9.鬼の修行(3)
そこに立っていたのは──馬のような顔に、血のように赤い三つの目を持つ、異形。
ごつごつとした焦げ茶色の体に、胸元には獣のような白い毛がこんもりと生えている。
それは二本の足で直立し、じっと蓮次を見下ろしていた。
「……っ!」
異形と目が合った。
喉がつかえ、声も出ない。逃げなければ、と頭では分かっているのに、指一本さえ動かなかった。
(動け……動け、動け、動け!)
蓮次は歯を食いしばり、心の中で何度も叫んだ。硬直した体に必死に命令を送る。
やがて、かすかに右手の指が震えた。
それを合図に、蓮次は全身の力を振り絞り、一気に身体を起こして走り出した。
我を忘れて、ただ無我夢中で駆けた。
息が切れても足を止めることはできない。
だが、足元を見ずに走ったせいで、地面が途切れていることに気づくのが遅れた。
──崖だ。
すでに体は宙にあった。
「う、あ……っ!」
蓮次は叫ぶ間もなく転がり落ち、腰から地面に叩きつけられた。
激しい衝撃と痛みに、尻もちをついたまま動けなくなる。
ズサッ──
異形が崖を飛び降りて着地した音がする。
近づいてくる、足音。
「……そんな……」
蓮次の喉から漏れたのは、絶望に沈む声だった。逃げ場もない。体も動かない。
崖の下。月明かりも届かぬ闇の中で、異形の影がすぐそこまで迫っている。
(……もう、無理だ)
そのとき──
ぐしゃり、と貫く音。
「え?」
何者かが異形を貫き、動きを止めてくれた。
(助かった……?)
しかし、蓮次がそう思ったのも束の間。
異形の身体から突き出していたのは、ごつごつとした緑色の腕だった。
緑の肌に、異様に長い爪──鬼だ。
異形は突き立てられたまま仰け反り、呻き声を上げている。やがて鬼の腕によって遠くへと飛ばされた。
その緑鬼は唸り声を上げて駆け、蓮次を捕まえようとする。
「……!」
蓮次は再び逃げ出した。けれど足が重く、思うように動かない。
(それでも、逃げなきゃ!)
幸いその緑鬼の動きはそれほど早くはない。とにかく走れば逃げ切れるだろう。
そう思った矢先──
目の前で、木々がバサバサと音を立てて倒れはじめた。まるで、蓮次の進路を塞ぐように。
朽ちた幹が、太い枝が、土煙とともに崩れ落ち、あっという間に道を閉ざす。
残されたのは、闇に閉ざされた袋小路。風さえ通らない。
背後では鬼の足が土を蹴る音が近づいてくる。
蓮次の足が止まった。
逃げ場が、ない。
もう逃げ切れない。
今度こそ、もう──
蓮次はその場に座り込み、鬼の方を振り返る。再び体が動かなくなり、恐怖に耐えられず目を瞑った。
鬼が迫り、腕が振り下ろされる瞬間。
──ゴォッ。
鈍い音が響いた。爆風のような“何か”が空気を歪ませる。
「!?」
蓮次がゆっくりと目を開けた。自分の身は無事だった。一体何が起こったのか。
よく見れば、緑の鬼が空中へ吹き飛ばされている。
続けざまに、どさりと鬼の体が地面に落ちた。その後、鬼は走り去っていった。
視線を戻す。
そこには父──朱炎が立っていた。漆黒の衣が風に揺れ、赤の双眸が蓮次を見下ろしている。
静かなまなざしは恐ろしく、蓮次には父の機嫌を損ねたに違いないと思えた。
蓮次は呆然と見つめた後、俯いた。
「……ごめん……なさい」
朱炎は何も答えない。表情を何一つ変えずに近づき、縮こまっている蓮次を抱き上げた。
蓮次はその腕を温かいと感じられなかった。
朱炎の事が──父の事が、怖い。怖くてたまらない。
蓮次は父の腕の中でもう一度、小さな声で謝罪した。
しかし、返事はなかった。
朱炎の意識はもう別のところにある。
森の中には、まだ異形や鬼が何体も潜んでいた。
蓮次が気づけなかったのは、恐怖に目が曇っていたから。
朱炎は周囲をじっくりと見渡した。木々の影に、黒、緑、赤、様々な姿の者たちが蠢いている。
これは蓮次に吸い寄せられるようにして集まった厄介者たちだった。
朱炎はそれらを一つ一つ見据えると、ゆっくりと手を上げた。
ふっと空気が歪む。
手のひらから放たれた見えない“圧”。それが周りの鬼たちを吹き飛ばしていく。
まるで塵のように──次々と。
朱炎は一歩も動かず、声も荒げず、ただ手を振るうだけですべてを片付けていった。
蓮次はその姿に、ただ圧倒された。
泣き叫び、逃げることしかできなかった、自分とはまるで違う。
父は、強かった。
何も言わず、恐れもせず、当然のように敵を払った。
「……父上……」
小さく、蓮次は呟いた。
父の事が怖いはずなのに、この時は不思議と怖くなかった。むしろ、安心していた。
自分は守られている、と胸の奥に灯のように広がった。
(すごい。すごい──)
蓮次は初めて、素直にそう思った。
自分も、こんなふうになりたい。
それは、小さな胸に刻まれた最初の「憧れ」だった。
──父のようになりたい。
帰り道、蓮次は朱炎に抱えられたまま、何も言えなかった。
聞きたいことが、山ほどあるのに。
あの鬼たちはどうなったのか。どうして父は居場所が分かったのか。怒っているのか。怖くなかったのか。
「父上、あの、鬼は……」
恐るおそる声をかけたが、朱炎は何も答えなかった。蓮次の声にも、視線にも、表情を変えず、ただ黙って歩き続けている。
その顔は冷たく、まるで氷のよう。
(……怒ってるのかな?)
蓮次はしょんぼりと視線を落とした。叱られた方がまだ安心できたかもしれない。無言のままの父は、何よりも怖かった。
やがて屋敷が見えてくる。
門を越えれば母──紅葉が駆け寄ってきた。
朱炎はひとことも発さず、蓮次を紅葉に渡すと踵を返してそのまま背を向けた。
蓮次は、父の背中をじっと見つめた。
なぜだろう――ひとつだけでいい、何か言葉をかけてくれたなら。怒られてもよかった。
何も言われないことが、こんなにも不安になるとは思っていなかった。
「……父上!」
思わず呼びかけた。けれど、父は振り返らなかった。
蓮次の胸に、得体の知れない恐怖が押し寄せる。
「父……どうして……ぅぅっ……」
頬を伝う涙は、火傷の痛みでも、異形の恐怖でもなかった。
それは、小さな心には重すぎる、“父に嫌われたかもしれない”という不安だった。
抱きとめてくれた力強く温かな腕を、今はもう感じることができない。
蓮次は、声を上げて泣き続けた。
それはただ、幼い心がどうしようもなく揺れ動いた、静かな痛みの涙だった。




