110.黒い雫
暗黒に沈んだ空の下、重く淀んだ気配がこの地を覆っていた。
──ここに、俺は囚われ続けている。
因縁の地、処刑台。
蓮次は足を止め、静かに見上げた。
朽ち果てた木柱。足元には、かつて“蓮次”を縛ったであろう縄や古びた錫杖が転がっている。人間たちの恐怖と憎悪。それが未だこの場に染み付き、消えることはない。
「……人間の方が、よほど鬼らしいじゃないか」
淡々と口にしたが蓮次の周りの空気はぴりついた。
再び歩み始める。足元の無数に散らばる錫杖を一瞥し、処刑台へ。
目の前にある木の板を一段、また一段と登った。
そのとき、二つの気配が蓮次に近づく。
じわりと足元から染み出すように、それは姿を現しはじめた。
蓮次は振り返らず、「……いるのか?」と静かに問う。
風がぴたりと止んだ。
音もなく影のように滲み出た男は紅蓮の眼を宿す、鬼の頂に立つ存在、朱炎。
その隣には影のように立つ黒訝。
二人は処刑台の上に立つ蓮次を見上げた。
蓮次はゆるやかに振り返り、見下ろす。
その眼差しは朱炎ただ一人を捉えていた。
黒訝は蓮次の視線に自分が含まれていないことを悟る。蓮次の関心は朱炎のみに注がれていた。
朱炎は慎重に蓮次の様子をうかがっていた。下手に言葉を交わせば、互いに牙をむくかもしれないと理解しているからだ。
だが、蓮次の瞳には余裕すら漂っている。まるで「さっさと話せ」とでも言いたげに。
黒訝は交互に二人を見る。
父と、兄。
どちらも凄まじい圧を放っている。故に、自分に出来ることは何もないと分かる。ただ見守る。
遠くでは雷が鳴る。黒雲の中に小さな稲妻が何度も走っていた。
長い沈黙となった。
これを最初に破ったのは朱炎だった。
「……来ると思っていた」
「…………」
「お前は、ここに戻ると」
蓮次は何も答えない。ただ朱炎を見つめるのみで変化はない。
だが朱炎は見抜いていた。蓮次の瞳が以前とは違うことを。
そこにはかつての虚無ではなく、確かな“意志”が灯っていた。
「蓮次。……お前は、何を見てきた」
「…………」
「……お前を苦しめるつもりはない」
朱炎は一瞬の変化を見逃さなかった。蓮次の瞳がわずかに揺れたのだ。
「だが──」
「…………」
「返してもらう。お前にその力は扱えない」
蓮次は沈黙を貫いた。
しかしこの時、蓮次の心の奥底では鈍い音が響いていた。
──まただ。
また「できない」と、拒絶されたのだ。
──なぜ、こうも否定されるのか。
蓮次の胸の奥に黒い渦が巻き上がる。
空に垂れ込めていた黒雲はさらに濃く広がっていった。
蓮次はひとつため息をつくと、朱炎から視線を外す。
──今さら力を返して何になる?
森を抜け、町をさまよい、この場所へ至るまで確信したことがある。
それは──
自分はこの世の「負」だということ。
悪とされ、災いとされる存在だろう。
もう遅いと分かる。
蓮次はそっと木柱に触れた。今にも崩れそうな柱だ。崩れそうなのは、柱だけだろうか。
──ただ、認められたかっただけなのに。
ふと、胸の内で感情が転がった。途端に滑稽に思えたのだ。
表情には明らかな変化が現れる。
「……強くなりたかったんだ」
朱炎は黙してその言葉を受け止めていた。
だがその反応は裏目に出る。蓮次の心を軋ませるだけだった。
何も感じないはずだった心が乱される。その勢いで言葉を続けた。
「だから、鬼になると決めた。それなのに、このザマだ。皆、壊れていった……」
枯れ果てた森。腐敗した湖。灰となった町。そして、目の前で崩れたあの少女。
どれも鮮やかに頭に焼きついて離れない光景。
溢れ出るのは言葉だけではなさそうだ。
蓮次は引き攣るような笑みを浮かべたまま、目を伏せた。
足元に転がる錫杖を踏みつけ──。
呟くように告げる。
「……殺せ」
黒雲はさらに重くのしかかり、夜を染めた。
朱炎の瞳がわずかに細まる。
空からは、ぽつりと冷たい雫が落ちた。
黒雲の裂け目から落ちるその一滴は、雨と呼ぶには重すぎる黒い雫。
蓮次はゆっくりと空を仰ぎ見た。




