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  作者: Yonohitomi
二章
119/167

10.鬼の修行(4)




 蓮次の泣き声が響いていた。紅葉は腕の中の我が子を見下ろし、どうしてやればいいのか分からず立ち尽くす。


 そんな紅葉のもとへ、耀が静かに歩み寄った。


「紅葉様、部屋へ戻りましょう」


 紅葉は頷き、蓮次を抱いて屋敷の奥へと歩き出した。耀はすぐその後ろを静かに付き添う。


 部屋に戻っても、蓮次は何も言わなかった。母の腕から離れた小さな体は、布団の上にそっと置かれた。頬にはまだ涙の筋が残る。


 どこか遠くを見つめる蓮次。


 耀はすぐには声をかけず、ただその様子を見守る。


「……父に……嫌われた」


 弱々しく絞り出された言葉。息を呑んで、耀は膝をついた。


 紅葉も横に座り、手をかざして傷の確認をはじめる。額の擦り傷、肘のかすり傷、背中の打撲──ひとつずつ癒しの術が静かに灯るたび、傷が消えていく。


 最後に残ったのは、右手の指先に走る浅く鋭い切り傷。それに紅葉が手を伸ばそうとした瞬間、耀が低く静かな声で制した。


「……それは、癒さずに」


 紅葉が驚いて耀を見ると、彼は静かに蓮次に向き直る。 


「蓮次様。……痛みを乗り越えて、強くなりましょうか」


 耀は蓮次の小さな手を包み込むように、両手で支える。


「痛みは、自分の身体が教えてくれるものです。逃げずに、感じてみましょうか」


 指先に意識を集めてみましょう、と付け加え、蓮次の手をそっと放した。


 蓮次は唇を結び、指先を凝視する。まばたきも忘れ、指の小さな傷に心を注ぐ。


 紅葉は心配げにその様子を見守っていた。


 蓮次は、目を逸らすことなく指先を凝視し続けた。


 随分と集中できている。さっきまで泣いていた姿は嘘のよう。


 時間がゆっくりと過ぎた。


 傷は、癒えない。


 やがて、意識の糸がふっと緩んだように、蓮次の身体がゆっくりと横に倒れた。小さな寝息が聞こえる。力を使い果たしたのだ。


 あまりに集中しすぎて、眠ってしまったようだ。


 紅葉がかけた布団を直しながら、不安を隠せず耀に悲しみの声を漏らす。


「……蓮次は。こんなに……必死で……」


 耀は蓮次の眠る姿に目を落としながら、言葉を選んで返す。


「紅葉様。蓮次様がここまで集中されたのは、素晴らしいことです」


 耀が紅葉を見ると目には涙が浮かんでいた。それは、安堵と混じった複雑な想い故だろう。


 耀は続ける。


「修行の際、蓮次様は気が散りやすく、なかなか集中できないと聞いていました。しかし今日は違います。ご自分の傷と、真正面から向き合っておられた」


「……でも……耀、どうしてこの子は、こんなにも苦しまなければ……ならないのですか」


 紅葉の声は揺れていた。耀は少しだけ目を伏せる。


「彼は鬼です。鬼として生まれた者の宿命。朱炎様の御子だからです」


 紅葉の眉が寄る。納得できないと言わんばかりの目。


「私には、理解できません……」


「紅葉様には理解し難いこと、承知しております。ですが、朱炎様には考えがあってのこと。蓮次様を苦しませるのが目的ではございません」


「…………」


「強く、ならなければ」


「耀……貴方は、何でも分かったように言うけれど……! 戦うことばかりで、何が幸せというのですか。この子に、何を求めているというの……」


 怒りに似た涙が紅葉の目に浮かんでいる。


 耀はそれを受け止め、静かに返す。


「紅葉様。鬼の生き方とは……戦いに勝ち、強さに価値を見出すものです。我々には、それが当然のこととして根付いています。そうでなければ……生き残れなかったからです」


 すっ、と部屋の空気が冷える。障子の間の隙間風は、一瞬、音を立てるのをやめた。


「もし……私があの時、戦い方を知っていれば……」


 一拍の間があった。耀はゆっくりと視線を移し、どこか遠くを見るように呟いた。

「父も、母も、守れたかもしれません」


 その声音は変わらず穏やかだった。しかし、紅葉は感じ取る。耀の放つ空気が、どこか哀しみに染まっていることを。


 これが、鬼なのだと。紅葉は朱炎と初めて会った時に感じた“負”を、耀にも見た。


「……耀。……詳しく、聞かせてくれますか」


 紅葉がいつもの落ち着いた口調に戻して耀に問うた。


 だが、耀は言葉を返さなかった。ただ、静かに沈黙を貫く。


 無言という回答。


 紅葉は悟ったように頷き、そして耀の手を取った。


「蓮次の……支えになってください。私には、分からないことがたくさんあります。でも、あなたなら……この子の事が、分かるのでしょう?」


「…………」


「私にできないことは、あなたにお願いしたいのです」


「はい、紅葉様」


「きっと、貴方は蓮次に似ているのね」


「…………」

 耀は紅葉の言葉に驚くも表情は変えず、静かに頭を下げる。そして、少しだけ表情を和らげる。


「蓮次様のことは、私が見ております。……紅葉様、朱炎様とお話されてはいかがでしょう?」


 しかし、その提案は断られた。紅葉は、静かに首を横に振っていた。


 耀はそれ以上何も言わず、ただ「承知いたしました」と小さく答えた。


 そして、眠る蓮次に視線を落とし、一礼して部屋を後にする。


 廊下に出た耀は、静かに朱炎のもとへと足を運ぶ。歩きながら、耀は胸の内にひとつの願いを噛みしめていた。


 ——どうか、この家族が壊れぬように。


 すでに喪った家族の温もりを、耀はこの一族のなかに見つけていた。


(ならば、守らねばならない)


 余所者であるはずの自分を迎え入れ、側近として置いてくれたのは、朱炎だ。


 その恩に報いる道はただひとつ。この一族を、未来を、家族の絆を護り抜くこと。


(紅葉様……蓮次様はきっと、朱炎様のように強くなりますよ)



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― 新着の感想 ―
蓮次くん、よく頑張りましたね。 耀が間に入ってくれて助かる。。 「痛みは、自分の身体が教えてくれるものです。逃げずに、感じてみましょうか」 →私はあなたに生かされました、の方を拝読するとこの意味がさ…
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