107.悪鬼
この屋敷は、かつて朱炎一族が栄え、暮らしていた場所だった。
今はもう、その面影はない。年月の風に晒された建物は崩れかけ、蔦が壁を這っている。冷たい風が吹き抜けるたびに、軋む音が空しく響いた。
壁に染み付いた哀しみが呻くかのよう。今もなお血の痕跡が残る。
森の奥深く、息を潜めるように佇むこの屋敷は、部屋のほとんどが地下にある。
その一室。石の壁に囲まれ、光もわずかにしか届かない地下の部屋に――
蓮次がいる。
この部屋は、かつての蓮次が幾度となく折檻を受けた場所。
湿った空間。
冷たさと湿気が肌にまとわりつき、空気は重い。
血の染みた縄は、かつての記憶を縛り付けたままだった。
無機質な岩の寝台は、嘲笑うように過去の記憶を呼び覚ます。
そう、蓮次はここで――
悪鬼に堕ちた。
記憶と痛みが混ざり合い、過去の“蓮次”が目を覚まし、闇として覆った。
耐えられるはずもない――
現世の蓮次はただの人間だったのだから。
深い絶望が、蓮次を悪鬼へと変えたのだった。
額から伸びる漆黒の二本の角は禍々しく鋭い。怪しく光る瞳は心を捨てたかのように空洞だった。
身体から滲み出す黒い気配は、床を這い、壁を伝い、この一帯に広がっている。
破滅を呼ぶ者。
まるで、生と死の境を彷徨う象徴のよう。
空間そのものを歪ませている。
蓮次は、この世に許されざるものとなった。
「……堕ちたのか」
低く、哀しみに満ちた声が地下に響いた。
朱炎だった。かつて蓮次の父であった者。
変わり果てた我が子を見つめながら、重い沈黙の中で名を呼んだ。
「蓮次……聞こえるか」
声は虚空へ吸い込まれ、返事はなかった。
蓮次の目は、もう何も映してはいない。
焦点の合わぬ瞳に、感情の灯はない。
朱炎の顔にかすかな迷いが浮かぶ。
そこへ、駆け下りてくる音が地下の空間に響く。風のように早く、焦燥の滲んだ足音。
黒鴉だった。
朱炎は振り返ることなく、静かに片腕を伸ばして彼を制した。
「……待て」
黒鴉は一瞬足を止め、父の横顔を見上げる。
蓮次を真っ直ぐに見つめる眼差しに、父の覚悟を感じ取り、黒訝は無言で頷いた。
黒訝が改めて蓮次を見る。
息を呑んだ。
闇だ。
人の姿をぎりぎり保ってはいるが、人ではない。鬼としての威厳もない、堕ちた者。
かつての蓮次は見出せなかった。
黒い靄が脈動し、沈黙の中にも確かな音を伴ってうねっていた。
黒訝は理解した。
これは、目覚めてはならなかった存在だと。
黒訝の体が震え始め、一歩、後退ろうとした時――
「動くな、黒鴉」
朱炎の声が再び響いた。低く、重く、鋭い。
朱炎にはわかっていた。
今の蓮次は、ひとつの刺激で暴走すると。
そうすれば、この地下だけでなく、屋敷全体、いや、世界が闇に飲まれるかもしれないと。
「……蓮次……」
朱炎が再び名を呼んだ。
空気が震えた。
蓮次の身体から、黒い雷のような闇が放たれる。
床に亀裂が走り、壁が砕け、破片が飛び散り宙を舞う。
朱炎は即座に黒鴉を庇い、後退した。
空気が悲鳴をあげるように裂けていく。
蓮次の瞳が朱炎と交わった。
蓮次がゆっくりと手を上げる。
黒訝は恐ろしさに動くことができなかった。
一方、朱炎が閃光のように蓮次へと向かう。
しかし。
朱炎が蓮次を捕らえる寸前――
姿が消えた。
蓮次はもう居なかった。
闇が潮のように、一気に引く。空間はふと静まり返った。
「……消えた……?」
黒鴉が呟くように言った。
朱炎は無言のまま、裂けた床とひび割れた壁を見つめていた。
――蓮次はどこへ行ったのか。
朱炎の目が鋭く細められる。
ただ一つ、思い当たる場所がある。
「……追うぞ」
静かだが、揺るがぬ声。覚悟を決めた声だった。
黒鴉が頷く。
屋敷の外に出ると、不穏な黒雲は以前よりも広っていた。
闇の余波。
蓮次の闇が、この世を呑み込むようにじわじわと広がっている。
――蓮次を止めなければならない。
悪鬼となった彼を追う。
きっと蓮次は、
あの場所に向かっているのだろう。




