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  作者: Yonohitomi
二章
142/167

33.旅の準備(8)




 蓮次は握りしめていた拳を開いた。爪痕から鮮血がじわりとにじむ。

 呼吸は深くなり、鼓動は激しく打ち鳴らされる。視線はただ一点に注がれていた。


 次の瞬間――ぶわりと髪が浮き上がる。


(……ぜったいに、助ける)


 蓮次の爪がわずかに伸びた。それは紛れもなく“鬼の爪”。

 彼はその爪で、無我夢中に土壁を掻きむしった。


 明らかに――蓮次の“気”が変わった。


 烈炎はその気配を感じ、片眉を上げる。


(お? ……覚醒したか?)


 掻きむしる音は激しくなり、やがて土壁の表面にひびが走る。


(へっ……やるじゃねぇか)


 小さな鬼が殻を破る瞬間に立ち会い、烈炎は興味深そうに笑みを深めていた。


 一方の耀は目を細め、冷静に見つめている。


(……これは術ではない。ただ力で壁を壊そうとしている。強行突破か)


 やがて壁は大きく揺れ、土がぼろりと崩れ始めた。




 縁側で見守る紅葉は、胸の前で両手を固く組み合わせていた。


 “これは必要なこと”

 そう自分に言い聞かせながら、必死に声を飲み込む。


 庭を満たす空気はさらに張り詰め、この日は鳥の声すら聞こえなかった。

 空はわずかに白み始め、冷たい朝の光が差し込んでくる。





 そして、ついに。


 轟音と共に、土壁が大きく崩壊した。砂塵が舞い上がり、夜明けの空を曇らせる。


 蓮次は大声をあげながら飛び出した。


「かどにぃ! べにねぇ!」


 けれど、それは希望の夜明けとはならなかった。


 蓮次の脱出と同時に、火土丸と紅土を囲っていた炎が爆ぜるように燃え上がる。

 紅蓮の柱が轟音を伴い、空へと突き上がった。

 二人の姿は、炎に完全に呑み込まれてしまった。


「いま! たすけるから!!」


 蓮次は叫びながら火の中へ飛び込む。

 しかし炎は彼を飲み込むことなく、掴みどころのない幻のように霧散した。


「え……?」


 冷たいものが胸を走り抜ける。蓮次は呆然と立ち尽くした。


 


 紅葉は思わず庭へ踏み出そうとしたが、その肩を耀の手が押さえる。

 振り返った紅葉の視線の先――耀の顔には、変わらぬ穏やかな微笑が浮かんでいた。

 その笑みは紅葉の不安をさらに膨らませるだけだった。




 庭の中央で、蓮次は地面を必死に掻き分けていた。


「かどにぃ……! べにねぇ……!」


 声は掠れ、すぐに嗚咽へと変わる。掴んだ灰は崩れ、零れ落ちていくばかりだった。


 夜が退き、日が登るにもかかわらず、冷たい影が庭を覆い尽くしている。

 狂おしいほどに涙を流し続け、嗚咽に押し潰されそうになる蓮次。

 鬼たちは声をかけず、ただじっと見守っていた。




 「弱さは、悪だ」


 声が降りかかり、場の空気が一瞬で凍りつく。凄まじい存在感を伴って放たれたその言葉。


 ざり、と砂利を踏み潰す音。

 俯いていた蓮次の視界に、黒い着物の裾がひらりと揺れるのが映った。


 誰もが予期していなかった――朱炎がそこに立っていた。


 蓮次の身体は強張り、喉は音を拒む。

 背筋を氷刃で撫でられるような感覚に、呼吸すら止まった。


 朱炎は無慈悲な眼差しで蓮次を射抜く。


「泣いてばかりか……情けない」


 言葉も眼差しも、一切の容赦がない。

 蓮次の心を突き刺し、抉る。


 


 なぜ、どうして――。


 悲しみの雫が蓮次の頬を伝うたび、朱炎の眼光は一層鋭さを増した。


「お前のせいで、あの二人は消えた」


「……っ!」


 蓮次の身体が震える。その震えを止めようと両手を重ねるが、無意味だった。


 助けられなかった。

 消えてしまった。

 大事な二人を、自分のせいで失った。


 恐怖と焦りと悲しみが、波のように押し寄せる。


 そこにとどめを刺すのは、父ではなく王の言葉。


「悔しければ、強くなれ」


 朱炎は踵を返し、去っていった。

 その背中は、絶対に崩せない無慈悲な壁のように見えた。


 蓮次は涙と血と土にまみれた手を押さえ、蹲る。

 胸の奥で噴き上がる悲鳴を、喉の奥で必死に噛み殺しながら。




 小さくため息をついた烈炎。


(いや、もっと言い方あんだろ。なんでそうなる?)


 頭をがしがしと掻きながら、心の中で毒づいた。


 そんな、誰もが迂闊に音を立てられない中、土が擦れる音だけが響いた。


 じゃり……じゃり……。


 庭の土が生き物のように音を立てて進んでいく。それは蓮次の背後にそろりと回り込んだ。


 耀は蓮次には見えぬよう、右手をわずかに下げ、動く土へと合図を送った。

 応えるように、土は蠢いて耀の足元に来る。


 さらに耀の指先が指示を描くと、土は理解したかのように屋敷の下へ潜り、反対側の庭へと向かっていった。


 蓮次は、何が起こったのか気づいていない。

 


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― 新着の感想 ―
蓮次くん覚醒した! 烈炎は嬉しそうだけど、耀はここでも冷静で慎重なのですね。 空はわずかに白み始め、冷たい朝の光が差し込んでくる。 →世界が表情を変えた! 炎消えちゃった……? うわぁ二重にも三重…
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