33.旅の準備(8)
蓮次は握りしめていた拳を開いた。爪痕から鮮血がじわりとにじむ。
呼吸は深くなり、鼓動は激しく打ち鳴らされる。視線はただ一点に注がれていた。
次の瞬間――ぶわりと髪が浮き上がる。
(……ぜったいに、助ける)
蓮次の爪がわずかに伸びた。それは紛れもなく“鬼の爪”。
彼はその爪で、無我夢中に土壁を掻きむしった。
明らかに――蓮次の“気”が変わった。
烈炎はその気配を感じ、片眉を上げる。
(お? ……覚醒したか?)
掻きむしる音は激しくなり、やがて土壁の表面にひびが走る。
(へっ……やるじゃねぇか)
小さな鬼が殻を破る瞬間に立ち会い、烈炎は興味深そうに笑みを深めていた。
一方の耀は目を細め、冷静に見つめている。
(……これは術ではない。ただ力で壁を壊そうとしている。強行突破か)
やがて壁は大きく揺れ、土がぼろりと崩れ始めた。
縁側で見守る紅葉は、胸の前で両手を固く組み合わせていた。
“これは必要なこと”
そう自分に言い聞かせながら、必死に声を飲み込む。
庭を満たす空気はさらに張り詰め、この日は鳥の声すら聞こえなかった。
空はわずかに白み始め、冷たい朝の光が差し込んでくる。
そして、ついに。
轟音と共に、土壁が大きく崩壊した。砂塵が舞い上がり、夜明けの空を曇らせる。
蓮次は大声をあげながら飛び出した。
「かどにぃ! べにねぇ!」
けれど、それは希望の夜明けとはならなかった。
蓮次の脱出と同時に、火土丸と紅土を囲っていた炎が爆ぜるように燃え上がる。
紅蓮の柱が轟音を伴い、空へと突き上がった。
二人の姿は、炎に完全に呑み込まれてしまった。
「いま! たすけるから!!」
蓮次は叫びながら火の中へ飛び込む。
しかし炎は彼を飲み込むことなく、掴みどころのない幻のように霧散した。
「え……?」
冷たいものが胸を走り抜ける。蓮次は呆然と立ち尽くした。
紅葉は思わず庭へ踏み出そうとしたが、その肩を耀の手が押さえる。
振り返った紅葉の視線の先――耀の顔には、変わらぬ穏やかな微笑が浮かんでいた。
その笑みは紅葉の不安をさらに膨らませるだけだった。
庭の中央で、蓮次は地面を必死に掻き分けていた。
「かどにぃ……! べにねぇ……!」
声は掠れ、すぐに嗚咽へと変わる。掴んだ灰は崩れ、零れ落ちていくばかりだった。
夜が退き、日が登るにもかかわらず、冷たい影が庭を覆い尽くしている。
狂おしいほどに涙を流し続け、嗚咽に押し潰されそうになる蓮次。
鬼たちは声をかけず、ただじっと見守っていた。
「弱さは、悪だ」
声が降りかかり、場の空気が一瞬で凍りつく。凄まじい存在感を伴って放たれたその言葉。
ざり、と砂利を踏み潰す音。
俯いていた蓮次の視界に、黒い着物の裾がひらりと揺れるのが映った。
誰もが予期していなかった――朱炎がそこに立っていた。
蓮次の身体は強張り、喉は音を拒む。
背筋を氷刃で撫でられるような感覚に、呼吸すら止まった。
朱炎は無慈悲な眼差しで蓮次を射抜く。
「泣いてばかりか……情けない」
言葉も眼差しも、一切の容赦がない。
蓮次の心を突き刺し、抉る。
なぜ、どうして――。
悲しみの雫が蓮次の頬を伝うたび、朱炎の眼光は一層鋭さを増した。
「お前のせいで、あの二人は消えた」
「……っ!」
蓮次の身体が震える。その震えを止めようと両手を重ねるが、無意味だった。
助けられなかった。
消えてしまった。
大事な二人を、自分のせいで失った。
恐怖と焦りと悲しみが、波のように押し寄せる。
そこにとどめを刺すのは、父ではなく王の言葉。
「悔しければ、強くなれ」
朱炎は踵を返し、去っていった。
その背中は、絶対に崩せない無慈悲な壁のように見えた。
蓮次は涙と血と土にまみれた手を押さえ、蹲る。
胸の奥で噴き上がる悲鳴を、喉の奥で必死に噛み殺しながら。
小さくため息をついた烈炎。
(いや、もっと言い方あんだろ。なんでそうなる?)
頭をがしがしと掻きながら、心の中で毒づいた。
そんな、誰もが迂闊に音を立てられない中、土が擦れる音だけが響いた。
じゃり……じゃり……。
庭の土が生き物のように音を立てて進んでいく。それは蓮次の背後にそろりと回り込んだ。
耀は蓮次には見えぬよう、右手をわずかに下げ、動く土へと合図を送った。
応えるように、土は蠢いて耀の足元に来る。
さらに耀の指先が指示を描くと、土は理解したかのように屋敷の下へ潜り、反対側の庭へと向かっていった。
蓮次は、何が起こったのか気づいていない。




