4.鬼の子、蓮次(3)
耀は烈炎の腕に支えられながら、ふらつく足取りで屋敷へと戻ってきた。意識の糸を手繰るようにして、倒れるまいと必死に踏みとどまっている。
皮膚には冷たい汗がじっとりと滲み、体の芯は氷のように冷えきっていた。
門を越えた瞬間、異変を察した配下の鬼たちが数名、無言のまま駆け出していく。癒し手を呼びに行ったのだろう。
烈炎は言葉少なに耀を部屋まで運び、そっと布団に横たえた。
「……すまない、手間を……かけさせて……」
耀のかすれた声に、烈炎は短く目を伏せた。
「とにかく、休め」
そう言うと烈炎はすぐに踵を返し、再び夜の混乱へと身を投じていった。屋敷の外では、まだ喧騒が渦を巻いている。
ほどなくして、癒し手の鬼が数名、部屋に現れた。いずれも薬草や呪符を携えている。彼らは言葉少なに耀の容態を見極めながら、すぐさま手当てに取りかかった。
「血は止まっています。毒の兆候は……ありません。だが、これは……」
癒し手のひとりが声を潜める。
「……呪詛の気配がある」
その言葉に空気が張り詰める。術を重ねようとした癒し手たちの手が微かに止まった。通常の癒しの術では届かないと判断し、すぐに一人が立ち上がり、紅葉を呼びに走った。
しばらくして、紅葉が蓮次を伴って現れる。
襖が開くと紅葉の視線が耀の様子を捉え、小さく息を呑んだ。
蓮次は母の後ろにちょこんと立ち、じっと耀を見つめていた。幼子の瞳は、まだ言葉を持たないながらも、張り詰めた空気を敏感に感じ取っていた。
「耀……」
紅葉が静かに名を呼び、膝をついて傷を確かめた。槍による刺し傷は深かったが、出血はすでに止まっている。鬼の身体であれば、時間が経てば傷は回復するだろう。
だが、紅葉が眉根を寄せる。
「これは……」
鳩尾から胸骨にかけて、不自然な黒い変色が広がっていた。表皮は硬化し、深部には異様な膨らみ。膿でも毒でも瘴気でもない、禍々しい“何か”がその奥に潜んでいる気配がある。
「……呪詛」
紅葉はすぐに両手を翳し、癒しと浄化の術を同時に紡ぐ。指先から緋の光が流れ出し、耀の胸元にやわらかく降り注いだ。
だが――術は届かない。
耀の身体は呪詛を弾くどころか、受け入れている。緋の光が吸い込まれていくのに、効果は一切生じない。
耀のまぶたが微かに震える。意識はある。だが呼吸は浅く、全身がかすかに痙攣していた。
蓮次が耀の隣に膝を揃えて座り、紅葉を見上げた。次いで耀へと向き直り、小さな声を漏らす。
「……耀、へいき……?」
そのひとことに、耀の唇がわずかに反応する。
「……蓮次様は……」
かすれた声で言葉を紡ぐ。
「……近づかないで……ください……」
蓮次は小さく頷いた。紅葉もまた、その想いを汲み取る。
蓮次に後ろへ下がるよう促し再び術へ集中するが、状況は変わらない。
それどころか、耀の表情はますます苦しげに歪んでいく。
彼は自分の身に何が起きているか、痛感していた。
胸の奥から何かが軋むように鳴り、内側から喰われていく感覚に襲われる。
「紅葉様……」
耀が絞り出すように訴える。
「もう……充分です。それよりも……蓮次様を、別の部屋へ……」
「耀……」
「……お願いします」
その目には、はっきりとした意志が宿っていた。
紅葉は一瞬、沈黙し――そして、頷く。
「……わかりました」
紅葉は蓮次をそっと抱き上げる。
蓮次は耀を一度だけ振り返り、静かに紅葉の肩に顔をうずめた。
襖が閉まる。
耀は、ようやく一人になった。
苦しむ姿を見せまいとしていた分、堰を切ったように表情が歪み、深く喘ぐ。痛みを堪えていた全身が悲鳴を上げ始めていた。
視界は滲み、手足は凍えるように冷たい。胸には重く鉛のような塊が沈み込み、正体の知れぬ異物感が全身に染み渡っていく。
やがて――耀は、静かに、深く、眠りの底へと沈んでいった。
――夢の中。
全てが、黒い。
光も、色も、音もない。ただ、濁った闇だけがこの空間を支配していた。
「…………」
声を出そうとするが何も出ない。口が動いても、空気が震えない。
呼吸ができない。重すぎる。
そして――現れた。
どこからともなく無数の手が。
ぬめりを帯びた冷たい手が、耀の手足に絡みつく。
それは腕を這い、喉を掴み、胸を押し潰すように締めつけた。
(やめろ……ッ)
声にならない。叫ぶことはできない。
巨岩の下敷きになったような圧迫感。地の底へ引きずられそうな感覚。
視界の端には何かが見える。
人か、獣か、それとも――
正体のわからない「何か」が、ただ、耀をじっと見つめていた。
喉が焼けるように痛み、意識が引き裂かれる寸前。
(……誰……だ……)
――その瞬間。
心臓が大きく跳ねた。
苦痛の極みと共に、意識が現実へと一気に引き戻される。
耀は、息を呑むように目を見開いた。
視界が白く染まり、世界に光が戻ってくる。
全身に再び、重力と熱を感じた。
(……なんだ……?)
目を覚ました耀の目の前には――




