108.諦念の月
空気が変わったのは一瞬のこと。
蓮次は朱炎と黒訝の前から忽然と姿を消した。
重く張りつめていた空気が、ぱたりと途切れたように軽くなる。
残された二人はすぐさま地下から地上へと移動した。
空を見あげなくても分かった。
地上では、さらなる闇が広がっていた。
世界が息を潜め、律が狂い始めている。
鬼たちはざわめき、人間たちは戸惑いながら空を仰いだ。
誰ひとりとして、この異変の正体を掴めないまま。
蓮次は、ある森へと移動していた。
彷徨うように見えて、その足取りにはわずかな意図がある。
――過去の記憶を確かめに行く。
目指しているのは、記憶の輪郭がまだ残る場所。
五感が鈍り、意識が曖昧になりつつある中、魂の記憶に任せて進んでいく。
その記憶。「過去」なのか「前世」なのか、自分でもわからない。
ただ、森を進む。
その静かな歩みに合わせて、蓮次の気がじわじわと広がっていく。
かつて優しさを宿していた蓮次の気配は、禍々しい闇へと変貌し、大地を蝕み、空を濁らせていた。
闇に触れた者たちはひとり、またひとりと理性を失っていった。
弱き者は地に伏し、強き者は狂って斬り合い、いくつもの命が音もなく消えていく。
鬼たちは姿を歪め、異形と化して暴走し、世界に破壊の連鎖を撒き散らした。
人間界にも、闇の波は届いていた。
悪意に染まった者たちが自らを壊し、暴力が街を蝕んでいく。
人々の心に潜んでいた澱が、蓮次の闇に呼応して目を覚ます。
世界は、静かに、確実に崩壊の道を歩んでいた。
しかし、その中で蓮次だけが静かだった。
彼は、記憶に残る湖のほとりにたどり着いていた。
森の奥深く――誰の手も届かぬ、静寂に包まれた場所。
滝が細やかな水しぶきを上げ、湖面をわずかに揺らしている。
蓮次はその光景を見つめ、ふと呟いた。
「……ここは、懐かしいな」
指先で水面に触れ、波紋の奥に前世の記憶を探る。
父に叱られ、孤独の影に包まれたあの頃。
逃げ込むようにして見つけたこの場所で救いを求めていた。
「ここは、変わらない。……なのに俺は……」
揺れる水面に映る自分を見つめ、声にならぬ声で呟く。
その顔は、もはや人とも鬼とも呼べぬ、怪物のようだった。
歩けば草は枯れ、触れた木は音もなく朽ちた。
まるで、怪物が通ったかのようだった。
今も、湖の水も黒く濁りはじめ、死んだ魚たちが次々と浮かぶ。腹を見せ、白濁した眼で空を仰ぎながら。
「…………」
森は、すでに死の匂いで満ちていた。
鳥は飛び去り、獣は逃げ、風は腐臭を運ぶ。
雲に覆われた空に、月も太陽も見えない。
蓮次は、ただ静かに佇むのみ。
「壊さずとも……」
存在するだけで、すべては静かに壊れていく。
「ここにいるだけで……」
森は色を失う。
湖に波が立つこともない。
「構わない。俺は、見ているだけ……」
――何も思わない、この世が、闇に呑まれても。
その頃、朱炎は蓮次の気配を探っていた。
しかし、あまりにも広がった闇に埋もれて、もはや正確な位置は掴めない。
「だが、来るはずだ」
その声に、確信が宿っている。
朱炎は、蓮次が必ずここに来ると黒訝に伝えていた。
二人が立つのは、かつて蓮次が処刑された場所。
終わりであり、始まりでもある場所だ。
しばらく待ち、黒訝が不安げに朱炎を見上げる。
朱炎は視線に気づきながらも、その目を逸らさず前を見据えた。
「必ず、ここに来る」――そう、確かに言った。
遠くで響くのは、人の悲鳴か、鬼の唸声が、異形の啼泣か。
聞き分けも不可能な、痛みと怒りと狂気が混ざった叫び。
朱炎と黒訝はただ黙って待っていた。
黒雲の向こうには、全てを諦めた白い月が昇っていた。
光が地上に届くことはない。




