉をひそめる。
視線の先、木立の奥に苔むした石段が見えた。その先に、ひっそりと社が建っている。
「……青鬼大明神社」
掲げられた扁額は立派だが、社殿は小さく、二間ほどの質素な造り。
黒ずんだ木壁、苔を抱えた屋根は、長年の雨風を物語っていた。
耀はその佇まいを仰ぎ見た。
(……これは)
かつて、この地には青鬼の一族が住んでいた。耀の一族だ。
人と共に耕し、祭りをも楽しんだ。
しかし、この地にもう青鬼一族は居ない。
村人はその縁を、思いを、この社に残したのかもしれない。
(…………)
風が梢を揺らす音の中──。
かすかな箒の音が聞こえてきた。
しゃり、しゃり、と乾いた葉を集める音。
境内の端に、背を曲げた老人がいた。竹箒を動かし、落ち葉を集めている。
白髪の頭を揺らしながら、真摯に掃き続けている。
耀が老人の元へと近づく。
老人はふと顔を上げ、耀を見た。
がたり、と箒が石畳に落ちる。
「……あ、あお……青鬼……様……?」
群青の光を放つ髪。その髪の色を目にし、老人は硬直し、膝を折った。
恐怖、驚き、信じられぬ思いがないまぜになり、ついには地に額を押しつける。
「……まさ……まさか、とは……思います、が……しかし、青鬼……様……」
老人は混乱しているようだ。
耀は無言で見下ろしている。睨むでも、威圧するでもなく、ただ静かに。
やがてさらに歩み寄り、声をかける。
「……お前は、この社を護る者か」
「は……は、はい……代々、この社を守る祠守の家系にございます。祖先より、鬼の一族に救われた恩を伝え続け……」
耀は目を細め、頷く。
「……話を聞かせてほしい」
「は、はい……! 粗末な家ではございますが、どうかこちらへ……」
案内されたのは社殿の隣に寄り添うように建てられた小さな建物。
木造の簡素な屋敷だが、手入れは行き届いている。
奥の間に通された耀は正座して待つ。
その姿は、鬼でありながら、人の作法に従い座すという、老人から見れば奇妙な姿として映った。
老人はしばし迷うように耀を見つめ、やがて、語り始めた。
「……昔、この村を鬼の群れが襲いました。人も鬼も喰らう恐ろしい一族──喰羅族と呼ばれております」
耀の瞳がかすかに揺れた。だが口を挟まず、耳を傾け続ける。
「その時、ひときわ大きな青鬼様は……喰羅族から村を守るため、力を振るわれました」
耀はそれが自分の祖父だとすぐに理解した。
老人の話は続く。
「戦いが激しくなる頃、喰羅族に一人の幼い鬼が捕まりました。その時、青鬼様はこう仰ったのです、その子を差し出す代わりに、村人は襲うなと……」
耀の胸に、幼き日の記憶が蘇る。
「……そして、幼子ひとりが連れ去られたと」
耀は思い出す。喰羅族の長――羅刹に抱えられ、遠ざかっていった光景を。
指先が微かに震えた。
老人は一息つき、続ける。
「ですが喰羅は卑劣でした。約束を破り、村人にも牙を向けました。そこで最後まで抗った青鬼様は、命を落とされたのです」
老人の目に涙が滲む。
「村は救われました。ゆえに我らは青鬼様を神とし、この社を建て、祀り続けてきたのです」
沈黙が落ちる。
耀は黙っていた。
やがて老人は、ためらいがちに問う。
「……もしや……」
「…………」
「もしや……攫われた幼き鬼というのは……」
耀は答えず、瞼を閉じただけだった。
それだけで十分だった。老人は深く平伏した。
「……っ、なんと……なんと……」
老人はしばらく床に額を押し付けたまま、嗚咽をこらえるように声を震わせる。
「……こうして生きて、この地に戻られたと…………っ、青鬼、様……」
老人はなおも感謝の言葉を繰り返していたが、耀は何ひとつ応えなかった。
やがて、老人の言葉を遮って耀が問う。
「……このあたりに、強い女鬼がいただろう。名は紅葉。その行方を知っているか」
「……鬼女紅葉様のことにございますか」
「ああ、そうだ」
「……あの方は、討たれました。都から来た武士に……」
「…………」
「……ですが」
老人は囁くように付け加えた。
「魂は岩屋に留まっていると……そう申す者もおります」
耀の眉が吊り上がる。
「……岩屋。その場所を教えてくれ」
「……はっ」
老人は震える指で北の方角を示した。
「この先……」
岩肌に穿たれた大きな穴。その奥が隣村に通じている。通り抜ければ別の岩山が見え、さらに裏へ周って奥に進めば、目的の岩屋がある、と。




