◆クッキーの甘さかチョコレートのほろ苦さか、婚約者の甘さはどれぐらい?
「すみません。ちょっと意味がわからないのですが?」
私は目の前できれいな顔に微笑みを浮かべている上官であり、婚約者であるルーフェイスに尋ねる。
「何の意味がわからないのですか?」
全く持って意味がわからないのはルーフェイスの思考だという言葉を飲み込み、差し出された手をそっと私の手で下ろす。
「全然理解できません。何故、私の天国のような仕事部屋に二人がけのソファが置かれる意味もわかりませんし、私が上官である副部隊長の膝の上に座らされている意味もわかりませんし、ここでお茶を出されている意味もわかりません……私の口にクッキーを入れようとしないでもらえます?」
そう、私の快適な窓もなく壁に囲まれた部屋の中に事務机と椅子だけがあるシンプルな部屋の様相が、今は座り心地のいい二人がけの黒い革のソファが置かれ、その前にはガラスの天板のローテーブルが置かれている。そして、ローテーブルの上には有名な菓子店のクッキーにチョコレート、小さなプチケーキまで置かれ、ティーカップからはここ最近よく飲むフェンテヒュドール侯爵家御用達の紅茶のフルーティな香りが漂ってくる。
まぁ、ここまでは許容範囲だ。殺風景な部屋にくつろぎスペースができただけ。
だけど、何故に私はルーフェイスの膝の上に座らされているのか。何故に私にクッキーを食べさそうとするのかわからない。
「エミリア。婚約者の私に対して酷い言いようですね。確かにエミリアから見れば上官ですが、婚約者なのですよ?」
「何事にも節度というものがあります」
距離感は大切だ。このどこに視線を向けて良いのかわからない状況は私の心臓を酷使し続けている。
「婚約者としては普通ですよ。エミリア、あーん」
私の唇に押し付ける様に差し出されたクッキーを渋々口を開けて食べるが、抗議の意味を込めて睨みつけることは忘れない。因みに私の長い前髪はルーフェイスによって耳にかけられているので、視界は良好だ。
なんで、私が睨みつけているのに、満足気な顔をしているわけ?
「そもそも公私混同は駄目だと思います。あれから一度しか家に帰らせてはもらえず、一緒に暮らしているのにこの時間は必要ですか?」
一度。父と母と兄が暮らす家に一度しか帰れていないのだ。それに兄はきちんとした学校に通って文官になる道を進むので、秋には家を出ると聞いている。だから、私はまだ家にいてもいいはず。
「寂しいことを言いますね。これはただのお茶休憩ではないですか。可愛いエミリアを独り占……共に過ごす時間はどれほどあっても足りませんよ」
何か不穏な言葉が漏れてきた。可愛いエミリアってなに!私が素顔を晒すまで珍獣扱いだったじゃない!これはもしかして魔眼が悪さをしている?
睨みつけていた目をそらして視線を下げてみた。
「かわいくないし」
ぼそりと反論する私の両頬を両手で包むように持ち上げられ、ルーフェイスの美人の顔が近づいてくる。
「チュッ」
小鳥が啄むような口づけをしていた。ぐふっ。私の心臓が限界だ。
「エミリアは可愛いですよ。第8師団長の言葉は素直に受け取っていたのに、婚約者である私の言葉は信じてくれないのですね」
「いえ、そういうわけでは……」
ちょっと待って!私よ頑張れ!ここで反論しなければ、この膝の上が定位置になってしまっては困る。
前フェンテヒュドール侯爵が新築のヴァイスアスール伯爵邸に遊びに来るときは何故か私の座る場所が前フェンテヒュドール侯爵の膝の上が定位置になってしまっている。
『エミリアちゃん、じーじだぞ』と膝をポンポン叩いて、座るように促されるのだ。勿論、最初は抵抗していた。だが、長年私が出入りしていた第1師団の師団長をしていたことで、私の好みは把握されていた。
珍しい呪符が手に入ったぞとか、古い魔導書が手に入ったぞとか、美味しい肉が手に入ったぞとか言われるのだ。それはフラフラと膝の上に座るだろう。
それをルーフェイスは綺麗な笑みを浮かべて見ているのだ。オカンが激おこの表情だ。
前フェンテヒュドール侯爵もそれをわかっているので、私の頭をグリグリ撫ぜてきたり、高い高いをされるのだ。私はいったい何歳に思われているのだろうか。これでも18歳なのに。
「副部隊長。そろそろ仕事に戻ったほうがよろしのではないのですか?」
私は先延ばしを選択した。この状況で反論すると私の心臓が口から出そうになることになるだろう。主に新築のヴァイスアスール伯爵邸に戻ってからだが。
「アルドですよ」
「ここは職場で……アルド様!」
ニコニコとした笑顔が近づいて来たので、つい名前を呼んでしまった。しかし、ルーフェイスはそのまま近づい来たので思わずのけぞるが、背中に腕を回されているので、距離を取ることができなかった。
ルーフェイスは私の額に口づけをして、私の耳に掛かっていた前髪を下ろしてきた。視界が半分になった私をソファに移動させて、好きに食べていいですよと言葉を残してルーフェイスは私の仕事部屋を出ていった。
扉が閉まったことを確認して私はそのままふかふかのソファに倒れる。
もう『ウギャー』と叫びたい。何?あの甘々な雰囲気。どこがそんなに私が気に入ったわけ?何故、私の城である仕事部屋に来てまで、色気を振りまいていくわけ?きっと私のVitalityは赤く点滅しているに違いない。
のろのろ身を起こして、英気を養うためにティーカップを持ち、冷めてしまった紅茶を一気に煽る。冷めてしまっても美味しい。
これはルーフェイスが淹れてくれた紅茶だ。オカンは紅茶を淹れるのも上手だったのだ。
そして、チョコレートを一粒食べる。食べながら考える。まだ、オカンの激おこの表情になら耐性はあるが、ルーフェイスの甘々な私に構ってくる笑顔に対して耐性が全く得られない。これはどうしたものか。私の心臓が破裂するか、私の思考がパンクするかのどちらかの未来しか見えてこない。
よし、これはストレス発散が必要だ。
確か、さっき部下からの情報が書かれた紙の端に殴り書きがあったと、プチケーキを口の中に突っ込んで、散らかった事務机のところに行く。山になった多種多様の紙から目的の報告メモの探し出し、主要の部分ではなく、端に書かれた文字に視線を向ける。思わずニヤリと口が歪んでしまった。
一つしかない部屋の扉まで向かい、内側から鍵を掛ける。そして踵を返して、先程の事務机まで戻って、机の下に潜り込んだ。床に猫の爪のような飛び出ている床の木のささくれに指を掛け、床を持ち上げる。そこにはポッカリと真っ黒い空洞が口を開けていた。
そこに飛び込んで、地下道にこの身を落とす。地下道と言ってもここの第0部隊の者たちが人と会いたくないという理由から、地下や壁の中や天井裏に通路を作ったので、迷路のようにこの第0部隊の詰め所内を縦横無尽に作られているので、普通の人が入ると出ることができなくなる。
地下道を通り、行き止まりにある縦坑の様な空洞を二階分上がり、天井裏を這い、溝のような壁の隙間に降り、壁の隙間を通り、1階と2階の隙間を通り、壁の隙間を上に登って天井裏を進んでいき、目的の場所に到着した。正に立体迷路だ。
2階の天井部分を外し、中にいる人物に声を掛ける。
「たいちょー。ちょっと付き合ってほしいですぅー」
室内で抜き身の剣を上半身裸で振っている人物に声をかけた。
「なんだ?」
私が声をかけても素振りをやめる様子は見られない部隊長。
「ここで剣を振っているとふくちょーに怒られますよー」
「んなもん。居ないから素振りをしているのに決まっているだろ」
部隊長もオカンに怒られることがわかっているので、普通は室内で抜き身の剣を振るうことはない。だが、ここで剣を振るっているのは第0部隊専用の訓練場がないためだ。
そして、私も部隊長も今の時間帯はルーフェイスがこの詰め所にいないのを知っている。ルーフェイスは私の仕事部屋を出ていった後はお昼前に書類を騎士団本部に持っていくのが日課なので、私はルーフェイスとすれ違う可能性がない裏道を通って部隊長の執務室に来たのだ。
「たいちょー。例のモノが出現したと報告があったので、一緒に狩りに行きませんか?」
「お!もう、そんな時期か」
私の言葉で部隊長は素振りをやめて、剣を鞘に収め、天井にいる私の方を仰ぎ見た。乱れた金髪を後ろに撫でつけながら、ニヤリと笑みを浮かべる。
「じゃ!いっちょ行くか!で、エミリア。お前の旦那には許可はもらったのか?」
旦那?
「たいちょー。私にだんなっていう人はいないですぅー」
「なんだ?後でバレたら怒られるぞ」
「だからー、たいちょーを誘っているんじゃないですかー。私のストレスの発散に付き合ってくださいよー」
部隊の隊長と共に行動を取ることで、これを業務化するという寸法だ。といっても、部隊長と私がフラフラと出ていくのはいつものことなので、二人してオカンに怒られるのだ。
「おう、ストレスか!それは駄目だな」
部隊長は腰に剣を佩き、真っ白な上着を手に取り、それを着る。
「たいちょー。騎獣舎で待っていますからねー」
そう言って私は騎獣舎に向かっていく。そこは第0部隊の詰め所の近くにある移動手段に使う騎獣がいるところだ。それは地を駆けるモノもいれば、空を飛ぶモノもいる。
私の騎獣は足が8本の馬だ。馬と言っても頭に3本の角が生え、下顎から上に向かって牙が突き出ている厳つい姿の馬だ。
その騎獣を騎獣舎から出したところで、思わず手綱を強く握ってしまった。
「エミリア。お仕事はどうしたのですか?」
私の目の前には綺麗な笑顔で笑っているオカンがいた。そして、その横には目をそらして頭をバリバリ掻いている部隊長が突っ立っていた。
もしかして、出ていくときにバレたのですか!
「今日はたいちょーとお仕事に行くのですぅー」
私はへろりと笑って今日の予定が変更になった事を告げる。
「そうだぞ!今日は緊急の別件が入ったのだ」
部隊長も事務仕事に飽きていたので、私の味方になってくれる。
「緊急の別件ですか。私は聞いていませんよ?」
「言っていませんからぁー」
言ってはいない。言えば拒否られるのがわかっているから、オカンには事後報告にいつもなるのだ。
オカンが綺麗な笑顔で近づいてきたので、私は手綱を手放し一歩下がる。
「何故、報告されないのですかね」
また一歩近づいて来たので、ルーフェイスの頭上を飛び越え、部隊長の背後に降り立ち、部隊長を盾にする。
「えー。だって言ったら反対されるじゃーないですかー。たいちょー!そうですよねー」
「そうだよな。エミリアは肉が食べたいという理由だし、俺は暴れたいというのが理由だからな」
「たいちょー!バラさないでくださいよー!」
私は部隊長の硬い背中をバシバシ叩く。思いっきり二人共私利私欲にまみれている行動だった。
「でもな、ずるいだろう?第1師団の奴らは楽しそうに今も狩りをしているのに、俺はここで事務仕事だ。エミリアもクソガキの頃から戦って来たのに、ここで引きこもっているのはストレスが溜まるっていうものだ。こういう仕事も必要だ!」
「たいちょー!」
私は部隊長の腕に抱きつく。部隊長は元々第1師団の部隊長だった。そう父と同僚だった。それが、問題児集団の第0部隊の設立と同時にその第0部隊の部隊長に収まったのだ。だから、子供の頃の私のことも知っている。
まぁ、この言い分も部隊長が暴れたいだけのことを正当性があるように言っているだけに過ぎない。
すると、ルーフェイスから深い溜め息が出てくる。
「いつも私が怒っているのは、二人共仕事を放置して忽然と姿を消しているからです。きちんと説明されれば、怒ったりしません」
「じゃ、今から炎牛を狩りに行ってくるからな」
部隊長はそう言って私を小脇に抱えた。あの?私は荷物ではないですが?
「は?炎牛?あの辺り一帯を燃やし尽くす魔物ですか?」
「そうですー。お肉が美味しいのですぅー」
「ちょっと待ってください。そのような災害級を二人で討伐に行くとは無謀です!私も準備して行きますから!」
私と部隊長が何を倒しに行くか聞いたルーフェイスは慌てだした。そう、炎牛は地面さえも燃やすという火力の強い魔物だ。
「駄目だ」
「だめですぅー。ふくちょーが来るとお肉が冷えて美味しくなくなるのですぅー」
「そうだぞ。炎をまとった状態で狩らないと不味くなる」
私と部隊長から使えない人扱いされたルーフェイスは綺麗な笑みを向けてきた。
「あなた達の監視員は必要ですよね」
何がなんでも付いてくる気のルーフェイスは部隊長に笑顔のまま近づいて来て、荷物のように抱えられている私を奪い取るように抱きかかえ、更に言い放った。
「それに訂正しておきますが、私はエミリアの未来の旦那ですからね」
ん?あれ?この話って?私は恐る恐る視線を上げる。
「未来の旦那には報告してくださいね」
キラキラ笑顔を向けられ、私は思わず頷いてしまった。これって、部隊長と私の話をルーフェイスに聞かれていたってことじゃない!
ルーフェイスは私と部隊長の内緒話を聞いて止めに来たようだったけれど、結局付いてくるようだ。未来の旦那というルーフェイスは結局私に甘いのではないのだろうか。それは甘いチョコレートのように、ほろ苦さを含んだ激甘なのではと、ふと頭をよぎってしまった。
そして、私はやる気満々の部隊長とキラキラ笑顔のルーフェイスと共に炎牛狩りに行くのだった。
因みに、ルーフェイスがエミリアと部隊長の内緒話を聞いていたのは、裏道を歩いているエミリアの気配を感じて、行き先に先回りをしていただけです。ストーカーではありません(笑)