29.旅の準備(4)
朱炎の切り捨てるような返答に、煌苑はすぐに返さなかった。
それよりも燈火の頭をガシガシと撫で、「おい、もう一周してこい」と促す。
朱炎はこの様子を見て察した。煌苑がわざと子を遠ざけようとしている。
言われた燈火は素直に頷くと、また元気よく森の中を駆けていった。
煌苑はその背をしばらく目で追い、肩を揺らしながら小さく笑っていた。
朱炎は黙って待っていた。煌苑の本題は、ここからだと分かっていたからだ。
煌苑が振り返る。
「……実は、話があってな」
ようやく口を開いた。さきほどの豪快な笑いが跡形もなく消えて、真剣な色を帯びている。
「……人間に、負けた」
夜風が静かに二人の前を通り過ぎる。
朱炎は微動だにしない。
何も言わずに次の言葉を待つ朱炎に、煌苑は続ける。
「……奴ら、一斉に来やがった。惨敗だったよ」
朱炎の目が細められる。
「お前ほどの者が……なぜだ」
その声には驚きよりも、冷静に状況を読み解こうとする探るような思考が滲んでいた。
煌苑は静かに息を吐き、呻くように言葉を紡ぐ。
「“力”があればどうにでもなると思ってた。それが仇になった。人間は狡猾だ。嘘と罠の使い方を知ってる。……俺たちがそれにまんまと嵌まった」
朱炎は黙って耳を傾けている。煌苑の語る言葉に、過去の記憶をひとつふたつと重ねていく。
煌苑の一族が祖父の代から人間と争っていた事は知っていた。それを鎮めたのが煌苑だというのも聞いている。
「向こうから頭を下げてきたんだ。共存のために手を結びたいって……。ああ、信じたさ……でも全部、罠だった」
「…………」
「今の術師どもは鬼退治の腕を上げてやがる。術も、罠も。こっちが気づいた時にはもう……遅かった」
「…………」
「女、子供も殺された。……生き残ったのは、俺と燈火、それに若い男が数人だけだ」
煌苑は背を向けた。
肩越しに、消え入りそうな声で言葉を吐く。
「……守れなかった。あいつのことも。燈火は、もう……会えない」
あいつ――おそらく、燈火の母の事だろう。煌苑が最も愛した者。
朱炎はしばし黙し、そしてゆっくりと低く口を開いた。
「……男ばかりか?」
「ああ、残ったのはな……」
「では、うちの女を数名譲ろう」
その申し出に、煌苑は目を見開いたが、すぐにかすれた笑みを漏らす。
「ははっ……いや、そういう話じゃねぇって」
「子を成さねば、お前の一族は絶える」
「お前なぁ……」
「…………」
「俺たちは自由だ。残った若い連中も、好きな相手を選んで子を作る。それでいい」
「それでは力が分散する。強者同士を組ませ、より強い血を残す。それが、一族を守る術だ」
煌苑は喉の奥で短く笑い、朱炎の横顔を見やる。
「人間と子を作ったお前が、それを言うか?」
一瞬、朱炎の眉間に僅かな揺らぎが生まれる。だがすぐに言い返した。
「人間ではない。鬼に変えた」
その口調に迷いはなかった。
煌苑は追及をやめ、代わりに静かな声音で言った。
「……会わせてやってくれねぇか。燈火に」
朱炎の目が鋭く細められる。
「何のつもりだ」
「燈火と同じ年頃の子だろ? ……あいつ、明るく振る舞ってはいるが、本当は寂しがってる。まだ一人もいねぇんだ、友達が……」
「今は体調が悪い。無理だ」
朱炎は間を置いてから、低く静かに告げた。
煌苑は、朱炎の横顔を探るように見つめ、何かを察したように片眉を上げた。
「……あんまり無茶させんなよ?」
朱炎はそれに答えない。ただじっと煌苑を見返した。
二人の間に、再び夜風が強く吹き抜ける。
「とーちゃーん!」
唐突に、燈火の元気な声が森の奥から響いてきた。
草を踏み分けて、赤い髪をなびかせた少年が溌剌と飛び込んでくる。
煌苑は勢いのいい火の玉のような我が子を、片手で受け止め、抱き上げた。
朱炎は仲のいい父子を見届けると、ゆっくりと背を向け、我が家へと歩き出す。
その背に、煌苑が声をかける。
「……お前、また厄介事抱えてんだろ。背中になんか乗っかってるぜ」
朱炎は立ち止まり、短く沈黙する。否定はしなかった。後ろを振り返らずに告げる。
「……この辺りに、厄介な術師が彷徨いている。お前も、警戒しておけ」
声音には、忠告というよりも指示に近い響きがあった。
朱炎はこの時、煌苑が近くに移ってきたことを利用できると考えていた。
この男は、今なお強い。助けになる、と。
――我ながら、薄情なものだな。
一拍あった。
煌苑の目が月明かりの下できらりと光る。
「つまり……俺がこの地に来たのは……偶然じゃねぇってことだな」
朱炎は振り返ると、わずかに唇の端を上げる。
「お前の要望を聞く気はないが……私はお前を利用する。それでも構わないなら、また来るがいい」
その言葉に煌苑は、楽しげに肩をすくめて笑った。
「変わってねぇな……安心したぜ」
燈火を肩に乗せた煌苑は、もう一度大きな笑い声をあげて、森の中へと去っていった。
朱炎は、遠ざかる背中を無言で見送った。
むず痒い懐かしさと僅かな胸の痛みを、同時にもたらした夜だった。




