16.鬼の修行(10)
屋敷の奥、薄暗い廊下を耀が駆けていく。
空気は重く、まるで水の中を進んでいるようだった。肩にのしかかる圧は、まさに朱炎の力そのもの。
結界の中に足を踏み入れてからというもの、肺に僅かにしか空気を吸い込めないような、息苦しさが続いている。
廊下を進む。
そこかしこで倒れている者の姿が目に入った。寝ているのではない。重圧のせいで立つことも、座っていることもままならない。
生気のない顔。冷や汗。苦悶の吐息。
多くの者が横たわり、ぐったりとしていた。
耀は足を止めた。
(このままでは……)
弱き者は命の危機。簡単に死ねるなら良いが、苦しみ通して悪鬼に堕ちる事も考えられる。
(どちらにしても、良いことではない)
まだ気を保てる者を見つけては、耀は淡々と指示を出した。
「お前はまだ歩けるだろう。大広間に行け!」
「はい!」
「余裕のある者は、倒れている者たちを運んでくれ!」
いつもより強く声を張った。大きな声を出せば肺が圧迫されて苦しさが増した。
それでも自分自身にも気合を入れるために、必要なこと。
「ここは、任せられるか……」
各自が動き始めたのを確認し、ぼそりと呟いた。
ふぅと小さく息を吐く。
「さて……」
次に向かうのは、奥の部屋。
そこだけは決して崩れてほしくない場所。
朱炎の最も大切な者達がいる――紅葉と、蓮次の部屋。
襖を開けて目に入ったのは、紅葉が蓮次を抱きしめる姿。
床に座り込み、蓮次の体を小さく覆うようにして抱きしめている。
蓮次は泣いていなかった。
ただ、体全体が小刻みに震えていた。
恐怖が身体の奥から突き上げてきているのだろうと分かる。
これは理屈ではない。圧が魂に触れている。
「お父様の力を感じているのね、怖くないわよ、大丈夫よ……」
紅葉は優しく声をかけていたが、額には玉のような汗が浮かび、顔色も蒼白だった。
その細い指が蓮次の背を撫でるたびに、必死に保とうとしているのが伝わってきた。
耀は静かに近づき、紅葉の隣に膝をついた。
「紅葉様、大丈夫ですか」
耀の問いかけに、紅葉はわずかに顔を向けてうなずいた。けれど、その瞳は何かを訴えるように揺れていた。
紅葉が静かに語り出す。
一人の鬼が見殺しにされたこと。悪鬼へ堕ちるまで朱炎は動かず、最後は炎で焼き尽くしたこと。
言葉の途中で、紅葉の瞳に涙が滲んだ。
「紅葉様……」
耀は、紅葉の背にそっと手を置いた。
呼吸を整えさせる。
「……少しでも、楽に」
そう言って耀は手を差し伸べ、紅葉と蓮次を青い光で包んだ。
結界の圧をわずかでも和らげる簡易の護りだ。効くかどうかは定かではない。それでも、何もしないよりは良いと考えた。
このまま放ってはおけなかった。
「朱炎様には、きっとお考えがあるはずです」
耀がそう言うと、紅葉は涙を拭い、頷いた。
「……はい。そう……思います」
それは“信じている”というより、“そうであってほしい”という願いに聞こえた。
耀もまた、強くうなずき返す。
続けて蓮次にも声をかけた。
「大丈夫です、蓮次様。あなたは強い。母を守れる、強い子だ」
言葉に念を込め、蓮次の頭に手を置きながら伝えた。
蓮次の目は真っ直ぐに耀を見ていた。耀の言葉を聞いてからは、その目に鋭さが加わったように見えた。
僅かな変化。
瞳の奥に揺れる恐怖。そのすき間から覗くように、小さな決意の光が見えたのだ。
(きっと、この子は強い……本当に……)
朱炎の強さとは別の何かを感じた。
なぜか元気付けられたような気分にもなり、息がしやすくなる。
まるで、励まされたのは自分だろうかと問いたくなるほど。
耀はふっと口元を緩めると、素早く立ち上がり、この部屋を後にした。
次は、大広間へ向かう。
そこにはすでに何人もの“弱き者たち”が集められていた。時折うめき声をあげる者や、壁にもたれ、虚ろな目をしている者など。
多くが朱炎の圧に蝕まれていた。
耀は声を張る。
「気を強く持て」
一人ひとりに目を配りながら、結界に慣れるよう何度も呼びかけた。
その者たちのかすかな反応を見て、さらに指示を飛ばす。
「まだ耐えられる者は、部屋の四隅に移動しろ。気を繋いで、術を張れ! 互いに支え合い、圧を凌げ! 気を保てば耐えられる」
疲弊しきった鬼たちであったが、耀の言葉に応じて動き始めた。何人かがすぐに立ち上がり、四隅に散る。
「慣れろ。それしかない」
短くそう言い残し、耀は再び走り出す。
次に向かうのは、朱炎の居場所。
彼の真意を確かめるため。
だが、部屋に朱炎の姿はなかった。
部屋を出ると、廊下の先では天井から月明かりが差し込んでいた。
破壊の痕跡。ここで何かがあったのは明白だ。
耀は迷いなく駆け寄り、その穴から飛び出すようにして屋根へと登った。
ここは全体を俯瞰して見れる場所。
屋根越しに視線を走らせた。
夜の静けさの中に広がる屋敷。その広い庭の向こうを見る。
光が届かぬ闇の奥。木々の切れ間から岩山のような影が浮かんでいる。
「そうか……あの場所……」
思い当たる場所は他にない。
岩山のふところに、ぽっかり開いた洞穴。
それはよく知っている場所だった。
かつて、朱炎が多くの鬼を拷問していた場所。
(今も、そこで、何かが起きている……)
洞穴の奥には、地下へと続く抜け道がある。
耀は洞穴へ向かって走り出した。
心の中にはひとつの問い。
――朱炎様は、何をしているのか。
耀の足音が、岩の大地に吸い込まれていった。




