10.鬼の修行(4)
蓮次の泣き声が響いていた。紅葉は腕の中の我が子を見下ろし、どうしてやればいいのか分からず立ち尽くす。
そんな紅葉のもとへ、耀が静かに歩み寄った。
「紅葉様、部屋へ戻りましょう」
紅葉は頷き、蓮次を抱いて屋敷の奥へと歩き出した。耀はすぐその後ろを静かに付き添う。
部屋に戻っても、蓮次は何も言わなかった。母の腕から離れた小さな体は、布団の上にそっと置かれた。頬にはまだ涙の筋が残る。
どこか遠くを見つめる蓮次。
耀はすぐには声をかけず、ただその様子を見守る。
「……父に……嫌われた」
弱々しく絞り出された言葉。息を呑んで、耀は膝をついた。
紅葉も横に座り、手をかざして傷の確認をはじめる。額の擦り傷、肘のかすり傷、背中の打撲──ひとつずつ癒しの術が静かに灯るたび、傷が消えていく。
最後に残ったのは、右手の指先に走る浅く鋭い切り傷。それに紅葉が手を伸ばそうとした瞬間、耀が低く静かな声で制した。
「……それは、癒さずに」
紅葉が驚いて耀を見ると、彼は静かに蓮次に向き直る。
「蓮次様。……痛みを乗り越えて、強くなりましょうか」
耀は蓮次の小さな手を包み込むように、両手で支える。
「痛みは、自分の身体が教えてくれるものです。逃げずに、感じてみましょうか」
指先に意識を集めてみましょう、と付け加え、蓮次の手をそっと放した。
蓮次は唇を結び、指先を凝視する。まばたきも忘れ、指の小さな傷に心を注ぐ。
紅葉は心配げにその様子を見守っていた。
蓮次は、目を逸らすことなく指先を凝視し続けた。
随分と集中できている。さっきまで泣いていた姿は嘘のよう。
時間がゆっくりと過ぎた。
傷は、癒えない。
やがて、意識の糸がふっと緩んだように、蓮次の身体がゆっくりと横に倒れた。小さな寝息が聞こえる。力を使い果たしたのだ。
あまりに集中しすぎて、眠ってしまったようだ。
紅葉がかけた布団を直しながら、不安を隠せず耀に悲しみの声を漏らす。
「……蓮次は。こんなに……必死で……」
耀は蓮次の眠る姿に目を落としながら、言葉を選んで返す。
「紅葉様。蓮次様がここまで集中されたのは、素晴らしいことです」
耀が紅葉を見ると目には涙が浮かんでいた。それは、安堵と混じった複雑な想い故だろう。
耀は続ける。
「修行の際、蓮次様は気が散りやすく、なかなか集中できないと聞いていました。しかし今日は違います。ご自分の傷と、真正面から向き合っておられた」
「……でも……耀、どうしてこの子は、こんなにも苦しまなければ……ならないのですか」
紅葉の声は揺れていた。耀は少しだけ目を伏せる。
「彼は鬼です。鬼として生まれた者の宿命。朱炎様の御子だからです」
紅葉の眉が寄る。納得できないと言わんばかりの目。
「私には、理解できません……」
「紅葉様には理解し難いこと、承知しております。ですが、朱炎様には考えがあってのこと。蓮次様を苦しませるのが目的ではございません」
「…………」
「強く、ならなければ」
「耀……貴方は、何でも分かったように言うけれど……! 戦うことばかりで、何が幸せというのですか。この子に、何を求めているというの……」
怒りに似た涙が紅葉の目に浮かんでいる。
耀はそれを受け止め、静かに返す。
「紅葉様。鬼の生き方とは……戦いに勝ち、強さに価値を見出すものです。我々には、それが当然のこととして根付いています。そうでなければ……生き残れなかったからです」
すっ、と部屋の空気が冷える。障子の間の隙間風は、一瞬、音を立てるのをやめた。
「もし……私があの時、戦い方を知っていれば……」
一拍の間があった。耀はゆっくりと視線を移し、どこか遠くを見るように呟いた。
「父も、母も、守れたかもしれません」
その声音は変わらず穏やかだった。しかし、紅葉は感じ取る。耀の放つ空気が、どこか哀しみに染まっていることを。
これが、鬼なのだと。紅葉は朱炎と初めて会った時に感じた“負”を、耀にも見た。
「……耀。……詳しく、聞かせてくれますか」
紅葉がいつもの落ち着いた口調に戻して耀に問うた。
だが、耀は言葉を返さなかった。ただ、静かに沈黙を貫く。
無言という回答。
紅葉は悟ったように頷き、そして耀の手を取った。
「蓮次の……支えになってください。私には、分からないことがたくさんあります。でも、あなたなら……この子の事が、分かるのでしょう?」
「…………」
「私にできないことは、あなたにお願いしたいのです」
「はい、紅葉様」
「きっと、貴方は蓮次に似ているのね」
「…………」
耀は紅葉の言葉に驚くも表情は変えず、静かに頭を下げる。そして、少しだけ表情を和らげる。
「蓮次様のことは、私が見ております。……紅葉様、朱炎様とお話されてはいかがでしょう?」
しかし、その提案は断られた。紅葉は、静かに首を横に振っていた。
耀はそれ以上何も言わず、ただ「承知いたしました」と小さく答えた。
そして、眠る蓮次に視線を落とし、一礼して部屋を後にする。
廊下に出た耀は、静かに朱炎のもとへと足を運ぶ。歩きながら、耀は胸の内にひとつの願いを噛みしめていた。
——どうか、この家族が壊れぬように。
すでに喪った家族の温もりを、耀はこの一族のなかに見つけていた。
(ならば、守らねばならない)
余所者であるはずの自分を迎え入れ、側近として置いてくれたのは、朱炎だ。
その恩に報いる道はただひとつ。この一族を、未来を、家族の絆を護り抜くこと。
(紅葉様……蓮次様はきっと、朱炎様のように強くなりますよ)




