104.鬼になる
「……ここで、折檻を受けた」
蓮次はぽつりと呟いた。
声に出してしまった瞬間、胸の奥がざわめいた。
寒気がする。足が震える。
なのに、どこか懐かしさすら覚えている自分がいる。
脳裏に浮かぶ。
叩かれる感覚。
耐えるしかなかった痛み。
それを「愛だ」と思おうとしていた、幼い己の姿。
「……やめろ」
蓮次は頭を抱えた。
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからない。
逃げ出したいのに、逃げられない。
心の中で、何かが蠢く。
(俺は……こんな場所、知らない……)
必死に否定する理性と、「知っている」と確信する本能がぶつかり合う。
その狭間で、蓮次の呼吸はどんどん浅くなっていった。
ふと、視線が落ちる。
足元の水たまりに、ぼんやりと自分の姿が映る。
けれど――
それは、自分ではなかった。
水面に揺らめく顔は、笑っていた。
歪んだ口元で、嗤っていた。
その顔に、ぞっとした。
「やめろ……!」
蓮次は咄嗟に背を向け、逃げるように駆け出した。
奥へ。奥へと。
心のどこかで「行ってはならない」と叫びながらも、足は止まらなかった。
やがて行き着いた先に、岩を削り出して作られた寝台が現れた。
冷たく、無機質なその台。
ただの石なのに、そこには確かに“何か”が染み付いていた。
蓮次の背筋が凍る。
近づきたくない。けれど、身体が勝手に動いた。
指先が、寝台の表面をかすめる。
その瞬間、強烈な記憶が、雷のように閃いた。
――この場所で、朱炎に血を与えられた。
――生きるために、強くなるために。
「……ああ……」
蓮次は喉を震わせた。
こみ上げてくる感情が、混ざり合う。
あの日の自分。
ただ認めてもらいたくて、血をすすった。
酷い苦痛に、何日も耐えた。
必死に、強くなろうとした。
けれど――
また、見放された。
今世でも、また。
「……まただ……」
膝が崩れる。
石の冷たさに、手のひらが濡れる。
寝台にうつ伏しになった蓮次は、声にならない声をあげた。
(ただ……認めてほしかった、だけなのに……)
ただ、それだけだったのに。
その叫びは、心の底で響き続けた。
朱炎の声を思い出すたびに遠ざかり、冷たく鈍くなっていく。
『今世の蓮次には……何もできぬ』
あの言葉が、胸の内側をずたずたに引き裂いた。
否定したいのに、否定できない。
信じたいのに、信じられない。
(見限られたんだ……)
心がひび割れていく音が聞こえた。
(俺は……俺は……)
崩れ落ちた思考の底で、声がする。
――ならば、俺は
蓮次は、ゆっくりと顔を上げた。
視界が、赤く染まっていく。
寝台に滴る血の記憶は、嗅覚を支配する。
甘い、鉄のような、生きた匂い。
朱炎の血。父の――
「……父上」
それは、かつての蓮次――前世の彼が、絶望と渇望の果てに口にした言葉。
同じ響きで。
心が、一つに溶けていく。
前世と今世、二つの蓮次が交じり合い、境界を失う。
悪意ではない。
怒りでもない。
ただ、心から――強くあろうと、そう決意しただけ。
重く、深く、ゆっくりと、蓮次の魂が沈んでいった。
もう、戻れない。
――俺は、鬼になる




