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群青のカタストロフィ  作者: 相川 健之亮
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終章

潮風が前髪をなびかせ、砂浜に立ち込める喧騒の残響を運んでくる。

 九十九里浜は、東京湾に面した砂浜と違って風に淀みがない。人間の営みを飲み込み、あざ笑うような、太平洋の広大さを感じる。

 快晴の空を映した海は煌々として、湿気を含んだ空気を清々しい光で射抜いている。


 もと研究室メンバーでバーベキューをする話が持ち上がったのは先週のことだった。幹事は高橋で、全部で九人のメンバーが集まった。

 砂浜のすぐそばのバーベキュー場は混みあっていて、炭と肉が混ざったような臭いが、開けた空間と潮風によって薄められる。


 私たちのグループに女性は三人おり、うち一人は亜希子だ。亜希子は女子二人に囲まれ、少し膨らんできたお腹を触られている。

 結婚しているのは私と亜希子だけ、他は独身者だ。

 式を挙げたのは今年の六月で、多分、比較的こじんまりとした式だったと思う。同棲を始め、妊娠が発覚した三月の終わりより少し前に、結婚式の日にちは決まっていた。

 同棲を始めたタイミングで籍を入れたが、それから時間の流れが異常に速くなった気がする。

 大切な存在が毎日すぐそばにいて、一人暮らしの時に時々感じていた不安も寂寥感もほとんどなくなり、安心して生活できているからだろう。


 巨大生物から始まったウイルスの騒動からはや一年が過ぎようとしている。

 亜希子が入院していた病院に乗り込んだ日の後、橘の言っていたとおり一週間程度でワクチンができたことを厚生労働省が発表し、日本だけでなく、世界中で使われることとなった。

 ワクチンとは言っても、内実はおそらくハブクラゲの毒、もしくは似た物質か抗体そのものだろう。いずれにしても、容易に生産できるもののようで、医療現場に浸透するのも早かった。

ウイルスの炎はあっという間に鎮静化し、現在でも少数の感染者が出続けているようだが、ワクチンのおかげで脅威はほとんどなくなった。死のウイルスではなくなったのだ。


亜希子は数日で退院できた。

それからすぐにプロポーズした。


 女子の一人が

 「須藤君といつから付き合ってるんだっけ? かなり長いよね。憧れるなあ、そういう結婚。」

 と亜希子に言っているのが聞こえる。

 もうすぐ三十になろうという男女がこれだけの人数が集まって、結婚している者がほとんどいない現状を見ると、亜希子と出会えて本当にラッキーだったと思う。

 男たちで談笑しながら酒を飲んでいる高橋を見て、「もっと女子が呼べたらいいんやけどなあ」とメールで嘆いていたのを思い出す。


 私は砂浜とバーベキュー場を隔てている並木の方へ歩いて行った。

 「おい。こんなところに居ないで、皆のところへ行けよ。」

 私は木にもたれて酒を飲みながら海を眺めている橘に声をかけた。

 橘は振り返ると、ニヤッと笑い、

 「ああ、すぐ戻るよ。」

 と言って、また海の方を向いた。

 「しかし珍しいよな。高橋がこういう集まりを主催するなんて。」

 私が隣に立ってそういうと、橘は、

 「まあ、もともとは俺が高橋にやろうって言ったのが始まりだからな。場所も俺が見つけて、高橋に教えてやったし。」

 と言った。

 「そういうことだろうと思ったよ。」

 私は幾分か皮肉を込めて言ったつもりだったが、思ったような冷たい響きは伴わなかった。


 「俺は今ではちょっとした有名人だろ? 俺からみんなを誘うと、自慢して虚栄心を満たしたい痛い奴みたいに思われそうだからな。」

 橘は海を見つめながら言った。

 ウイルスのワクチン完成が発表された時、厚生労働大臣が会見を開いた。そこで、ワクチン開発者として同席していたのが橘だ。

 私もその映像をリアルタイムで見ていた。


 橘はいつになく真剣な表情で臨んでいた。

ハブクラゲの毒が有効なのではないかという推測をしたのは私だ。手柄を横取りされたようなものだが、私は驚きも怒りも感じなかった。

淡々と会見を行う厚生労働大臣を見て、彼も橘と同じ、アトランティス人なのだろうと思った。世界を救うワクチンの開発者として橘がその横に立っているという事実が、彼が私に語った言葉の裏付けになっているようだった。

この国の中枢には、すでにアトランティス人が入り込んでいる、という言葉の。

 私の力ではどうしようもない、そんな諦観と、これから世界がウイルスの脅威から解放されるという喜びが混ざった妙な感情を抱いた。


 多くの人々がそのワクチンによって救われた。先日手紙を送ってきた東条もその一人だ。

 「俺を恨んでるのか?」

 橘がこちらを見て訊く。

 「恨んでいないと言えば嘘になる。」

 私も橘をまっすぐ見る。

 「だが、世界は救われた。俺も亜希子も生きている。お前も。それが何よりだ。」

 風が木々を揺らして吹き抜けた。橘は前髪を抑える。


 「言っておくが、俺が真実を話したのはお前だけだ。信頼している。俺が違う人種、種族であってもそれは変わらない。そして、俺が出世できたのも、世界が救われたのも、全てお前のおかげだ。ありがとう。」

 そう言った橘の目は誠意に満ちているように感じた。

 橘とこうやって話したのは本当に久しぶりだ。病室で真実を告げられてから一度も会うことはなく、わだかまりを解消する機会は今日までなかった。

 物事や感情の問題の多くは、時間が解決してくれる。

 「なんだか、すっかり元通りになったようだな。俺たちも。世界も。」


 「いや。」

 橘はまた薄笑いを浮かべる。

 「元通りなんかじゃない。とてつもない大きな変化があった。」

 こちらの不安を誘発させるような嫌な笑みだと思った。


 「変化? お前の出世のことか?」

 それとも俺と亜希子の結婚のことか? と訊こうとすると、

 「そんなんじゃない。人類の変化だ。」

 橘は体をこちらに向けた。


 「もしかして、ウイルスは完全に死滅したとでも思ってるんじゃないか?」

 それを聞いて、内臓をギュッと掴まれたように感じた。

 「いいか。俺たちの目的は全人類をウイルスに感染させ、海洋生物の遺伝子を体内に入れ、進化を促すことだ。世代ごとにわずかしか変化は進まないだろうが、人類が次のステップに進む、その契機を作り出すことだ。」

 橘の目は真剣だ。

 「俺はワクチンを作った。お前も知っている通り、ハブクラゲの毒からな。効果はハブクラゲの毒自体とほとんど変わらないワクチン、いや、抗体だ。」

 暑さによる汗か、冷や汗かわからないが、シャツが濡れているのを感じる。


 「須藤。お前は毒の抗体の影響で、ウイルスの症状が抑え込まれていたな。それは決してウイルスが体内から無くなったわけじゃない。表には出ていないだけで、ずっと潜伏状態にあったんだ。そして、」

 橘は私を指さす。

 「今もな。」

 私は目を逸らした。これ以上この話を聞きたくなかった。

 「お前はウイルスの魔の手から逃れられたわけじゃない。ウイルスはずっとお前の体に残り続けるぞ。」


 なんとなく、そのことには気づいていた。だが、直視するのを避けてきた。

 橘の言う通り、この体の中にはウイルスが眠っている。

 ハブクラゲの毒の抗体を持っているのに関わらず、佐脇の研究所でウイルスの検査結果は陽性だった。ハブクラゲの毒はウイルスを殺すものではなく、症状を抑制するものだ。

 そして、世界中で使われているワクチンは、ハブクラゲの毒と同じ効果らしい。

 「お前だけじゃない。感染者全員に、それは言える。」

 橘は砂浜にいる海水浴客たちの方を見る。


 潜伏状態のウイルスは、空気感染はしない。しかし、血液感染はする。

 ワクチンで症状は抑えられていても、ウイルスが体内に潜伏している人は増え続けるだろう。人類が存続するために必要とする、性交という行為によって。


 「前も言ったが、このウイルスの目的は人類を滅亡させることじゃない。凶悪的な致死性を持ったのは不慮の事故のようなものだ。お前が発見してくれたハブクラゲの毒、それから生まれたワクチンによって、本来の目的の達成へ大きく近づいたのさ。」

 橘が私へ言った感謝の言葉が、皮を脱ぎ別の意味を表してきた。

 私は、期せずして人類の行く先を決定づける、その手助けをしてしまったのかもしれない。


 しかし、どうしようもなかったのだ。何もしなければ亜希子も私も、そして大勢の人が死んでいた。

 私の発見や行動が、橘たちの目的達成に大きく寄与していたとしても、素直に後悔はできない。現に私たちは生きているのだから。


 「最後に言っておく。」

 橘は木から離れ、私に近づき、耳打ちをするようにいう。

 「このウイルスは母子感染もする。感染者から誕生する命には、ウイルスが宿り、たとえワクチンを打ったとしても、海の生物のDNAが無条件に刻み込まれる。」

 それを聞いて呼吸が荒くなる。

 心のどこかで感じていたことだ。だが、はっきりと告げられると、やるせないような不快感がこみあげてくる。

 思わず亜希子の方を振り返る。


 「俺らの計画は始まったばかりだ。これから、世界が変わっていく。お前ら劣等種が俺らの手によって進化していくんだよ。」

 そう言った橘はすぐに後方へ歩いて行ったので、表情は見えなかった。

 何もなかったかのように、昔の仲間たちの中に入り談笑を始める姿が見える。

 「傲慢だ。」

 私はそう呟いたが、その言葉が自分にも突き刺さるように感じた。


 人間は傲慢だ。

 まるで自分たちが世界の中心にいるかのように、他の種を支配し、自然を破壊している。自分たちが生き延びるためという目的を超えて、少しでも便利に、少しでも快適に生きられるように、支配と破壊を続けている。

 橘たち、アトランティス人の目論見は、これまでの人類の行いのしっぺ返しなのかもしれないとも思う。


 だからと言ってウイルスによって多くの人を殺した、その罪は消えない。しかし、橘たちの行為だと証明できたとして、国の司法がそれを裁くかどうか。アトランティス人の支配は私の想像している以上に、日本に、世界中に及んでいる可能性がある。

 これまでも、支配被支配の関係は幾度も塗り替えられてきたのだろう。

 そして、新たな交代は、ウイルスとアトランティス人によってもたらされるのだろう。

 これから続く生活には、常にウイルスが潜んでいる。


 亜希子の体内のウイルスが、臍帯を通して胎児の体内に侵入するのを想像する。子どもはそのウイルスを宿したまま大人になり、次の命にも遺伝子を伝え、進化を進めていくのを想像する。

 そもそも、このウイルスがワクチンによってずっと抑制され続けるという保証もないのだ。私たちは、いつ爆発するかも分からない爆弾のようなウイルスを抱え続け、それを次の世代にも残していくのだ。

 血液感染と母子感染によって、感染者は増え続け、人類全ての体内にこのウイルスが宿る日もいつか来るかもしれない。


 しかし、生き続けなければならない。

 誰かに支配され、その目的に利用されているような実態であっても、人生には幸福感が伴う。

 生きて行くのだ。

 裏に誰がいて、これから先何が待ち受けているか分からないこの世界で。


 亜希子とともに築く家庭は、おそらくこの悔しさや、やるせなさを忘れさせてくれるだろう。

 適度な労働と、家庭と、友人付き合いと、そんな温かいひだまりのような人生に浸かっている。


 そんなふりをして生きて行こうと思う。

 幸い、橘は近くにいる。

 このウイルスを死滅する術を見つける。

 今は全く手掛かりなしだが、今回得た、東条や佐脇とのつながりを活かして、いつかやつらの寝首を掻いてやりたい。

 私たちはあくまで被害者だ。支配被支配を決める虚しい争いだとしても、私は戦い続けたい。


 そろそろ仲間のもとへ戻ろう。

そう思って体を翻そうとした瞬間、砂浜の方から大きな悲鳴とざわめきが起こる。

 こちらに向かって、何かから逃げるように駆けてくる人々がいる。

 二本の触覚のついた巨大な頭が海から顔を出している。


 その時私には、海そのものが巨大な青い塊になって、全てを飲み込もうとこちらに迫ってくるように見えた。






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