31.旅の準備(6)
屋敷の裏手、結界の外。
月明かりの下、鬱蒼と木々が茂る一角で、熱い気を放っているのが烈炎だ。
豪快な体躯を誇る彼は、額に汗を滲ませながら、木を相手に拳を打ち込んでいる。足元の土がえぐれ、木には無数の傷が刻まれていた。
「……あまり、木を傷つけるな」
耀が姿を見せると、烈炎はちらりと視線を向けた。
「おい、耀。なんだ、朱炎のところに行ったんじゃねえのかよ?」
烈炎が、わずかに棘を含んだ笑みを浮かべる。
耀は傷ついた木と烈炎の間に割って入り、木の幹にそっと手を置いた。
「蓮次様の稽古のことだが……」
烈炎が「ああ?」と嫌そうな顔をしたが、耀は続けた。
「もう少し、頭を使わせてやってほしい。力だけではなく、なぜ戦うのかを学ばせたい」
烈炎が鼻で笑う。
「戦う理由? そんなの決まってんだろ。強くなるためだ。強けりゃいいんだよ。力は力、強さは強さだ。十分だろ」
耀がため息をつく。そして、改めて烈炎に向き直った。
「お前は、なぜ朱炎様の元にいる?」
耀の声には、鋭さが混じる。
「忠義を誓ったわけでもないお前が、こうしてここにいる理由だ。自分でも分かっているはずだ」
烈炎は「うるせぇ」と、短く言い放ち、耀から視線を逸らす。
――思い出すのは、遠い日の記憶。
烈炎の脳裏にあの頃の光景が蘇る。
まだ若かった烈炎は、朱炎を倒せると本気で信じて、この地に乗り込んできた。
しかし結果は――惨敗。歯が立つどころか、全身を打ち据えられ、地面に這いつくばるしかなかった。
倒れ伏した烈炎に、朱炎はこう告げた。
『お前は強い。だが、弱い。守るための強さを、私の元で学べ』
この言葉の真意。当時の烈炎には理解できなかった。
その後、朱炎と半強制的に血の儀式を交わされ、この屋敷に留まることになった烈炎。
時が経つにつれて、朱炎の強さの本当の理由を理解し始めた。
愛する妻を守る姿、側近の耀を思いやる眼差し――それは、ただ力で押し潰すだけの者には持ち得ないものだった。
気づいてしまったのかもしれない。
朱炎の強さが、誰かを、何かを守るためにあることを。
本当なら、いつだってここを離れることはできたはずだ。忠義を誓ったわけでもない。けれど、自分はまだここにいる。
――認めたくはない。
「俺は朱炎を倒してぇだけだ」
烈炎は、過去の記憶を振り払うようにそう言った。
耀は静かに返す。
「お前では、朱炎様に敵わない」
烈炎は舌打ちし、次の瞬間、耀へ拳を振るった。
風を切る音とともに、強烈な一撃が迫る。
耀は即座に氷の壁を立て、攻撃を受け止めた。
「お前には、守るものがない」
「守るもんなんてねぇよ! 壊してぇもんはあるけどな!」
烈炎の拳に力が込められ、氷の壁にひびが入る。蜘蛛の巣状に走ったひびは一斉に鳴り、氷は霧の粉となって弾け飛んだ。
烈炎が勢いのままに攻め入る。
だが、耀はすでにその場にはいなかった。彼は軽やかに宙を舞い、近くの木に飛び上がっていた。そして、木の根元に向けて、掌から青い光を放つ。
刹那、木の枝がめきめきと音を立てて伸び、烈炎と耀の間に分厚い壁を作り上げた。
枝に守られた耀が、上から言葉を投げる。
「お前は力だけで術が使えない。気が使えない証拠だ……私にだけでも気を遣ったらどうだ?」
その言葉とともに、耀の姿がふっと掻き消えた。
ひらひらと木の葉が舞う。
烈炎は怒らなかった。むしろ口元がわずかに吊り上がる。
別に、守りたいものが完全にないわけではない。術が全く使えないかというと、それも違う。朱炎の元に来てから、火の術だけは習得している。
耀もそれに気づいていたはずだ。あえて使えないと挑発してきたのだろう。
「……面白ぇな」
呟き、笑みを浮かべる。
「やってやろうじゃねぇか」
これは、耀の言葉を打ち破ってやるという意味だ。
そして、もう一つ。
朱炎しか見えていない耀を、いつか壊してやろうという複雑な感情が入り混じっていた。
翌日。
蓮次の稽古のために集まった者たちは、いつもと違う空気を感じ取っていた。
これまではただ走り回る遊びに近かった訓練が、今日は違う。
烈炎は真剣な眼差しで蓮次を見据えた。
「蓮次、よく聞け」
烈炎が指差した先には、二人の鬼が立っている。
「お前が助けなければ、あの二人が死ぬ」
その一言で、蓮次の顔色が変わった。
驚き、そして胸を抉るような悲しみが入り混じった表情。
烈炎はその壊れそうな表情を見て、唇の端がわずかに跳ねた。




