14.鬼の修行(8)
屋根を突き破る轟音が、屋敷全体を揺らした。
敵が侵入したと思われる。
乱雑な足取りに、理性の感じられぬ突進。屋敷の外に蠢いている異形のうちの一体が見張りの隙を突き、偶然にも屋内への侵入を果たしたと分かる。
朱炎は眉一つ動かさず、ゆるやかに立ち上がり、向かう。その足取りは落ち着いている。
壁を崩し、唸りながら進む一体の異形。黒い肉塊が蠢き、目も鼻もなく、口だけを大きく開けて牙を剥いている。
近くには、地面に伏したまま動けない男鬼がひとり。先ほどまで見張りに付いていた者だが怪我のため撤退し、屋内にて休んでいたところだった。
肩口から流れ続ける血は、疲労のあまり再生が追いついていないことを物語っている。
この鬼のほか、恐怖で動けなくなった鬼たちの姿もある。
腕を庇い合い、身を寄せて震える女鬼たち。まだ幼く血に慣れていない少年の鬼。動きの鈍い老婆鬼たち。皆、異形を見上げ呆然と座り込んでいる。
しかし、敵は彼らに目もくれず、ただゆっくり前進を続けていた。
そこに、朱炎が姿を現した。
一瞬で空気が張り詰める。
朱炎が纏っているのは、静かな威厳ではなかった。
研ぎ澄まされた狂気、氷刃のような殺気――容赦なき“鬼”の気配。
表情は、無慈悲の極みだった。
「……何をしている。戦え」
低く沈んだ声が空間を斬り裂く。
地面に伏している鬼は震えるだけで動くことができない。周囲の鬼たちは思わず目を伏せる。
誰もが、朱炎の“いつもとは違う気配”に気づいていた。
その様子を、梁の陰から覗く気配があった。紅葉だ。
腕の中には蓮次。紅葉は幼い体を覆うように抱きしめ、息を潜めている。
逃げたいという本能と、夫が下す決断を見届けたいという心。
相反する衝動が紅葉の中でせめぎ合っていた。
異形は喉を鳴らし、這うようにして餌へとにじり寄る。足元には、まだ動けぬ鬼がいる。その者は唇を噛み、恐怖に凍りついたように目を見開いている。
異形が跳ねた。
「――がぁぁぁっ!!」
肉が裂け、血が噴き出す。
一瞬、誰もが目を背けた。だが、恐る恐る視線を戻す。
目に入ってきたのは喰われる仲間ではなく、感情を一切浮かべぬまま、ただ惨劇を見つめ続ける長の姿だった。
咀嚼音と絶叫が、凍りついた場に無遠慮に響き渡る。
異形は狂喜に身を委ね、鬼の肉を噛み千切った。
だが、次の瞬間――。
喰われていた鬼の身体が、黒い煙に包まれた。
脈動が走り、皮膚が引き裂ける。魂が砕ける音が、周囲の空気に軋むように響いた。
鬼は、悪鬼へと堕ちた。
喰われる側から、喰らう者へ。
すぐに状況は反転した。無惨に姿を変えたその存在は、即座に目の前の異形を押し倒し、貪った。骨を砕き、内臓を啜る。
異形の断末魔が響く。
周囲の鬼たちは言葉を失い、ただ呆然と見つめていた。
紅葉も、蓮次も――ただ震え、祈るように身を寄せ合っていた。
ぽたりと蓮次の頬に雫が落ちる。
不思議に思った蓮次が母を見上げた。
母・紅葉が涙を流していた。蓮次は無言で母を見つめ続けた。
怖い、恐ろしい。
それよりも、悲しい。
――父の背中を見て、母が泣いている。
泣かないで――そう言いたげに、小さな手が紅葉の頬に添えられる。
その間にも悪鬼は異形を喰い散らかし、吠えていた。
背後に朱炎が歩み寄る。
彼の掌には紅蓮の焔。
ためらいはなかった。
一族の中から生まれた悪鬼。それが異形を喰い終えたところで、焔を見舞った。
「――ッ!!」
その場にいた者達は、皆、息を呑んだ。
業火に包まれた悪鬼。
燃え尽きて灰となった。
朱炎がゆっくりと振り返る。
その目は震える者たちを見据えて――
「弱きは、悪だ」
淡々と言い放った。
紅葉の頬に、再び涙が伝う。蓮次を強く抱き寄せ、嗚咽を噛み殺す。
灰となった悪鬼の残骸が、宙に舞い、静かに消えゆく。
沈黙の中、遠巻きに見ていた鬼たちは、逃げ隠れるようにそれぞれの部屋や広間へと姿を消した。
紅葉らはその場に残ったが、朱炎が紅葉と蓮次に声をかけることはなかった。
朱炎はただ、立ち尽くしている。
屋敷の空気全体が凍りついて固まっていた。鬼達の気配は不安定で、皆が震え上がっていると分かった。
そう、あまりにも弱い。
朱炎からしてみれば、この場に居るもの全てが弱すぎるのだ。
さて、何を選ぶべきか。
何を守るべきか――。
そして、自分はこれまで、一体何を守ってきたのか。
その問いの果てに、朱炎は思考の奥底であるひとつの“答え”に手を伸ばす。
屋敷の外の有象無象とそれらと戦う力不足の一族の者達、逃げ隠れた臆病者に答えを出させる。
朱炎はゆっくりと右手を掲げた。
そして――。




