21.鬼の修行(15)
二人は再び、洞穴の前に立った。
先ほどは無理やり地上へ返されたが、やはり戻るしかない――あの異次元の、地獄のような場所へ。
紅葉は決して弱くない。けれど、紅葉を一人であの場所に行かせるわけにはいかないと、耀は判断していた。
おそらく紅葉自身も、それを望んでいた。朱炎に会いに行くと告げにきたのは、付き添ってほしかったからに違いない。
(ならば、紅葉様を安全に朱炎様のもとへお連れしなければ……)
紅葉の願いは確かな意志として耀に届いていた。屋敷に居る皆のために、と。
(さすがは紅葉様。やはり、強いお方だ……)
「では、紅葉様、行きましょうか……」
そう言って耀が先に立ち、紅葉を導く。
洞窟の入口に足を踏み入れた瞬間、冷たい気流が二人の頬を撫でた。
耀は足を進めながら、周囲を警戒するように見回している。
(何かが、おかしい……)
前は圧縮されたような空間の歪みがあった。身体が押し潰されそうな、尋常ではない重力と気圧の干渉。
あれは地獄と繋がっていた証。
しかし。
どれほど進んでも空間の歪みを感じない。
目に見える岩壁も、足元の土も、すべてがまるで平然としているように、静かだ。
空気もずっと冷たく冷えている。
耀は気づいた。
今回は、あの地獄に繋がっていない。
(きっと、朱炎様は……戻ってこられたのだ)
しかし、ここが安らぎの場所というわけではなかった。
耀はこの場所をよく知っている。この先に何があるかを。
朱炎がかつて、無数の鬼を罰し、痛めつけ、命を奪った場所。
鬼の業を火で焼き続けた、陰惨な記憶が染みついた地。
紅葉は、その頃の朱炎を深くは知らない。だが、この空間の異様さを感じ取れないほど愚かではない。
岩陰には古びた縄が絡みつき、原型を失った木製の器具が無造作に転がっている。
すでに骨となって形を残しているものもあるが、それは鬼のものではない。灰と化して消える鬼とは異なり、それらはおそらく人間か、森に棲んでいた動物たちの亡骸だ。
この場所では、鬼以外の命も、多く失われてきた。
小石が一つ、闇の中を転がり落ちていく。
紅葉の足が止まる。
耀は彼女を振り返った。紅葉は息を呑み、震える指先で胸元を強く握りしめていた。
――灯りが必要か。
紅葉の視界が悪いわけではないと分かっている。鬼の目は、闇でも鮮明に見えるからだ。
だからこそ、恐ろしいのだろう。
(紅葉様は、元は人間。根から鬼というわけではない。鬼として生きてはいるが、その生き方までは鬼そのものではない……)
弱い者を殺すことが正義であり、それが力の――強さの証だという価値観を、彼女が理解できるだろうか。
今から朱炎に会うとは、つまり、そういう事だ。それらを完全に理解し受け入れ、鬼の生き方を肯定する。
(蓮次様が生まれた以上は……)
蓮次も紅葉も、鬼なのだ。
耀は、人の考えも理解している。自分が幼かった頃、耀の一族は人間たちと交流があった。
彼らは殺し合う者ではなく、語り合う者たちだった。
(紅葉様も、そうだ。だから朱炎様と話がしたい……)
耀は手元に火を灯す。それは視界を照らすためではない。紅葉の不安な気持ちを、少しでも和らげるために。
「紅葉様、ご気分はいかがですか?」
「大丈夫です。問題ありません」
力強く言い切る声。しかし、その表情は明らかにこわばっている。
耀は少し迷いながら目を伏せ、再び口を開く。
「ですが……戻るなら、今のうちです」
「行きます」
即答だった。先ほどよりも、凛とした声で。
「行くわ。私が、会わなければ……」
「……承知しました」
耀は頷いた。
これ以上、彼女の覚悟を疑う理由はない。耀は先に立ち、段差のある岩場を慎重に下った。
奥の空洞に近づくにつれて、朱炎の気配が明確になってくる。
それは静かで、重い。鋭く刺すようなものではなかった。
深く沈んだ重石のような圧迫感。
少し広い場所に出た。
耀は足を止め、紅葉に手で合図を送る。
ここでは、見回さなくても次々に異様な物が目に入る。
削られた岩壁に垂れかかった今にも千切れそうな縄。岩肌のあちこちに差し込まれた錆びた刃。朽ちた木の柵。そこには、着物とは言えないようなぼろぼろ布切れが引っかかっている。無数に散らばる黒ずんだシミのようなものは、おそらく血の跡。
これは、彼の「過去の業」が色濃く残る場所。
この中心に、彼がいた。
朱炎だ。
彼は天井を見るでも、こちらを振り返るでもなく、ただ背を向けている。
その後ろ姿は、いつもの揺るぎないものとは違っていた。肩に宿っていたはずの気迫は、今はどこかへ消えている。
まるで、拒絶を体現するかのような姿。
耀は言葉を飲み込んだ。
その横で、紅葉が静かに一歩、踏み出す。
紅葉は立ち止まり、呼吸を整える。
「……あなたの結界が、皆を苦しめています」
柔らかだが、確かな強さを帯びた声音。
まっすぐ、朱炎に向けて放たれた。
朱炎は反応しない。背中は揺れず、空気も変わらない。
紅葉は、再び名を呼んだ。
「朱炎様」
だが、沈黙は破られない。
耀は静かに息を吐き、少しだけ前に移動した。朱炎と目が合う。
朱炎は、ほんのわずかに目を動かしただけだった。しかし、耀にはそれで十分だった。
一礼し、その場から身を引く。
もはや、自分が立ち入る場面ではないと判断した。
(紅葉様……あとは、お願いします……)
紅葉は、耀が消えたのを視線の端で確認すると、改めて朱炎へ向き直った。
「朱炎様……」
その声に遠慮はなかった。
けれど、朱炎はまだ振り返らない。
「聞いてるの! 朱炎!」
鋭く、力強い紅葉の声。
その声に、朱炎が反応した。
振り返る朱炎の表情に、明確な変化が現れたのは一瞬。
ほんのわずかな目の見開きだったが、長く心を閉ざしていた者にとって、それは破格の変化だった。
――この声を、朱炎は知っている。
まだ紅葉が人間だった頃。彼に叱咤し、真正面から言葉をぶつけてきたあの少女の声。
今、ここで再び彼の名を呼んでいた。
朱炎の胸の奥で、何かが静かに崩れ始める。
地獄の焔でも燃やせなかったもの、溶かすこともできなかった何か。
それが、紅葉の声に触れたことで、やっと解け始めた。




