103.声
蓮次は、静かに自分の手のひらを見つめていた。
爪先が肌をなぞる。鬼となりかけているこの身に、確かに血が通っている。
指をわずかに立て、薄く皮を切った。
傷はすぐに閉じて、うっすらと残るのは赤い線。
じっと眺めていると何かが狂う。血は苦手なはずなのに。肉が食べられないほどなのに。
蓮次は誰かに導かれるように、それを舌で舐めた。
滑らかな肌の上を、舌が這う。舌先が赤をなぞる。血を味わう自分がいる。
そして、どこか冷めた目で滑稽な姿を見下ろしている。もう一人の自分がいた。
血を口にして、不思議な安堵が胸に広がった。口角がわずかに引き攣る。
「何をしているんだ」
心の奥底で、何者かが呟いた。声なき声に、蓮次は応えられない。ただ、ただ、身を委ねた。
部屋を見渡す。この部屋にいる違和感が強くなる。
立ち上がる。すると、世界が急にざわめき始めた。
耳に飛び込んでくるのは、雑音のような、押し寄せる無数の音の重なりだった。
蓮次は集中し、意識を研ぎ澄ます。
これは、ただの雑音ではない。
その奥に、いくつもの声が、交じっていることに気づいた。声の重なりだろうか。
音の渦の中、蓮次の心はざらついた。
焦り。苛立ち。
それと同時に、妙な期待が芽生える。
渦巻く感情に身を灼かれる。
それでも必死に耳を澄ました。
――探してみる、声を。
指先が微かに震えた。
蓮次は音の闇に意識を潜らせる。
波の向こう、深く沈んだところから、微かな低い声を拾った。
「……折檻は、せぬ」
「!?」
「……あの子は……脆すぎる。弱すぎる……」
朱炎の声を聞いてしまった。
きっとこれは、彼の本心だ。
心臓を、不意に鋭い爪で抉られたような感覚。
ぎくりと全身が跳ねた。
最近、距離を感じていた。
旅をしていた頃のように力を与えられなくなった事も、蓮次の心に闇を落としていた。
けれど、今更、なんだというのか。
「今世の蓮次には……何もできぬ」
掠れた言葉。途切れ途切れに聞こえる。
蓮次は耳を塞いだ。
朱炎の声は、また雑音の中に埋もれていく。
声は聞こえなくなった。
けれど、身体の芯が、じわりと冷える。
胸の内側で、何かがゆっくりと軋み、砕け落ちた。
(……見限られた)
自分は、期待されるに値しない存在だと、宣告されたのだ。
朱炎の目に、今の自分は、もう映らない。そんな現実を、受け止めたくなかった。
目の前の景色がぼやける。
息が浅くなる。
自分が瓦解してしまう。もう止められなかった。
(……何を、一体。急に思い出したみたいに……今更、朱炎に振り回される必要は無いだろう?)
――なぜ、こんなにも、朱炎の言葉が気になるのか
蓮次は、手のひらをもう一度見つめ、爪を立てた。
傷口から、また一筋、赤が滲み出る。
生ぬるい血の雫が、ゆっくりと肌を伝う。
蓮次はその血を、また舐めた。
今度は、味わうように、ゆっくりと。
痛みも、味も、何もかも、現実感を伴わない。
蓮次の心は、硬く閉じていく。
――なぜ、こんなにも
気づけば、身体が浮かぶように……。
すっ、と消えるように……。
それが瞬間移動だとわかる前に、蓮次の視界は空白に沈んでいた。
揺らぎが落ち着く。
目を開いた。
肌にじっとりとした湿気を感じた。
石。
ひんやりとした、石畳。
ほのかに水が染み、ぬかるんだ匂いが鼻を突いた。
闇。
どこまでも深く、冷たい闇。
かすかな隙間から漏れる、朧な光が、地面に滲んだ血の跡を照らしていた。
蓮次は、ゆっくりと辺りを見回す。
足元には、かつて誰かを繋ぎ止めるために打たれた太い杭が残っている。
血に染みた縄の断片が、まだ杭に絡みついていた。
この場所を、知っている。
知っているはずなのに、思い出したくない。
息をするたび、肺が重たく濡れた空気を吸い込み、内側から冷やされた。
手のひらを床についた。
指先に伝わる、染み込んだ血と無念の感触。
蓮次は、ぽつりと呟いた。
「……ああ……そうか……」




