11.鬼の修行(5)
薄紅色の皿の中央に、小さな鬼の火が灯っている。壁には朱炎の影が映り、時折揺れた。
研ぎ澄まされた思考の輪郭も、曖昧にさせるかのような不確かな光。
彼は静かに座し、目を閉じ、数度深く息をついていた。思考はすでに無数の迷路の中だった。
──あれでは鍛錬にならぬ。
蓮次の身体が、本能で“逃げ”を選んでしまう。恐怖に押され、術の形を成す前に力が暴発する。
また唐突に山の中へ飛ばれては、命を守るどころか逆に危険を呼び込む。探すのも一苦労だ。
結界を張るか? いや、それでは閉じ込めるだけ。逃げ道を塞いで強いるような方法では、力の源を歪めるだろう。
そもそも、蓮次には強くなりたいという意志がない。あの子の目には、戦いへの執念も、力を欲する焦燥も見えない。恐怖するだけの弱き者。
しかし、治癒力だけでも早急に鍛えなければ、後々の修行にも響くだろう。
術は後回しにできても、肉体の基盤は幼い今しか育てられない。
「…………」
だが、そのためには蓮次に“怪我をさせる”必要がある。裂傷、打撲、発熱を伴う負荷。治癒力を刺激するにはそれが最も効果的だ。
そこでまた問題がある。紅葉がそれを許すはずがない。
朱炎はひとつ、ため息をつく。
その時。
部屋の外には静かな気配。
「朱炎様」
朱炎はようやく思考を切り上げ、「入れ」と命じた。
ゆっくりと開かれた襖の向こう。
耀が頭を垂れて現れる。
彼の歩みは静かだった。
朱炎の前に膝をつくと、蓮次の現状を簡潔に報告する。
蓮次が自ら傷を癒す事は出来なかったが、集中力は上がっている、と。
「今は紅葉様が付いております。蓮次様は眠っておられます」
「……そうか」
朱炎の返事は短く、目を伏せたまま微動だにしない。耀は、それが思考の渦中にいる証だとすぐに察した。
「……酒をお持ちしましょうか?」
「いや、いい」
再び、沈黙が落ちる。
だが耀は立ち上がらず、その場に残った。
沈黙の奥にある言葉を聞こうと、そこに静かに座したまま、待っている。
やがて、朱炎はひとつ息を吐き、耀の目を見た。
「……蓮次の傷の治りが、あまりにも遅い。今のままでは、今後の成長に耐えられん身体だ」
「治癒のための力が必要、ということでしょうか」
「ああ。だが、その力を育てるには“負荷”が要る。紅葉がそれを許すとは思えん」
耀はわずかに目を伏せる。
「……朱炎様。もし、よろしければ烈炎に任せてみてはいかがでしょう」
朱炎の眉がわずかに動いた。
「烈炎だと……?」
「はい。烈炎は体術に長けております。蓮次様には、まず体を動かすことに慣れさせ、小さな傷を通じて自然に治癒の力を引き出していただく。少々の傷であれば、紅葉様の反発も最小限に抑えられるかと」
朱炎はしばし黙し、考え込んだ。
「……悪くない。だが、紅葉が納得するとは限らん」
耀はそこで、もう一つ、言葉を足す。
「……朱炎様。今こそ、紅葉様と二人で向き合っていただく時ではないでしょうか」
朱炎の瞳がわずかに揺れた。
「……何を」
「蓮次様をどう育てていくか、それはお二人の間で、決して避けてはならぬ問題。我々が蓮次様を見ている間、朱炎様は紅葉様と──外へ、短い旅でもよろしいのです。お二人だけの時間を持っていただくのはどうかと……」
「……旅、か」
朱炎は低く呟いて、目を細めた。
「だが……毎夜のように異形がうろつく。昨夜も見張りが追い払ったが、もし強敵だった場合はどうだ……私の不在を狙う者もいるだろう」
「……承知しております。しかし、ずっと朱炎様が守りに徹していては、蓮次様も紅葉様も、背中を見失います」
耀の言葉は芯が通っていた。
朱炎は目を閉じ、思案する。
(確かに、避けている。紅葉との対話を)
「……だが……避けては通れぬ、か」
漏れた言葉に耀は口を挟まなかった。言葉の続きを待っている。
「……烈炎に稽古を任せよう」
「では、そのように……」
静かに頭を垂れる耀。朱炎は小さく頷くと、灯明皿の火を見つめた。
「……紅葉との旅は……考えておく」




