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  作者: Yonohitomi
一章
103/167

106.鬼、異形、人間


 森を駆ける。

 黒訝は朱炎──父を追っていた。


 その先にいるのは、黒雲を孕む闇の渦、その中心に立つ存在――兄、蓮次。


 この森はどこまでも深く、どこまでも暗い。


 気づけば、父の背は遥か遠くに霞んでいた。

 黒訝ごときが追いつける道理などない。

 これまでも、幾度となく骨の髄に叩き込まれてきた現実だ。


 それでも視線を逸らさなかった。

 あの背中こそが“正しさ”だった。

 父こそが鬼の理、不動の強さ。


 ──そう、思っていた。


 だが今、その像が崩れていく。

 父は、このところ、蓮次ばかりを見ていた。


 先ほども自分を振り返りもせず、あの異様な空へ、蓮次のもとへと駆けていった。


 焦っていた。揺らいでいた。

 あの何者にも揺るがぬ父が――。


 胸の奥がざわめいた。

 あれほどの父を狂わせたのは、他でもない蓮次。


 父がおかしくなったのも……きっと、あいつのせいだ。


 直前の蓮次の様子はおかしかった。

 一瞬だが、何かが壊れたような、引きちぎれたような気配を感じた。


 そして今、この森が異様なほど静まり返っているのも――きっと、蓮次のせい。


 黒訝はふと足を止める。


 風もない。葉擦れひとつ聞こえない。鳥も虫もいない。

 死の気配が、森を満たしていた。

 生き物たちは、この地を見限ったかのように、どこかへ消えてしまっていた。


 空を仰ぐ。

 灰色に濁った天は、不自然なまでに黒雲に覆われていた。

 あの屋敷からも見えた、異様な雲――その中心に、蓮次がいる。


「……行くしかない」


 喉に絡みつく空気は、重く、湿っている。

 まるで鉛を吸い込むように、胸がきしみ、肺が軋む。

 それでも、黒訝は踏み出した。


 ──そして、奴らが現れる。


 異形。

 鬼に成り損ねた、哀れな怪物。


 黒く、毛むくじゃらの体。非対称に潰れた瞳。裂けた口が嗤い、四肢を這わせて迫ってくる。


 人でも鬼でもない、なれの果て。


「邪魔だ……!」


 黒訝は爪を伸ばし、一閃でその首を断った。

 黒い血が地を染め、異形は音もなく崩れ落ちた。


 すぐに、また数体。後ろから、横から、群れのように異形が押し寄せる。


「……群れてくるか」


 短距離の瞬間移動では、囲まれるたびに突破するしかない。

 黒訝は血を浴び、爪を振るい、ひたすら前を目指した。


 そこらを彷徨っていた異形たちが、まるで呼び戻されるかのように集まってきていた。

 この地が、“負”に染まっている証だった。


 すべてを斃し、黒訝はなおも進む。

 やがて、村に辿り着いた。


 崩れた家々。転がる生活道具。

 さっきまで確かに人がいたとわかる。

 なのに、今はもう何もない。


 黒雲の影は、この村までも飲み込んでいた。


 泣き叫ぶ子どもの声。

 その前に膝をつく者がいた。

 一見、異形に見えたそれは、母親だった。

 名を呼びながら呻き、崩れた顔で嗤う。


 人の面影をわずかに残した“異形”。


 黒訝は周囲に目を凝らす。

 すると、また別の気配――

 異形を喰らう何かがいた。


 人の姿のまま異形の気配を纏う“鬼”。なんの風格もない。強さもない。


「……なんだ、これは……」


 見分けがつかない。


 鬼なのか、異形なのか、それとも――


 「そうか……」


 ──人間だ。


 恐怖に砕かれ、心を壊し、己の姿を保てなかった者たち。

 中途半端に鬼の力に触れ、鬼にもなれず、人にも戻れず。


 ──まるで、蓮次


 半端者ばかり。


 悪が滲むように変質した存在は、蓮次の存在よりももっと酷い姿に見えた。


 ──蓮次の“負”が伝染している。


 意思を持って襲いかかってくる者。その一方で、ただ泣き続ける者。

 明確な線引きなど、もうできない。


 時折見せる、人間だった頃の癖――怯え、逃げようとする仕草が、なおさら哀れだった。

 彼らはまだ完全に鬼にも異形にもなりきれず、心の底にわずかに“人”を残していた。


「…………」


 これは、地獄だ。

 黒訝はそう呟き、すべての視線を振り払って駆け抜ける。

 もう見ていられなかった。




 ──そして、黒雲の真下へと辿り着いた。


 空は、もうない。

 黒く沈む天幕が、頭上すべてを覆っている。


 風も止み、音さえ消えたその場所に、強大な“気”が二つ――


 父、朱炎の圧倒的な力と、それに対峙する、影すらも呑み込む得体の知れない力。


 蓮次だ。もう、蓮次とは呼べない存在かもしれないが、父のすぐ傍にあの男がいる。


 黒訝は、無意識に爪に力を込めた。

 噛み合わぬ鼓動を抑えきれず、足が勝手に前へと動く。


 黒訝は、闇の奥へと。

 一歩、踏み込んだ。





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