15.鬼の修行(9)
朱炎が右手を掲げようとする頃――。
外ではそれぞれが敵を追い払うために尽力していた。
耀は敵の鬼と、烈炎は巨躯の異形と、その他の見張りは異形や妖、怨霊と。
夜の森で斬撃を交わし、屋敷から敵を遠ざけている。何度も攻撃し、また戻る事を繰り返していた。
だが、それは突然に起こった。
――ドンッ!
大気が爆ぜ、木々の葉が一斉に逆巻く。
それぞれが頭を、背中を打たれたかのように重い衝撃を食らった。
「なんだ!?」
反射的に後ろを振り返った耀。漆黒の膜が勢いよく迫り来る。
「っ!!」
耀はすぐに判断し、目の前で唸る敵を勢いよく突き飛ばして後退し、近くの木の枝へ跳び乗った。
屋敷全体を包む黒い壁。
一定の大きさになり、完成した模様。表面では赤い光が稲妻のように激しく走り、鼓膜弾くような乾いた音がバチバチと鳴っている。
「結界……か?」
屋敷を中心に、黒い壁が円形に膨れ上がっていた。
朱炎が張ったようだ。
だが、これほどまでに視覚化された結界は見たことがない。
“守るための結界”には見えなかった。
見下ろせば、烈炎が組み合っていた巨躯の異形が地面へ沈んでいく。
周囲に散っていた大小の怨霊も、何かに絡め取られたように地面へ引き摺り込まれていく。
気の流れに敏感な者、また、知恵のある放浪鬼たちは顔色を変え、瞬時に逃げ散った。
耀が枝を蹴って地に降りる。
ほぼ同時に、烈炎が耀のいる木の下に来ていた。
「おい耀! 何が起きてやがる!」
「朱炎様が結界を張った」
「あ? 今さらかよ」
烈炎は少々呆れ気味に声をあげた。
周囲の見張り鬼たちは、突如現れた黒壁を前に動揺を隠せないでいる。
耀は屋敷の方角を見た。
「蓮次様の力を秘匿し、外敵を寄せ付けないためだ」
烈炎は大きく息を吐き、剣を肩に担ぐ。
「いや、分かるよ。分かるけどさ……なんで今更。もっと早く出来たんじゃねぇのか?」
耀は一拍置き、頭の奥で言葉を編む。
「今、結界を張ったという事は、今まで張らなかった理由がある、という事……」
耀は思考を深めるために独り言のように呟いていた。
「そうか……つまり……」
朱炎の“圧”だけで守れた時代は終わったという事。
「限界点を越えた……」
「どういう事だ」
「朱炎様はずっと己の“存在圧”だけで守ってこられた。だが、蓮次様の力が、その天秤を傾けた」
「あ? 天秤? なんだ?」
耀はちらりと烈炎を見て、ため息をついた。
朱炎の存在。それは結界を張っているのと同じだけの効力があった。しかし、蓮次の内なる力は朱炎のそれを越え、今や鬼や異形を惹きつけて止まない。
朱炎は限界だと判断したのだろう。
耀が説明し終えると、烈炎は納得したとも言えない顔で結界を見る。
「……なんか空気が重くねえか?」
「……そう……だな」
耀自身も頭を上から押さえつけられるような感覚に気づいていた。
「強い圧を感じる。よほどお怒りなのだろう」
黒壁に映る稲光。それは朱炎の心のひび割れのようにも見えた。
耀は、あえて視覚化された不自然な結界についてさはに思考を巡らす。
だが、烈炎は耀を意識する事もなく、結界へと近づいていった。
「待て、烈炎」
「大層だな」
「烈炎、聞け」
「俺たち、屋敷に入れんのかよ?」
「まったく、何を言っている。私たちが入れない結界を張るわけが――」
そこまで答えて耀の言葉が詰まる。
凄まじい圧を改めて感じ、否定の言葉を飲み込むしかなかった。
「…………」
「入ってくんな、ってことか? ったく」
烈炎が吐き捨てるように言う。
「耀、お前も感じてるだろ? この重さ。普通の結界とはわけが違う。下手したら俺たち、結界をくぐった瞬間に倒れるんじゃねえか?」
「……確かに、かなりの結界だ。耐えられない者もいるだろう」
見張りの若い鬼たちは壁から距離を取り、怯えた瞳で耀と烈炎を仰いでいた。
烈炎は腕を組み、意地悪く笑う。
「俺は嫌だぜ。中に入った瞬間に膝から崩れ落ちるなんてな。そんな格好悪い姿見せられるかよ」
聞いて、耀は目を細めて烈炎へと向き直った。
「では、お前で試す、結界をくぐれ」
「はぁ? なんでそうなんだよ」
言いながらも、烈炎は黒壁へと歩む。赤い光が走り続けているが烈炎は怯むことなく突き進んだ。
その巨体は難なく膜を通過し終えた。
耀は顎に手をやり、再び烈炎に指示を飛ばす。
「烈炎、お前は一旦出ろ」
次に近くの手下に向き直る。
「お前も入れ」
若鬼は指示に従い、恐る恐る結界へと進んだ。しかし、膜に触れた瞬間、雷撃に弾かれたように吹き飛んだ。
耀の推測通り、これは強さを測る門であった。
(朱炎様は、弱き者を選別している……)
そこで、耀自らが結界へと近づく。
直前で足が止まってしまった。これは恐怖か、畏怖か。
耀は自身の体力には自信はあるが、自分の弱さも自覚している。
(入らない訳には、いかないか……)
一歩、踏み込む。
「――ッ!」
刹那、内部から烈火のような衝撃が駆け上がり、脳裏が白く弾け、膝を折りそうになる。
しかし倒れるわけにはいかない。歯を食いしばり、膜を抜けた。
待っていたのは烈炎の笑い声。
「なんだ、ふらついてんじゃねぇか」
耀は息を整えただけで言い返さなかった。
それよりも、この特殊な結界を張った朱炎の意図を探る。
結界内の空気は凄まじく重く、空気を吸い込んでも僅かしか肺に入らない。鍛錬不足の者が入れば、立っていることすら叶わないだろう。
この結界は、敵だけでなく“味方”さえも隔てる。強き者のみが近づくことを許される、絶対の境界だと確信した。
耀は烈炎へと向き直った。
「烈炎、仕事だ。お前は皆を鍛えて結界の中に入れろ」
「は?」
「この結界は選別の門。通り抜ける事が出来ない者は入るな、そういう事だ」
烈炎の唇が愉快そうに歪む。
「それならば――よし、お前ら、俺と戦え!」
意気揚々と声を大きくして構える烈炎。
「そんな、勘弁してくださいよぉ……」
疲れ果てている者達の嘆きが聞こえた。
耀はそれらを確認すると背を向け、重圧の屋内へと駆けてゆく。
結界の内側は濃縮された重力で満ちている。気を抜けば臓腑も潰れそうだった。
(これだけの圧……耐えられない者がいるはずだ)
思考の底で警鐘が鳴る。
(朱炎様は、一体何を考えているのか)
皆は平気か。
紅葉と蓮次――まずは彼らを確かめねば。
耀は唇を引き結び、闇に沈む廊下を進んだ。




