38.共生の地と耀の過去(1)
小径を抜けると、木立の影がふっと途切れて視界がひらけた。
そこにひっそりと佇む古びた屋敷。耀にとっては、見覚えのある建物。
(……懐かしい)
耀の祖父と人間の貴族が協力して建てた隠れ処だ。
長い時を経てなお、その骨格は優美と威厳を保っている。
耀は幼いころ祖父に連れられて何度か遊びに来たことがある。貴族は別荘として使い、鬼は遊戯の場として使った。
鬼と人とが交わる稀有な建物であった。
だが今はもう、人気の気配もなく、空気が澱んでいる。柱の木肌は痩せ、庭の苔はしっとりと湿りきり、生命の巡りが停滞している。
耀は柱に手を当てた。
木肌は冷たく、力を失ったように乾いていた。
(……気の流れが途絶えている。)
掌に感じる虚ろさに、胸が少し痛んだ。
耀は目を閉じて、意識を掌に集中させる。水の気を送るために。
「うわぁ……広ぇ!」
「すごい……! ここに住んでいいの?」と、背後から、駆け込んでくる二人。
火土丸が弾む声をあげて屋敷に飛び込む。紅土も続いた。
次の瞬間、耀ははっとした。
掌に感じる。
木の幹が――かすかに脈打つ感覚。
(……?)
気づけば、屋敷全体が息を吹き返すように、じんわりと力を帯び始めていた。
紅土と火土丸。二人の土の気を感じて、木々がそれを吸い上げたかのように。
(……まさか)
水が木を育てる。木は土から養分を得る。三つの気が交わり、枯れかけた屋敷に再び息が通り始める。
(朱炎様……あなたは、ここまで読んでいたのか?)
朱炎の指示――火土丸と紅土を同行させたのには理由があった。その意味の一端に気づく耀。なぜか耳が熱を帯び、昂る気持ちを抑えられない。
「朱炎さま……」と小さく口にして、気を鎮めた。
「耀! ここ、いいな! 涼しい!」
耳に飛び込んでくる火土丸の無邪気な声。
火土丸が床にごろんと寝転ぶと、紅土も隣に転がった。
「……ここなら涼しい……もう動きたくない……」
耀はわずかに口元を緩めた。その後、二人に告げる。
「少し休んだら……掃除を頼む。ここは朱炎様と紅葉様の旅の宿となる。綺麗に整えておかねばならない」
二人は顔を見合わせて「えーっ」と声をあげたが、結局逆らわずに頷いた。
耀は続ける。
「私は次の場所へ行く。……すぐに戻る。この場所から離れぬように。いいな?」
火土丸が元気よく手を振る。
「わかった! 耀、はやく戻れよ!」
紅土はあくびをしながら小さく「……気をつけて」と呟いた。
耀は静かに頷いて、屋敷を後にした。再び山の奥へと歩み出す。
***
一方その頃。
烈炎は、蓮次を脇に抱えたまま、結界の外へと足を進めていた。
「おい蓮次。目ぇ開けとけ。自然ってやつを見せてやる」
少年はぐったりと腕の中に収まり、目が虚であった。
烈炎は呆れてため息をつく。
(……ったく、どうすんだよ、こいつ)
朱炎に「虫でも見せておけ」と命じられたとき、烈炎は思わず心の中で舌打ちしていた。
(……雑すぎんだろ。全くよ……)
仕方なく、苛立ちながらも探してみる。
(お?)
ふと、ちょうどいい光景を見つけた。
一匹の虫が、別の虫に食いつかれている。もがいて、羽音を立てている。
烈炎は蓮次を降ろし、指で示した。
「見ろ。食うか食われるかだ」
蓮次の瞳が、その場面をぼんやりと映す。
羽が食い破られ、命が吸われていく。
その時。
森の影から小鳥が舞い降り、喰われかけていた虫をひと呑みにした。
「……っ」
蓮次の肩がわずかに震えた。
烈炎はその反応を見逃さなかった。
「そうだ。弱けりゃ食われる。それだけだ」
小鳥が狙うもう一匹の残りの虫。烈炎はそれを掴み上げ、鳥が嘴を伸ばす前に放り投げて逃がした。鳥は烈炎の手が伸びた時点で飛び去っていた。
「けどな――強けりゃ、助けることだってできる」
蓮次の瞳が大きく見開かれた。
その中に、わずかな光が宿るのを烈炎は確かに見た。
少年の黙り込んで考えている姿は、変化を物語っているようだった。
烈炎は蓮次の頭に手を置き、目を真っ直ぐに見て言い聞かせる。
「いいか、よく聞け。弱い奴から死ぬ」
蓮次が目を逸らした。
「生きてる奴らは全部死ぬ」
蓮次が耳を塞ごうとしたのを、烈炎は止める。
「けど――鬼は強ぇんだ。鬼ってのは、そう簡単に死なねぇよ。特に、朱炎一族の鬼はな」
一瞬の間を置いて、はっとした蓮次が烈炎を見上げた。
「……じゃあ、それって」
「おう、なんだ?」
「火土丸と……紅土も……死んでない……?」
烈炎は一瞬黙り、口の端を吊り上げた。
「さぁな」
得意げな笑みを蓮次に見せる。
すると蓮次は小さく頷き、再び森の奥を見つめた。 その横顔は、先ほどよりもはるかに生気を帯びている。
「へぇ……いい顔になったじゃねぇか」
(なぁ、朱炎! 俺様に感謝しろよな!)
虫だけでここまで教えられる自分は凄いと自画自賛する烈炎は、その後も蓮次を連れて歩き回った。
蓮次はもう、自分の足で大地を踏み締める事ができている。
「よし、もっと奥まで行くか!」
「うん!」
木々のざわめき、川の音、夕陽に照らされた緑。この美しい景色の中には、残酷な弱肉強食が潜んでいる。
捕食と逃走――。
命が交錯する場面に何度も遭遇したが、蓮次はもう目を逸らさなかった。
やがて陽は落ちて森に影が満ちる。
「そろそろ戻るぞ。真っ暗になる前にな」
蓮次を抱えて屋敷へと急ぐ烈炎。途中、蜘蛛の巣に捕らわれた蝶を見かけた。
蜘蛛が糸を絡め、蝶は必死に羽を震わせている。
烈炎は舌打ちをした。
その光景に朱炎と耀の姿が重なったからだ。
狡猾な蜘蛛に絡め取られ逃れられぬ蝶。
「……勝手にやってろ、クソが」
烈炎のぼやきに、蓮次が小首を傾げる。
「……なに? 何かあるの?」
烈炎はすぐに蓮次の頭を軽く抑え、
「お前は見なくていい」と、足早にこの場を去った。
蜘蛛と蝶は、夜の森に呑まれるのだろう。
***
その頃、耀は寄り道をしていた。
辿り着いたのは、己の過去に繋がる地。
この場所で生まれ、幼少期を過ごした。だがここにはもう何も残っていない。
全て燃やされた。
焦げ跡すら風雨に削られ、ただ荒れた大地が広がるばかり。
耀は目を伏せる。
(……ここで死んだも同然。そして私は、生まれ変わった……はず)
無意識に左耳へと手が伸びた。つい、“朱炎の針”に触れてしまう。
(朱炎様……)
だが――立ち止まってはいられない。胸に去来するものを振り払うように息を吐き、耀は顔を上げた。
本来の目的地――洞窟を抜けた先の隣村。
かつて、この辺りを震撼させた強い女鬼がいた。その鬼がまだどこかに居るのならば――見つけなければならない。
人と鬼の、未来のために。
 




