17.鬼の修行(11)
耀は洞穴の入り口を振り返ることもなく、奥へ進んだ。
背後は霞み、湿った冷気が肌にまとわりつく。
地の底から這い上がるような脈動。
(これは……?)
足元に何かがいるのかと思った。鬼の目を持ってしても異常なほどの暗闇で見えにくい。
感覚を研ぎ澄ましながら、一歩、また一歩と進む。
緩やかな斜面は、徐々に鋭い角度へと変わっていった。進む度、空気の層が一段と重くなる。まるで侵入者を拒むよう。
(やはり、朱炎様はこの先に……)
肺を圧迫する冷気は少しずつ生ぬるくなっている気がした。息苦しさのせいで、気分が悪い。
耳の奥では高音がキィィと鳴り、視界はちらつき始める。
(――っ!)
目眩のせいか、圧が強すぎるせいか。
その場に膝を付いてしまった。
(こんな事でふらつくなど……)
非常に情けないと思えた。
歯を食いしばり、崩れた姿勢を立て直す。
岩肌がねじれているように見える。実際にそうなのか、幻覚なのか。
また一歩、進む。
次の瞬間、足元が抜ける感覚があった。
「――っ!!」
奈落へと堕ちていく。
耀は直感的に身を縮め、気を一点に集めた。
ここで気を乱せばどうなるか分からない。
凄まじい勢いで落下している。重力の理が狂っているように思えた。
(このままでは!)
地面が迫ると分かり即座に受け身を取る。
どん、と全身に響く衝撃。
着地と同時に膝が割れ、背骨にかつてない痛みが走った。
外傷はすぐに回復するが、耳鳴りと頭痛はずっと続いている。
(着地に失敗するなど、情けない……)
思い通りに着地できなかった。それはこの場所が常軌を逸しているということ。
――別次元にでも、来たのだろうか?
呼吸をしようと思えば意志に反して肺の中の空気が一気に吐き出されてしまう。
次に空気を吸い込めば熱すぎて肺が焼けそうだ。
(ここは、なんだ……?)
壊れた膝が再生したと分かると、耀は静かに立ち上がった。
深すぎる闇。
やはり別次元。
闇の質が違っていた。気の流れは濃く、遅い。空間そのものが歪んでいるようだ。
目を凝らす。
注意して見れば一点の赤い光が目に入った。それは視界の奥で小さな星のように瞬いている。
確かな熱を伴っている。
岩肌を舐めるように慎重に進んだ。
回廊を抜けると、そこに広がっていたのは――
辺り一面が、紅蓮の炎。
ここは、耀が知っていた“拷問の場”ではなかった。
広々とした空間に熱が満ちている。裂けた岩盤の隙間から無数の火柱が噴き上がり、全てを焼き尽くすように燃え盛っていた。
溶けた岩石は赤黒く光り、足元を流れている。
溶けた鉄の香りが鼻を塞ぎ、皮膚の水分も容赦なく奪っていく。
耳をつんざくような炎の唸り声。
(まるで……地獄……)
その中心に、朱炎がいた。
彼の背は微動だにしない。世界そのものを背負ったような姿。
漆黒の髪が熱風でゆらりと揺れ、炎の渦と混ざり合う。
耀は、その姿を見て、息を飲む。
──朱炎様。
言葉にならない“何か”が全身に広がり、指先が震えた。
視線を逸らしたくなるのは畏怖だろうか。
それでも耀は目を伏せず、数歩ずつ距離を詰めた。
焼かれてはいないはずなのに、皮膚の内側が焦げるように熱い。
地獄の鬼――朱炎の名を呼ぼうとしたが、吐き出す息が熱に押し返され、喉に痛みが走り、声がでなかった。
すぐ近くで立ち止まる。
ふと見上げた天井からは、異形の影が滑り落ちてきた。
嘴を持つ鳥の骸、牙の多い獣、のたうつ黒い亡霊。
結界が張られた時に地面に吸い込まれていった異形たちだと分かる。
それらはどれも、火柱に触れた瞬間、悲鳴すら上げることなく消し飛んだ。
肉体も、魂すらも、灰と化した。
存在を否定するかのように燃やし尽くされる。
朱炎の掌からも紅蓮の炎が吹き出した。
耀は咄嗟にひりつく喉を叱咤して、彼の名を呼ぶ。
「朱炎様!」
この炎が彼自身を燃やしてしまうのではないかと思えたからだ。
しかし、朱炎は振り返らず、ただ右手をゆっくりとかざす。
火柱が共鳴し、真っ赤な溶岩が噴き上がる。
同時に、耀の膝が揺らいた。
圧が倍になったのだ。肺に入り込んだ熱気が暴れ、視界が赤と黒に染まっていく。
「お待ちください……朱炎様」
掠れた声は、朱炎の背に届いただろうか。
分からない。だが、止めなければならなかった。
このまま朱炎がここに籠っていては、全てが失われるのではないかと思えた。
屋敷にいる者たちももう耐えられないだろう。
紅葉も、蓮次も――。
そして、何より。
このままでは、朱炎自身が、もう戻れなくなる。
耀は胸の奥の恐怖をなぐさめてから、覚悟を決める。
そう、声を届けねばならない。
「朱炎様!!」




