5.鬼の子 蓮次(4)
――重い。
だが、ふっと光が差した。
耀は弾かれるように目を覚ます。
天井が見えた。
朧な明け方の光が障子を通して部屋に満ち、ほんのりと白みを帯びている。柔らかな空気があった。
しかし次の瞬間、耀は気づく。
胸の上に、何かがいる。
小さいが、確かな重み。丸まるように膝を折って座っている。
「……蓮次様?」
耀は反射的に声を漏らした。
そこには蓮次がいた。
耀の体の上にちょこんと跨り、小さな手を耀の胸に置いて、にこにこと覗き込んでいる。
「耀? だいじょうぶ?」
耀はあまりに唐突な光景に、しばし固まった。
(なぜ……蓮次様がここに?)
寝起きで思考が上手く回らなかったが、やがて耀ははっとする。
「蓮次様!」
慌てて蓮次を抱き、退けようとした。呪詛が蓮次に影響してはいけないからだ。
しかし、気づいた。
(胸の痛みが……消えている……?)
あの呪詛に蝕まれたはずの体が軽い。鳩尾の傷も痛まない。
(まさか……)
耀は蓮次の不思議な存在にほんの一瞬だけ畏れに似た感情を抱いた。
改めて蓮次を見つめる。蓮次はにこにことしてどこか満足そうだった。
耀は蓮次に呪詛が渡っていないか心配したが問題なさそうだと分かり、胸を撫で下ろした。
大きく息を吐き、肩を落とし、そっと蓮次を抱きしめた。
少し前の事――。
「蓮次が……いない?!」
紅葉が寝室から廊下に飛び出した。
「蓮次、蓮次!」
屋敷の廊下では、紅葉の声が悲鳴のように響いていた。
「なんの騒ぎだ」
屋敷の外から戻ってきた朱炎が現れる。厄介者を追払って衣に外気の匂いをまとったまま、鋭い目で紅葉を見やる。
「蓮次が、蓮次が部屋にいなくて……!」
紅葉が駆け寄って息を詰まらせながら告げると、朱炎は何も言わず、屋敷の中の気配を探った。
「……耀の部屋だ」
短く告げて迷いなく歩き出す。紅葉は後に続いた。
襖が開く。
耀は朱炎と紅葉の姿に気づいた途端はっと顔を上げ、反射的に蓮次から離れる。
そしてすぐに姿勢を整え、正座して深く頭を下げようとした。
「申し訳……」
その言葉が口をついて出かけたそのとき、背にふわりと小さな手が添えられた。
「だいじょうぶ」
幼く柔らかな声が降ってきて、耀の動きがぴたりと止まる。頭を下げかけた姿勢のまま固まった。
背にある小さな温もりが、まるで重しのように耀を動けなくした。
――蓮次様。
その小さな手を振りほどくことはできなかった。目を伏せたまま、耀の肩がわずかに震えた。
自らの失態を詫びなければならない。けれど蓮次の手を拒むことは、今の耀にはできなかった。
紅葉がその場に崩れるように膝をついた。
「よかった……」
蓮次の姿を見てようやく安堵が胸に満ちた。緊張が溶けて力が抜け、目に涙が滲んだ。その後、改めて立ち上がると耀の隣に寄り添い、蓮次の背を撫でながら、二人を優しく抱きしめた。
朱炎は何も言わずにその光景を眺めている。
ようやく耀が顔を上げ、静かに呟く。
「……蓮次様のおかげです」
蓮次はにこりと微笑み、再び耀の頭を撫でた。
「だいじょうぶ」
そしてくるりと紅葉の方へ向き直り、小さく手を伸ばす。
「だっこ」
紅葉が蓮次をそっと抱き上げると、彼は嬉しそうにその腕に収まり、耀に向かって小さく微笑んだ。
朝の澄んだ光が障子を照らしていた。
夜の闇をすっかり押し流したかのように見えた。だが、差し込む光の一部は――朱炎の影に遮られていた。
耀は気づかれぬよう、朱炎の表情を窺う。
朱炎は黙ったまま、蓮次をじっと見つめていた。
何か、思案している。そんな目だ。
耀はそっと目を逸らす。
朱炎の瞳の奥にある翳りを見てしまったのかもしれない。
「……読み違えたか。術の標は、確かに“あの子”に定めたはずだ。だが、受けたのは……別の鬼……」
「おそらくは、朱炎の傍らに控えていた鬼かと」
「ふむ……あの位置にいれば、子を庇うこともできよう。して、標が逸れた理由は?」
「申し訳ございません、宗様。導は確かに奴らの居処へ届いておりますが……」
「術式に乱れはございません。ただ、その鬼が“負った”のかと……あの子の代わりに」
「あら、鬼にしてはずいぶん冴えた読みなこと……」
「いずれにせよ、術は届いたのだろう。で、その鬼は?」
「……はい、術は確かに染み入りました」
「ならば、塵と消えたはず。我らの術は、鬼の肉すら留めはせぬ。尋常の鬼であれば、一息で崩れ果てる」
「……それが、宗様――」
「……掻き消えました」
「何が?」
「術です。残滓すら……」
「それは……どういう事かね?」
「子です。“白き鬼”が……」
「……祓った、というのか」
「はい」
「理を越えている……神でも仏でもなく、あれは鬼だろ」
「まことに、不可思議。もしあれが意図せずその力を揮ったのなら、成長すれば我らの術理そのものが通らぬ存在となりましょう」
「……やはり、放置できないわね。朱炎の血脈が地に根を張ることを、許してはいけない」
「星々は、兆しておりました。“白き鬼、夜より生まれし時、理の門崩れ、世の秩序揺らぐ”と……」
「その時が、ついに来たのだ。我らが動くべき刻は今。朱炎そのものには長らく手が出せなかった。だが、あの子が現れたことで、初めて隙が生まれた」
「星の導き。朱炎は子を得て、守るべきものを持った。そこに、狙うべき“穴”がある」
「先日の接触では追撃もなかった。我々の気配にも気づいてないだろう。居所も割れてない」
「奴らに我らの本意は掴めぬ。だが――朱炎は侮れぬ。あれは“読む”。見えぬものを睨み、気配なきものに気づく眼を持つ。だからこそ、手が出せなかった」
「けど、今は違う。白き鬼が現れた。あれこそ“鍵”――朱炎一族を絶つ、唯一の道筋」
「始末すべきは、あの子。そして血脈ごと……朱炎一族」
「風を読み、星を計れ。次は、外すな。逃すこと――決して、許されぬ」




