12.鬼の修行(6)
屋敷の庭に、湿り気を帯びた風が静かに吹き抜ける。
厚い雲が陽を遮り、灰色に沈んでいた。鬼の肌にとっては過ごしやすい柔らかな曇天。
しかしその穏やかさとは裏腹に、庭の空気には張り詰めた緊張が色濃く漂う。
日が傾く前――。
今日もまた、蓮次の修行が始まる。
縁側に座る紅葉は、小さく息を呑みながら庭の様子を見つめていた。その隣で耀が控え、沈黙のまま目を細めている。庭には幼い蓮次、烈炎、そして朱炎の姿があった。
今日の修行は、これまでとは違う。初めて、烈炎が蓮次に稽古をつけるのだ。
朱炎の命令による稽古であることは明らかだったが、その具体的な内容は紅葉には知らされていない。
母の胸に募るのは不安ばかりだった。
烈炎は確かに優れた戦士だが、その激しさと奔放さを、果たして子どもに向けて抑えられるのか。
庭の中央に立つ蓮次は、どこか頼りなく、小さく見える。肩をすくめ、首を引っ込めるようにして体をこわばらせている。
威圧感に満ちた烈炎が腕を組み、どっしりと構えているからだ。
そのさらに背後には、朱炎の鋭い視線。父の重く沈んだ眼差しは、突き刺さるようだった。
「真剣に取り組め、蓮次」
低く、腹の底から響くような声。朱炎の言葉は空気を伝わるというより、その場に染み込み、固まらせる。
「……はい」
掠れた声で返す蓮次。目は泳ぎ、唇はわずかに震えている。
烈炎が一歩前に出て、口角を吊り上げた。
「さあ、かかってこい!」
しかし蓮次は動かなかった。足は恐怖で凍りついたかのように動かず、手も小刻みに震えている。
烈炎はその様子を見つめ、ふっと息を吐いた。
刹那、蓮次には見えぬ速さで駆け寄り、その小さな体を抱え上げた。
「うわっ……!」
蓮次の体がびくりと固まったのは、ほんの一瞬。
烈炎の両腕で空高く舞い上げられた。視界がくるりと反転し、曇天と庭の緑がめまぐるしく入れ替わる。
風とともに舞うようで、空には頭をぶつけそうだ。
「すごい! たかい!」
地面に降ろされても蓮次の目からは驚きと喜びの光が消えない。
「……もっかい! もっかい!」
声は弾み、あれほどこわばっていた顔は一変していた。
紅葉は息をつめていたことも忘れたように、ほっと肩の力を抜いた。目尻がやわらぎ、思わず笑みがこぼれていた。
烈炎もまた、この状況を楽しんでいる。
「よし、もういっちょだ!」
「わぁー!」
蓮次のはしゃぐ声が響いた。
だが、その傍らで耀の表情は引き締まっていた。
烈炎の背後。
庭の奥に立つ朱炎を一瞥する。
(やはり……)
朱炎の顔は曇っていた。目線は確かに庭に向けられているが、その奥に感情の揺らぎは見えない。代わりにあるのは、深く刻まれた陰影。
その後、朱炎は片手を額に当ててため息をつき、庭を離れていった。
耀は紅葉と蓮次の様子を見渡す。烈炎の力加減は問題なかった。蓮次も楽しそうに過ごしており、紅葉も安堵の色を浮かべている。
(……こちらは問題ない。それよりも朱炎様が……)
追わねばならない、と耀は立ち上がる。だが、そのときだった。見張りの鬼が駆け込んできた。
「耀様、烈炎様……敵が! 申し訳ありません。囲まれてしまいました。今日は数が多く、抑えきれません。手助けを!」
「……分かった」
耀はすぐに向きを変え、烈炎には稽古を続行するように目で合図を送ると、衣の裾を翻した。
「私が行こう」
***
光の届かぬ回廊を、朱炎はひとり歩いていた。
重苦しい向かい風に逆らうような心持ちで自室へと戻る。
屋敷の一番奥まったこの部屋だが、たとえここに身を潜めていても敷地内の気配は全て感じ取れる。
庭に残した蓮次は烈炎に振り回されながら大笑い。
その笑顔を見て紅葉が安堵している。
状況は手に取るようにわかる。
それは朱炎の胸中を曇らせた。
深くため息をつく。
確かに烈炎は強い鬼である。一族の中でも群を抜いている。
だが、烈炎が行う稽古とは、“鍛錬”ではなく、ただの遊びであった。
蓮次に火を灯すきっかけに成り得るかと思えなくもない。けれどそれは“強さ”とはまた別の話。
(……小手先の気晴らしでは、何も変わらん)
蓮次は特別な力を宿しているが、今のような気晴らしで、その力が目覚めるはずがない。
朱炎の中に苛立ちが渦巻く。
日が沈んで闇が広がる様子は、朱炎の胸中と一致していた。
鴉の喧しい鳴き声が、響いた。
気配を探る。
稽古はすでに終わり、遊び疲れた蓮次は部屋へと戻っていた。
さらに意識を広げる。烈炎もすでに見張りの持ち場へ戻っている。
そして。
屋敷の外には多くの異形の気配。追い払ってもまた現れる余所者の鬼、複数の異形。
(キリがない……)
ここ最近、敵の数は明らかに増えている。
鬱陶しくて仕方ない。
蓮次の成長は追いつかぬまま、外の世界は乱れ続けている。
屋敷の防衛は日に日に脆くなっているのも明らかだった。
それは、戦えぬ者が増えたせいか。
朱炎は目を伏せる。拳が膝の上で静かに握られ、関節が白く浮き上がる。
怒りの矛先が定まらない。
蓮次にではない。紅葉や烈炎、耀に対してでもなかった。
すべては、自身に向けられていた。
思い通りに運ばぬ現実。それを作ったのが、他ならぬ自分だということ。
自身の力と圧で守ってきたものは、蓮次の秘めた力によって乱され、崩され始めている。
その蓮次に、戦える力は皆無。
疲弊する者たちが増え、まるで全てが弱き者のように見える。
――弱き者は不要か
ふと、そんな思考が脳裏をかすめた。
その時。
屋敷の屋根を突き破るような轟音が響いた。
異形の気配。敵の侵入。
(何をしている、見張りは……)
朱炎の眉がぴくりと動く。苛立ちが再び心を満たした。
朱炎はゆっくりと腰を上げ、無言のまま歩き出す。
目には冷たい光が宿り、背には、今までとは違う影がわずかに差し始めていた。




