109.赤い飴玉
夜の静けさが身を包み込むころ、蓮次は静かにその境界を踏み越えた。
ひと気のない町。月も隠れ、風すら息を潜めている。
しかし蓮次がその地を踏むと、まるで底に沈んでいた何かがざわめきを上げるように空気が軋み始めた。
蓮次の負が広がり始める。
遠くで赤子の泣き声が響く。怯え、しがみつくようなその泣き声に誰かが苛立ったような怒声を返した。
直後、口論が始まり、別の家屋からも喧騒と怒鳴り声が聞こえてきた。
さらに別の方角では鋭い悲鳴と刀が振るわれる音が交じる。
蓮次は足を止めない。
さらに負は伝染する。
崩壊は彼の歩みと共に進んだ。
次は火の手が上がった。木造の家々が次々と炎に包まれ、屋根が爆ぜるような音を立てて崩れ落ちた。
煙が渦を巻く。
叫び声と嗚咽、燃え盛る音、土を蹴る足音、罵声──混濁したすべてが蓮次の背後で嗤うように響いていた。
蓮次が振り返ることはない。
人々の心が、怒りと恐怖に歪んでいった。
互いに罵り合い、拳を振るい、刃を交えて。
狂気が狂気を呼び、破滅が破滅を生む。
焦げた空気が町を包み、あらゆる秩序が崩壊していく。
それでも蓮次は歩みを進めた。自分の存在を確かめるように。
歩けば、命も塵となって消えていく。
「勝手に壊れる……」
そのときだった。
「お兄ちゃん、危ないよ!」
蓮次の頭上に崩れた家屋の一部が落ちてくるところだった。それは蓮次にぶつかる事なく砕け散り……。
「勝手に消える……」
蓮次はぼそりと呟くと、先ほどの声の方向へとゆっくりと振り返った。
そこに立っていたのは見覚えのある少女。艶やかな黒髪に、おさげの先には赤い紐。
少女の瞳は真っ直ぐに蓮次を見つめていた。
──覚えている。
あのとき、鬼に襲われていたところを守ろうとした。
その子が手招きしている。こちらへ来てと。
──行くべきか。
蓮次は足を止めたまま見ていた。やがて少女は手招きをやめて何かを差し出すような仕草をする。
「前はごめんね! ありがとうも言わずに逃げちゃって!」
蓮次に伝えようとできる限りの声を張って叫んでいるようだった。
ならばと応えるように蓮次が一歩近づく。
少女はまだ何かを伝えようと口を動かし続けていた。
「でも……また、会えて」
声が小さくなる。そして少女の手元からころりと何かが転がり落ちた。
「……よかっ……」
声は途切れた。
彼女の体に亀裂が走り、皮膚が剥がれ、肉が崩れ、砂のように崩れてしまった。
今はもう少女はいない。
蓮次が少女の居た場所にたどり着く。そこに残ったのは血に濡れた着物と、転がったまま動かない赤い飴玉。
蓮次はそれを見つめ続けた。
──なぜあの子は、こんなものを自分に渡そうとしたのだろう。
胸の奥に一瞬沸いた言葉にならない感情。得体の知れない軋み。
──そうか。
風が吹く。
焦げた町の匂いが蓮次の白髪を柔らかく揺らした。
──もう、ここはいい。
蓮次がある山へと視線を移した。
「行くべき……だろうな」
向かおう、あの場所へ──
景色が暗く塗りつぶされる中、ただ静かに歩み続けた。崩れゆく全てを見届けながら。




