27.旅の準備(2)
耀が部屋を出てから、朱炎はしばらく考え込んでいた。
蝋燭の灯がわずかに揺れているのは、空気の流れがある証。気の流れを読むのは、朱炎にとって造作もないこと。
目を閉じて集中すれば、自ら張った結界の一回り先まで気配を探れる。
外に異常はなく、屋敷の中にも変わった気配は見当たらない。
あるのは日常。
朱炎はその“変わらなさ”の奥に、さらに意識を向けた。
気を巡らせると、紅葉と蓮次の居室がすぐに浮かぶ。
ふたつの小さな気配。ひとつは優しく、根を張るように安定した流れ。もうひとつは、輪郭の曖昧な子供の気。
朱炎は小さくため息をついた。
紅葉が蓮次に食を勧めているが、蓮次は首を振り、顔をそむける。
蓮次の甘えが見て取れる。
紅葉は粘り強くやり取りを繰り返していたが諦めて、最終的には水だけを与えて終わったようだ。
(いつまで食わずにいられるのか……)
この世に生まれて以来、蓮次は何も食べず、水だけで生きている。
今のところ問題はないと判断しているが、いずれ時が来れば、強制的に喰わせるしかないだろう。
(それよりも、体力か……)
元気に走り回る、小さな体に満ちる気と熱量。それらを朱炎ははっきりと感じ取っていた。
「全く、弱いのか強いのか……」
思わず漏れた独り言に、応じる者はいない。
朱炎はわずかに肩を落とす。
(走るのが少し早くなったのは、烈炎のせいか)
悪いことではない。身体を動かすのはむしろ歓迎すべきだ。
だが――。
品のない動物じみた動きに不安がよぎる。
身体能力がずば抜けているわけでもない。勢いのまま壁にぶつかり、体の痛みに泣くこともある。
(馬鹿なのか……?)
再びため息が漏れた。今度はわずかに苛立ちを含んでいた。
蓮次は、朱炎にとって“次”となる者。
一族の血と力を継ぐ者として、彼には早く修行に入らせたい。
幼少のうちに、身体の芯から鍛え直さねばならない。
母の温もりに包まれて、ぬるい水に浸かっているような生き方は、鬼とは言えないのだ。
鬼ならば、そのぬるま湯は氷刃の水であるべきだ。
強さを育てるには、ぬるま湯を自ら氷に変え、薄氷の上に軽やかに立てるくらいでなければならない。
立ち姿にも、周囲を圧倒するだけの風格が必要となる。
戦闘となれば、氷は鋭利な刃に変化させ、目当ての敵へ迷いなく突き立てねばならない。
必要なのは、凍てつく軌跡を描きながら遠くまで飛ばせるほどの気迫と制御力。
一瞬にしてそれらを振るい、使いこなせなければ、一族の誇りを継ぐ資格などない。
考えれば考えるほど、胸の奥に焦燥が滲んでくる。
苛立ちを振り払うように、朱炎は屋敷の外へと意識を向けた。
――あの術。
結界を探る気配があった。慎重に、結界と屋敷の内部を読み取ろうとする動き。
術式の隠蔽の巧妙さからして、素人ではなかった。
「……紅葉の血筋か……」
紅葉の素性――かつて人界と関わっていた頃の縁を思い返す。
彼女は術師の家系。
いまさら彼女を取り返そうと言うのか。もしくは蓮次が狙いなのか。
わからない。
あるいは、別の勢力か。
どちらにせよ、放置はできない。
そう思案しながら、朱炎はもう一度、屋敷全体の気配を探った。
ふと、二つの気配が静まり、室内がゆっくりと落ちつきを取り戻す。蓮次がようやく力を抜いたようだ。
呼吸が深く、安定している。
――寝たか。
思考の中で独りごちる。朱炎はゆるやかに目を細めた。
鬼は、本来それほど眠らぬもの。
命の危機や極端な疲労がなければ、眠らずとも生きられる。朱炎もその例に漏れない。
だが――。
「……寝過ぎだ」
自嘲にも似た響きで呟く。
紅葉も蓮次も、寝入ってばかりだ。鬼の母子とは思えぬほどに。
だが、それが今の彼らに必要な“余白”なのだと、朱炎には分かっていた。
眠れるということは、無意識に安心している証。
この屋敷での暮らしが、彼らにとって唯一の安らぎであることを、朱炎はよく理解していた。
その上で引き裂くと決めたのだから、今だけは生ぬるい水も許そう――そう思った矢先だった。
突如として、安穏にひびが入る。
空気の揺れ。ごく微細な振動。
目には見えぬが結界の外――南側の気の流れに“異質”が触れた。
瞬間、朱炎の目が鋭く吊り上がる。
「来たか?」
――敵か。
椅子から立ち上がるより早く、意識が外へ向かうのと同時に、朱炎は結界の南端に立っていた。
そこに現れたのは――。




