26.旅の準備(1)
朱炎の部屋。
灯された燭台の揺らぎが、朱炎の横顔を怪しく照らし出している。いつも通り、空気は張り詰めている。
耀は主の前に正座し、言葉を待った。
程なくして、座椅子に深く腰掛けた朱炎が話し始める。
「紅葉との旅について、少し考えていることがある」
耀のまぶたが微かに動いた。先ほどの一件で緊張していたが、今後の計画についての話らしい。
「屋敷にはすでに結界を張っている。鬼や異形は寄りつけまい。よって紅葉との旅も可能になる」
「ええ、それは大変良い事と思います」
「ただ……術式を飛ばし、こちらの結界を探ろうとする者、先ほどの術師だ。あれには警戒が必要だ。気配の繊細さ、動きの巧妙さからして、只者ではない」
「……はい」
「旅の直前までは、私が探る。問題があれば旅は取りやめる」
「承知しました」
「それで、旅先についてだが……選定をお前に任せる」
「はっ」
「何かあればすぐに戻れる距離が良い。紅葉との対話の場としてはそれで十分だ」
耀は静かに頷き応じたが、朱炎の声の奥に何かあると察した。
つまり、朱炎の語る“旅”には、休息以上の意味があるということ。
だが、それを探ろうとすることは許されない。
耀は朱炎の真意が話されるかどうか、神妙な面持ちで待った。
朱炎はその様子に気付いたようで、慎重に話を続ける。
「……この旅には、紅葉との対話が主な目的だが、もう一つ……目的がある。旅先では、紅葉がその地の者と会い、直接交流を持つ機会を設けたい。癒しの旅であると同時に、これは彼女に“地に足をつけさせる”ための旅でもある」
「……と、言いますと?」
「紅葉の活動拠点を見出す旅だ」
「……それは、つまり……」
「紅葉には、蓮次と離れて暮らしてもらう」
その言葉に、耀の呼吸が微かに乱れた。すぐに取り繕うように姿勢を正すが、その一瞬の動揺は、朱炎の目を逃れなかった。
「紅葉は母である以前に、鬼だ。育児のみに身を投じるのではなく、彼女自身の生き方を築いてほしい。気の強さ、精神力については申し分無い。ならば、彼女が鬼として、その力を活かせる場所を作ってやるのがよいと考えている」
耀は頷く。しかし、心の奥には微かな疑問があった。
(蓮次様はまだ小さい。母の支えを必要とする年齢だ。それでも引き離すというのか……?)
朱炎は続けた。
「蓮次には厳しく修行を積ませる必要がある。今のままでは、母に依存し、鍛錬を怠りがちになる。私はそれを良しとしない。紅葉にも蓮次にも、今はあえて“距離”が必要だ」
それは、耀の胸に少し痛みをもたらした。
主の考えの深さに、改めて畏怖を覚えると同時に、耀の中には揺れるものがある。
だが、それを口にすることは出来ない。朱炎の前で、自分の感情をさらけ出すことは、許されていない。
「そこでだ、耀。お前には、紅葉が蓮次と離れて暮らすに足る場所を探してもらう。条件は三つだ」
朱炎が淡々と告げる。
「一つ。紅葉が安心して暮らせる場所だ。いざというときに守れる環境があり、何かあればすぐに駆けつけられる距離であること。日帰りでの行き来が可能であれば理想だ」
耀はひとつめの条件を聞きながら、脳内で候補地を探す。
「二つ。鬼である紅葉が自らの意思で関われる場だ。ただ育児に籠もる母ではなく、鬼の力をもって関われる活動の拠点。隠れ家ではなく、彼女が“鬼”として動ける場所であることだ」
「……はい」
「三つ。紅葉がその場所の者たちと交流できること。孤立しては意味がない。受け入れられ、必要とされることが重要だ」
「……はい」
「活動は、癒しでも、術でもよい。紅葉は慈しみの心が強い。交流の中で自らを活かす道を探すだろう。だがその中に、強者との繋がりも必要だ。いざというとき、彼女を守れる者とも繋げておきたい。紅葉を孤立させるつもりはない」
その言葉に、耀は胸をなでおろす。朱炎はただ切り捨てるだけではない。そこには必ず、先の先を読む思慮がある。だが、それでも――。
「紅葉が活動し、暮らせる地。そこに、彼女を守れる環境があり、必要とされる場がある。日帰りもできる距離であること。なにか、良い場所はあるか」
耀は即答できなかった。だが、ふと心に浮かぶ景色があった。
山深く、霧に包まれた場所。己の一族が、かつて暮らしていた地。人里にも近く、一部の貴族との繋がりもあった。
しかし、まだ確信には至らない。詳細な調査が必要だ。
「……すぐには、申し上げられません。ですが、一つ、思い当たる地はございます」
耀は言葉を選びながら答えた。
朱炎は深く頷く。
「あとで構わん。後日、まとめて報告しろ」
「承知しました」
耀は深く頭を下げた。だが、すぐには動けなかった。
胸の内で、複雑な思いが渦を巻いている。
蓮次と紅葉――母子を分かつという主の決断。
従うことは当然だ。だが、心がざわめいてしまう。
その沈黙を朱炎が切り裂いた。
「……何かあるのか?」
声に、耀は反射的に背筋を伸ばし、顔を上げかけてすぐに伏せた。
「いえ、何も……」
朱炎の目が耀を見ていた。だが、彼はそれ以上何も言わない。
耀は一礼し、静かにこの場を立ち去る。
朱炎の部屋を出て静かな廊下へと歩き出すも、会話を思い出すと、歩みが止まる。
冷たい夜気が頬を撫でた。
ひとつ深く息を吐き、前を見る。
(……蓮次様、紅葉様)
――蓮次様は、母の手から離れて強く生きられるのだろうか。紅葉様は、蓮次様と離れる事に耐えられるだろうか。
だが、主には確固たる考えがある。
その冷静な判断力と先見の明。
それらを知っているからこそ、耀は自分の気持ちを口に出せなかった。
朱炎に従う事が己の務めであり、その信頼に応えることが役目。
揺れる胸の内を押し殺しながら、耀は静かに歩き出した。




