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  作者: Yonohitomi
一章
104/167

107.悪鬼

 

 この屋敷は、かつて朱炎一族が栄え、暮らしていた場所だった。


 今はもう、その面影はない。年月の風に晒された建物は崩れかけ、蔦が壁を這っている。冷たい風が吹き抜けるたびに、軋む音が空しく響いた。

 壁に染み付いた哀しみが呻くかのよう。今もなお血の痕跡が残る。

 

 森の奥深く、息を潜めるように佇むこの屋敷は、部屋のほとんどが地下にある。

 その一室。石の壁に囲まれ、光もわずかにしか届かない地下の部屋に――


 蓮次がいる。


 この部屋は、かつての蓮次が幾度となく折檻を受けた場所。


 湿った空間。

 冷たさと湿気が肌にまとわりつき、空気は重い。


 血の染みた縄は、かつての記憶を縛り付けたままだった。

 無機質な岩の寝台は、嘲笑うように過去の記憶を呼び覚ます。

 

 そう、蓮次はここで――


 悪鬼に堕ちた。


 記憶と痛みが混ざり合い、過去の“蓮次”が目を覚まし、闇として覆った。


 耐えられるはずもない――

 現世の蓮次はただの人間だったのだから。


 深い絶望が、蓮次を悪鬼へと変えたのだった。


 額から伸びる漆黒の二本の角は禍々しく鋭い。怪しく光る瞳は心を捨てたかのように空洞だった。

 身体から滲み出す黒い気配は、床を這い、壁を伝い、この一帯に広がっている。


 破滅を呼ぶ者。


 まるで、生と死の境を彷徨う象徴のよう。

 空間そのものを歪ませている。


 蓮次は、この世に許されざるものとなった。


「……堕ちたのか」


 低く、哀しみに満ちた声が地下に響いた。


 朱炎だった。かつて蓮次の父であった者。

 

 変わり果てた我が子を見つめながら、重い沈黙の中で名を呼んだ。


「蓮次……聞こえるか」


 声は虚空へ吸い込まれ、返事はなかった。


 蓮次の目は、もう何も映してはいない。

 焦点の合わぬ瞳に、感情の灯はない。


 朱炎の顔にかすかな迷いが浮かぶ。


 そこへ、駆け下りてくる音が地下の空間に響く。風のように早く、焦燥の滲んだ足音。


 黒鴉だった。


 朱炎は振り返ることなく、静かに片腕を伸ばして彼を制した。


「……待て」


 黒鴉は一瞬足を止め、父の横顔を見上げる。

 

 蓮次を真っ直ぐに見つめる眼差しに、父の覚悟を感じ取り、黒訝は無言で頷いた。


 黒訝が改めて蓮次を見る。

 息を呑んだ。


 闇だ。


 人の姿をぎりぎり保ってはいるが、人ではない。鬼としての威厳もない、堕ちた者。

 

 かつての蓮次は見出せなかった。


 黒い靄が脈動し、沈黙の中にも確かな音を伴ってうねっていた。


 黒訝は理解した。

 これは、目覚めてはならなかった存在だと。

 

 黒訝の体が震え始め、一歩、後退ろうとした時――


「動くな、黒鴉」


 朱炎の声が再び響いた。低く、重く、鋭い。


 朱炎にはわかっていた。

 今の蓮次は、ひとつの刺激で暴走すると。


 そうすれば、この地下だけでなく、屋敷全体、いや、世界が闇に飲まれるかもしれないと。


「……蓮次……」


 朱炎が再び名を呼んだ。


 空気が震えた。


 蓮次の身体から、黒い雷のような闇が放たれる。

 床に亀裂が走り、壁が砕け、破片が飛び散り宙を舞う。


 朱炎は即座に黒鴉を庇い、後退した。


 空気が悲鳴をあげるように裂けていく。


 蓮次の瞳が朱炎と交わった。

 蓮次がゆっくりと手を上げる。


 黒訝は恐ろしさに動くことができなかった。

 一方、朱炎が閃光のように蓮次へと向かう。


 しかし。


 朱炎が蓮次を捕らえる寸前――


 姿が消えた。


 蓮次はもう居なかった。


 闇が潮のように、一気に引く。空間はふと静まり返った。


「……消えた……?」


 黒鴉が呟くように言った。


 朱炎は無言のまま、裂けた床とひび割れた壁を見つめていた。


 ――蓮次はどこへ行ったのか。


 朱炎の目が鋭く細められる。

 ただ一つ、思い当たる場所がある。


「……追うぞ」


 静かだが、揺るがぬ声。覚悟を決めた声だった。


 黒鴉が頷く。


 屋敷の外に出ると、不穏な黒雲は以前よりも広っていた。


 闇の余波。

 蓮次の闇が、この世を呑み込むようにじわじわと広がっている。


 ――蓮次を止めなければならない。


 悪鬼となった彼を追う。


 きっと蓮次は、

 あの場所に向かっているのだろう。


 



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