106.鬼、異形、人間
森を駆ける。
黒訝は朱炎──父を追っていた。
その先にいるのは、黒雲を孕む闇の渦、その中心に立つ存在――兄、蓮次。
この森はどこまでも深く、どこまでも暗い。
気づけば、父の背は遥か遠くに霞んでいた。
黒訝ごときが追いつける道理などない。
これまでも、幾度となく骨の髄に叩き込まれてきた現実だ。
それでも視線を逸らさなかった。
あの背中こそが“正しさ”だった。
父こそが鬼の理、不動の強さ。
──そう、思っていた。
だが今、その像が崩れていく。
父は、このところ、蓮次ばかりを見ていた。
先ほども自分を振り返りもせず、あの異様な空へ、蓮次のもとへと駆けていった。
焦っていた。揺らいでいた。
あの何者にも揺るがぬ父が――。
胸の奥がざわめいた。
あれほどの父を狂わせたのは、他でもない蓮次。
父がおかしくなったのも……きっと、あいつのせいだ。
直前の蓮次の様子はおかしかった。
一瞬だが、何かが壊れたような、引きちぎれたような気配を感じた。
そして今、この森が異様なほど静まり返っているのも――きっと、蓮次のせい。
黒訝はふと足を止める。
風もない。葉擦れひとつ聞こえない。鳥も虫もいない。
死の気配が、森を満たしていた。
生き物たちは、この地を見限ったかのように、どこかへ消えてしまっていた。
空を仰ぐ。
灰色に濁った天は、不自然なまでに黒雲に覆われていた。
あの屋敷からも見えた、異様な雲――その中心に、蓮次がいる。
「……行くしかない」
喉に絡みつく空気は、重く、湿っている。
まるで鉛を吸い込むように、胸がきしみ、肺が軋む。
それでも、黒訝は踏み出した。
──そして、奴らが現れる。
異形。
鬼に成り損ねた、哀れな怪物。
黒く、毛むくじゃらの体。非対称に潰れた瞳。裂けた口が嗤い、四肢を這わせて迫ってくる。
人でも鬼でもない、なれの果て。
「邪魔だ……!」
黒訝は爪を伸ばし、一閃でその首を断った。
黒い血が地を染め、異形は音もなく崩れ落ちた。
すぐに、また数体。後ろから、横から、群れのように異形が押し寄せる。
「……群れてくるか」
短距離の瞬間移動では、囲まれるたびに突破するしかない。
黒訝は血を浴び、爪を振るい、ひたすら前を目指した。
そこらを彷徨っていた異形たちが、まるで呼び戻されるかのように集まってきていた。
この地が、“負”に染まっている証だった。
すべてを斃し、黒訝はなおも進む。
やがて、村に辿り着いた。
崩れた家々。転がる生活道具。
さっきまで確かに人がいたとわかる。
なのに、今はもう何もない。
黒雲の影は、この村までも飲み込んでいた。
泣き叫ぶ子どもの声。
その前に膝をつく者がいた。
一見、異形に見えたそれは、母親だった。
名を呼びながら呻き、崩れた顔で嗤う。
人の面影をわずかに残した“異形”。
黒訝は周囲に目を凝らす。
すると、また別の気配――
異形を喰らう何かがいた。
人の姿のまま異形の気配を纏う“鬼”。なんの風格もない。強さもない。
「……なんだ、これは……」
見分けがつかない。
鬼なのか、異形なのか、それとも――
「そうか……」
──人間だ。
恐怖に砕かれ、心を壊し、己の姿を保てなかった者たち。
中途半端に鬼の力に触れ、鬼にもなれず、人にも戻れず。
──まるで、蓮次
半端者ばかり。
悪が滲むように変質した存在は、蓮次の存在よりももっと酷い姿に見えた。
──蓮次の“負”が伝染している。
意思を持って襲いかかってくる者。その一方で、ただ泣き続ける者。
明確な線引きなど、もうできない。
時折見せる、人間だった頃の癖――怯え、逃げようとする仕草が、なおさら哀れだった。
彼らはまだ完全に鬼にも異形にもなりきれず、心の底にわずかに“人”を残していた。
「…………」
これは、地獄だ。
黒訝はそう呟き、すべての視線を振り払って駆け抜ける。
もう見ていられなかった。
──そして、黒雲の真下へと辿り着いた。
空は、もうない。
黒く沈む天幕が、頭上すべてを覆っている。
風も止み、音さえ消えたその場所に、強大な“気”が二つ――
父、朱炎の圧倒的な力と、それに対峙する、影すらも呑み込む得体の知れない力。
蓮次だ。もう、蓮次とは呼べない存在かもしれないが、父のすぐ傍にあの男がいる。
黒訝は、無意識に爪に力を込めた。
噛み合わぬ鼓動を抑えきれず、足が勝手に前へと動く。
黒訝は、闇の奥へと。
一歩、踏み込んだ。




