35.旅の準備(10)
朱炎の右手が、耀の耳朶に触れた。
思考する間も無く、柔らかな耳垂にちくりと小さな痛みが走った。それが合図であったかのように、左目の奥から脳天へ突き抜ける衝撃。
「……っ!!」
思わず声を漏らしそうになり、耀は奥歯を噛み締めた。
痛みこそ無かったが強い衝撃によろめいてしまう。
心臓が早鐘を打ち、呼吸が乱れる。
揺らぐ視界を押さえるように、そっと左目に手を添えた。
朱炎は真っ直ぐに耀を見つめている。耳朶へ添えた手を離そうとはしない。耀にはその行為に奇妙な温度を感じ取ってしまう。
「あの……っ」
思い出したように、耳元にくすぐったさを感じる。
「……朱炎……さま……?」
戸惑いを隠しきれずに、問うてしまった。
朱炎の手が、耀の耳から離れる。
「お前の目を借りる」
その一言に、視界の一部が朱炎に繋がれたのを、耀は理解した。己の目が、自分だけのものではなくなったのだ。
朱炎は続ける。
「お前なら、すぐに慣れるだろう」
揺るがぬ支配に侵される悦び。期待を背負わされ、生唾を飲み込む。
次の瞬間、朱炎がわずかに顔を寄せた。耳元に唇が近づく。ぞわりと背筋を駆け上がる感覚に、耀は再び息を止める。
「急ぎ戻れ……戻り次第、報いをくれてやる」
囁きは熱を帯びて残響となった。耳の奥に残るその声は、命令か、それとも褒美の予告か。どちらにしても、耀には抗う余地がなかった。
朱炎の姿は空気に溶け込むように消えた。残されたのは、熱を帯びた耳と、体中に走る余韻だけ。
取り残された耀は、ふと我に返る。
耳に残る感覚を振り払うことに集中する。荒ぶる心臓を落ち着かせ、呼吸を整えた。左目の奥は妙に発熱しているが、ただの熱だと言い聞かせる。
岩肌の下――土に完全に溶け込んでいた二つの影が騒いでいた。
「ね! ね! 見た? ねぇっ!」
紅土の弾んだ声。興奮を抑えきれない様子だ。
隣の火土丸は両手で顔を覆っている。
「う、うるせぇ……黙ってろ……!」
土中で騒ぐ二人。
耀の耳には擦れ合う土の音にしか聞こえない。
耀はすでに冷静さを取り戻し、涼しげな表情で振り返っていた。
「……火土丸、紅土。すぐに出発する。今から出られるか?」
いつもの耀だった。動揺の痕跡は消え、冷徹な任務の声に戻っている。
「はぁい」
「……おう」
じゃりっと音を立てて、二人が土の中から姿を現した。
「あ、ちょ、ちょっと待って! 準備するね!」
紅土がばたばたと駆け出し、屋敷の方へ消えていく。
耀は火土丸に集合場所を教え、紅土と揃って待つように伝えた。
そして、三人は裏庭の先の森の入口からこっそりと出発した。
朝の冷ややかな空気の中を、軽やかに進んでいく。
***
その頃、蓮次はまだ動けずにいた。
暴走することはなかった。だが、まるで燃え尽きたように沈んでいた。泣くことも、怒ることもできない。
日が高くなる前に屋内へと戻された。
傷ついた手指に布が巻かれる。
この日も、蓮次の傷はすぐには癒えなかった。
蓮次は理解していた。母があえて癒さぬのは、自分に自らの力で癒す術を覚えさせるためだと。
察したのだ。もう甘えていてはならないと。
休めと言われたが布団に横たわることはあっても、眠りはしない。母にも背を向けたまま。
紅葉はその背を見守りながら、寂しさと不安を覚えた。
自立しようとしているならば、受け止めねばならない。烈炎が蓮次を見守ったように、自分もまた、近すぎず遠すぎぬ距離で見届けるしかない。そう、言い聞かせて。
***
日差しが強くなる頃。
耀たちは暗く涼しい森を足早に進んでいた。
「しっかりついて来い」
背を向けたまま、耀が短く言い放つ。
「任せろ!」
「待ってー!」
火土丸と紅土が順に答えていた。
その声を背中で受け止めながら、耀はふと、先ほどの出来事を思い出す。
耳に残る微かな熱。左目の奥にまだ脈打つ違和感。
――お前の目を借りる。
それは朱炎に「繋がれた」ということ。
己の目に映るものは全て朱炎に届くのだろう。
(恐ろしいな……)
心の奥で、冷たい波が広がる。だが同時に、微かな熱に疼いてしまう。耀は悟られぬよう、その熱を心の奥へ押し込み、表情を固くした。
また後ろで声がする。
「待ってー! 耀ぅ! 待ってってばー!!」




