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群青のカタストロフィ  作者: 相川 健之亮
7/8

抗体


 亜希子からの電話の後、高橋から東条の電話番号を教えてもらい、すぐに東条に連絡した。間違った判断はどうしても避けたかった。

 東条は設備が充実した大きな病院が良いということで、都内の国立病院を紹介してくれた。民間の病院では十分な広さの病室や防護服がない場合が多く、院内感染が起こる可能性が高いらしい。


 東条が対応をしてくれるということで、亜希子の家の住所とを教えた。

 夕方に東条から連絡が入り、亜希子が母親とともに救急車で病院へ搬送されたことが私に伝えられた。

 発症後の接触は無かったが、母親も検査対象になったということだ。

 私は亜希子への面会を希望した。

病室の外から声を伝えるだけでも、ガラス越しでもいいから面会できないかと東条に相談した。

東条は無情に否定の言葉を告げた。

電話さえも叶わないだろうとのことだった。 

 それでも私は雨の中、亜希子がいる病院へ向かった。


 三つの棟から成っており、そのうちの一つの棟の外壁が白いシートで覆われていた。おそらく、その棟が丸々感染者用として使われているのだろう。

 無駄だろうと思ったが、亜希子のスマートフォンにメッセージを送る。

 少し待って、居ても立っても居られず電話をかけた。繰り返される、少しこもったような呼び出し音に、アスファルトにぶつかる雨の音が絶望的な響きを付与していた。


 亜希子は多分、無機質な牢獄のような部屋の隅にある、変にこぎれいなベッドに伏している。

 防護服で顔も見えない医師や看護師に囲まれ、死が迫る恐怖に一人耐えている。


 私は、気が付くと病院に入り、受付の前に立っていた。

 私は懇願した。どんな形でもいいから、亜希子とコミュニケーションをとらせてくれと、受付台に身を乗り出して言った。

 マスクをした女性従業員は、透明なパーテーション越しに、

 「残念ですがご希望には添えかねます。大変危険なウイルスですので、感染拡大を防ぐため、感染者の患者様は完全に隔離させていただいております。院内の他の患者様の命にも関わることですので。」

 と、私とは対照的な、落ち着いた冷たい声で言った。

 私はぐったりと項垂れ、病院を出た。


 不幸というものは、こうも突然訪れるのかと思った。

 正直、心の奥ではこのウイルスについて他人事のように感じていたと思う。

 自分の近くで姿を現し、大切なものを奪っていくのがこれほどまで早いとは。

 いや、まだ奪われてはいない。これから、数日間じっくりと亜希子の体はむしばまれ、本人も気づかないうちに命を奪われるのだ。

 そう考えると呼吸が苦しくなった。

 全て私の責任だ。もっと事態を重く受け止め、もっと亜希子に寄り添えば、守ることができたはずなのだ。

 雨が靴に浸みるが、悲嘆と後悔にとらわれた脳は、少しの冷たさを感じるだけで、不快感はなかった。


 自宅に着いてから、もう一度亜希子へ電話をかけたが、虚しくコール音が繰り返されるだけだった。

 



   二


 スマートフォンのバイブレーションで目を覚ました。

 時計は九時を回ったところで、外は真っ暗だ。帰宅してからベッドに横になり、そのまま寝てしまったのだ。

 バイブレーションは橘からの着信によるものだった。

 スマートフォンを耳に当てる。

 「もしもし、須藤。高橋から聞いたぞ。亜希子ちゃんが感染したって。」

 いつもどおりのトーンだ。

 だが、孤独と無力感と喪失感に打ちのめされそうになっている今、この声を聞けるのはありがたかった。


 「ああ、もう病院に運ばれて隔離されてる。」

 できるだけ落ち着いた声で答える。

 「なあ、どうするんだ。これから。」

 その問いかけを聞いて、自暴自棄になったような、怒りのような感情が一瞬芽生える。

 「どうするって…。どうしようもないだろ。治ることはない。死ぬのを待つしか、ないだろう。」

 「じゃあ、諦めるか? 何もしないでじっとしてるか?」

 橘の声は真剣だ。

 亜希子の命を救う手立てはない。しかし、今のところ、という話だ。何か可能性があるなら、それにすがりたい。

 「…橘。何か手があるのか?」

 「いや、分からん。」

 毅然とした声が返ってくる。

 「けど、探すことはできる。亜希子ちゃんを助ける方法を。そして、それは同時にウイルスから日本、いや、世界を救うことができる方法でもある。」

 私は電話越しで、無言で頷く。


 「もしお前がまだ諦めていなければ、俺と高橋と三人でウイルスの研究に加わろう。東条先生のつてだ。」

 それを聞いた瞬間、真っ暗闇に一筋の光明が差したような気がした。

 「ワクチンの開発を手伝うってことか?」

 「まあそうだな。だが、ワクチンに限らず、このウイルスの感染者を救う手立てを見つけること、それが至急のミッションだ。ウイルス学だって、俺らの海洋生物学と全く無関係じゃない。特にこのウイルスは、海の生物が感染源である可能性が高いからな。俺らだからこそ分かることもあると思ってる。」

 至急のミッションという表現は、おそらく亜希子を救うことからだろう。

 高橋経由で亜希子のことを聞いた橘は、いち早く東条、もしくは東条から教えてもらったウイルスの研究員に交渉したのだろう。

 その結果、了承がもらえ、今私に連絡しているのだろう。


 私は、取りつく島を見つけた安堵と、行動を起こせる嬉しさと、橘の気遣いへの感謝と、亜希子に迫る死への焦燥感と不安と、いろいろな感情が入り混じって生まれた震えを抑えながら、

 「うん。分かった。俺も参加させてくれ。亜希子をどうしても助けたい。」

 と言った。


 通話は五分足らずのものだった。

 しかし、そのごく短い時間で気持ちが切り替わった。

 起こったことを嘆いてもしょうがない。時間の無駄だ。今大切なのは前向きに行動を起こすことだ。


 翌日、東条から紹介してもらったウイルス研究所に行くことになった。場所は水道橋駅から歩いて数分のところらしい。


 私は職場の課長に、来週の月曜日から二日もしくは三日間、休む連絡を入れた。

 感染者は発症後、五日間程度で死亡している。三日目や四日目に昏睡状態になり、その後あっという間に死に至る。

 来週の火曜日、遅くとも水曜日がデッドラインだ。

 大学時代に授業で購入したウイルス学の書籍を引っ張り出した。焼け石に水とは思いながらも、居ても立っても居られなかった。

 午前二時ごろまで本を読みながら、これまでのウイルスの情報をまとめながら考えていた。

 窓の外から聞こえる雨音が弱まるのに合わせて、思考の雨も止んでいき、うつらうつらとしていた頭が眠りに落ちるのもそう遅くはなかった。


 その日、またあの夢を見た。

 海に沈んでいく。

 もがこうとしても体が動かせず、力なく沈んでいく。

 息が苦しい。

 下を覗くと、また白い手が見える。

 いつもと違ったのは、その手が私の足首を掴んで、下へ下へ引きずり込もうとしていたことだった。




   三


 九月十九日、日曜日。

午前十時に水道橋駅に集合し、橘と高橋とともにウイルス研究所へ向かった。


研究所は二階建てで、一階の入り口は厳重に封鎖されていた。

「もしもし、高橋です、本日はよろしくお願いします。今、着きました。」


高橋がスマートフォンで誰かに電話をすると、私たちから見て建物の右側にある非常階段から白衣を着た男が一人、下りてきた。

四十代だろうか。体格はがっちりしており、肌も日焼けしている。

 「どうも。この研究所で勤めている、佐脇といいます。エントランスは閉めているので、こちらへどうぞ。」

 佐脇は、非常階段の方へ私たちを案内した。

 階段を上ると、観音開きの扉が見えた。傍にあるテンキーロックに佐脇がパスワードを入力すると、その扉の片側を開けた。


 中はいたって普通のオフィスビルのような廊下だった。すぐ左手に見えた階段を下りると、先ほどの封鎖された入り口の裏側が見える、受付と待合いスペースに出た。

 促されるまま、窓際の大き目のソファに三人並んで腰かけた。


 「ええ、改めまして、佐脇と申します。」

 佐脇の声を皮切りに、こちらも各々名乗る。

 「東条からお話は伺っております。お三方とも大学で海洋生物を専攻していらっしゃったことも、今回のあのウイルスの感染源が海の生物である可能性が高いということも、そして、」

 佐脇が私の方を見る。

 「知人があれに感染してしまった方がいることも。」 


 それから私たちは、三人それぞれがウイルスとどのような関わりを持っているのか佐脇に説明した。

 私は勤めている研究所の先輩が、ウイルスの感染源と思われるプランクトンを発見していたこと、巨大生物の出現した日に居合わせたこと、恋人が感染してしまったことを話した。

 橘と高橋も、自身の職業と、その立場からこのウイルスについて推測したことや、関連した情報を得たことを話した。


 佐脇は黙って聞いているだけだったが、話を聞き終わると笑みを浮かべ、

 「それぞれ熱意を持って、この件に関わりたい、力になりたいと思われているのですね。よく分かりました。」

 といった。

 高橋は恐る恐るという感じで、

 「あの。東条先生からも聞いていることと思いますが、私たちをぜひ、こちらの研究に加えていただけないでしょうか?」

 と訊いた。

 「いいですよ。こちらこそよろしくお願いいたします。」

 佐脇は拍子抜けするほどあっさり承諾した。

 「あなた方の推理に基づいて、また、東条に言われたとおりにあのお妙な微生物を検査し、ウイルスを検出したのは私なんです。これは大発見ですよ。あなた方のおかげです。そして、これからもぜひ意見をお聞かせいただきたい。」

 頭を下げる佐脇を見て、こちらも頭を下げる。

 一刻も猶予のない状況に変わりはないが非常に良い流れだ。このウイルスの研究に直接関わることができる。

 「それではさっそく検査を始めます。」

 と言って席を立ち、すぐに戻ってきた佐脇は、

 「研究室だけでなく、事務所に入るためには健康状態と、ウイルスに感染していないかどうかの検査が必要です。項目は、目と上半身の皮膚の状態の確認と血液検査のみになります。」

 と言いながら、検査内容が記載されたプリントを三人に手渡した。


 その後、別室ですぐに検査が行われた。

 三十分も待たずに検査が終了した後、またロビーのソファに座らせられた。

 検査結果は数十分で出るらしい。

 佐脇はお茶と氷が入ったグラスを置きながら、

 「そういえば、すでに聞いているかと思いますが、東条も感染者です。被験者として、今この研究所内にいます。」

 「え、そうなんですか?」

 橘が声を上げる。

 「てっきりずっと自宅におられるのかと思っていました。」

 「あれ、ご存じなかったですか。まあ、こっちに来たのも昨日からなので、ビデオ通話をされた一昨日の金曜日の時点ではまだ自宅にいたと思います。」


 恐らく、東条も居ても立っても居られなくなったのだろう。その動機が、自分の命を救う手立てを求めてのことなのか、自分の命で多くの命を救おうとしてのことなのか、どちらかは分からないが、とにかくじっとしていられなかったのだ。

 「しかし、東条からは本当に貴重な情報をもらいました。まさかあの巨大生物と妙な微生物が感染源だったなんて。たしかに東条の集めた情報、つまり、二週間の潜伏期間と感染者の移動歴を照らし合わせたものは、物事を順序だてて考えれば導き出せるのですが、政府からの強い圧力の中で情報収集できたのはさすがとしか言いようがないです。」


 佐脇がそういうと、橘が、

 「ウイルス研究も裏で行われていたんですね。各研究所が閉鎖されているという情報を見て、政府の制限がそこまで及んでいると思っていたので。」

 と訊いて話題を切り替えた。

 「はい。制限を受けそれに従いましたが、それは表向きで、実際は研究を続けていました。何か新しい発見があった場合は報告するように、厚生労働省から通達が来ていましたし、政府も我々がこっそり研究をしていることに気づいているようでした。ちなみに、その通達の中には、政府がウイルスの研究を依頼したアメリカの研究機関から報告文もありまして。」

 「アメリカ?」

 思わず私は聞き返していた。


 政府が各研究所に課した制限と、それでも研究を続ける場合には報告を義務付けるという、二重の網を張っていたことは納得したが、アメリカの研究機関も絡んでいるというのは初耳だ。

 「アメリカの研究機関がなんで…。」

 訝しむ私を見ながら、佐脇はゆっくりソファにもたれかかった。

 「さあ、私も詳しくは。ただ、知っていますか? 巨大生物襲来の際にもアメリカの研究機関が来日していたという噂。SNSが正常に機能していたころはそんな目撃情報から推測された陰謀論じみた話が充満していました。火のない所に煙は立たぬと言いますし、今回の事件といい、我々の想像している以上に闇は深いかもしれません。」

 たしかにそのとおりだ。ずっと考えないようにしてきたことだが、この事件は闇が深いかもしれない。

 一方的にこのウイルスの真相を隠蔽しようとしている政府の動きの理由は、日本内部の都合だけではないのかもしれない。


 「けど、暗い話題だけじゃない。今週に入って、非常に嬉しい発見がありました。」

 佐脇は一枚のカルテをテーブルの上に置いた。

 「この患者は九月七日、先々週の火曜日から未発症の感染者として病院に隔離されていた男性です。」

 カルテには色黒の男性の顔写真と山本一雄、男性、三十五歳という文字が見える。


 「実は東条の病院の患者でね。今週月曜日、東条の病院の閉鎖が決まった日に彼から電話が来たんです。『潜伏期間を大きく越えても未だに症状が出ていない患者がいる。その患者を引き取ってくれ』と。」

 三人ともカルテから目線を上げた。

 「それがこのカルテの男性です。沖縄出身で現在は横須賀に在住。巨大生物が出現した日も、その現場でサーフィンをしており、つまり八月二十二日の日曜日に感染したのにも関わらず、九月十四日の月曜日まで発症が確認されていなかったんです。」

 私はすぐさま訊いた。

 「今も、発症していないんですか?」

 佐脇は笑みを浮かべて頷く。

 私たちも顔を見合わせた。


 このウイルスの特徴の一つである、長い潜伏期間。これまでは十日から約二週間で発症すると考えられてきた。しかし、例外が存在しているという。

 「どうやら東条からは何も聞かされていないようですね。まあ彼もこの患者についてはそこまで注意していなかった。たまたま潜伏期間が少し長いだけだろうが、念のため、佐脇の研究所でみてもらおう。そんな軽い気持ちだったのだと思います。しかし、依然としてその男性は無症状です。もちろんウイルスの単なる気まぐれで、発症を先送りにしている可能性もありますが、他にこのような例はありません。この患者の体内には他の患者とは違う、ウイルスの症状を抑え込む何かがある、そう考えたら面白いですよね。」


 「抗体のようなものを持っているんですかね?」

 橘が訊くと、

 「抗体かどうかはまだわかりません。既往歴や服用していたことのある薬やサプリメント等を調べて、血液の検査もしているんですが、まだ他の患者と何が違うのか分かっていません。」

 少し希望が見えてきた。

 もしその男から抗体が検出されれば、一気にウイルスに対抗する糸口が掴める。

 四日後の水曜日までにワクチンが形になってほしい。難しいとは思いながらも、強く期待を持ってしまう。いや、持たなくてはいけない。亜希子は絶対に助けたい。


 その時、受付の後方のドアが開き、白衣の男性が出てきた。

 「佐脇さん。ちょっと。」

 男は佐脇を呼び、何やら耳打ちをする。

 「はあ? 本当に?」

 佐脇は男から書類を受け取り、目を通している。

 「間違いないんだな?」

 と、佐脇が念を押すように確認すると、男は複雑そうな表情で頷く。

 佐脇はこちらを向くと、近づいてきてこういった。


 「ええと。須藤さん。あなた感染していますよ。」




   四


 目を覚ますと白い天井が見えた。

 簡易なキッチンとベッドに挟まれてある敷布団の上で体を起こすと、部屋の隅の机に座っている東条の姿が見える。


 東条が振り返り、

 「おはようございます。ぐっすりお休みになっていましたね。」

 と言う。

 マットレスもない敷布団で寝たからか、体全体が痛い。いや、体内のウイルスの影響なのかもしれないと思ってしまう。


 急いで起き上がり、キッチンに備え付けられている鏡を確認する。 

 目の充血は無く、とりあえずほっとする。

「どうも、おはようございます。今は何時ですか?」

 私が訊くと、

 「朝の八時です。」

 と東条がパソコンを操作しながら答える

 ちょうど八時間ほど寝ていたようだ。


 私の感染を東条から告げられた直後、高橋が「ひっ!」と小さな叫び声をあげて私のそばから離れた。

 橘も驚いたような、険しい顔でこちらを見ている。

 「大丈夫です。症状は出ていませんから、空気感染の恐れはありません。」

 と言いつつ東条も、少し距離を置いている。


 私はその場で選択を迫られた。

 病院に搬送され、そのまま隔離されるか、それともこの研究所内で隔離され、研究に協力するか。

 私が答えを選ぶのにそう時間はかからなかった。


 研究所内で、血液検査をはじめ、様々な精密検査を受け、昨日の夜からこの部屋に隔離されている。橘と高橋は非感染で、事務室で資料を見ながら、研究の現状についての話を聞かされていたようだ。

 同室に東条がいることと、研究所の研究員や職員と内線でコミュニケーションが取れるということが大きな救いだ。


 朝食のカップラーメンとビタミン剤を摂取し終わると、

 「それではさっそく、須藤さんの状況を整理してみましょう。昨日はほとんどお話しできませんでしたからね。」

 と、敷布団を片付けてできたスペースで向かい合った東条が言った。

 たしかに時間はもう残されていない。あと二日間以内に何も発展しなければ、亜希子は助からないだろう。

 「あなたは亜希子さんから感染したんでしょうか?」


 私は記憶をたどって答える。

 「そうだと思います。週末はよく会っていましたから。」

 「最近はいつお会いになられましたか?」 

 東条の問いで、より細部の記憶にアクセスしようと試みる。

 「…九月十一日。先週の土曜日に会っています。性交渉も、しています。」

 その日、亜希子の体に異常は見られなかった。潜伏期間中は血液感染が起こる。私はちょうど潜伏期間中だった亜希子のウイルスに感染したのだろう。

 そうなると、来週末には私にも症状が出始めるはずだ。


 死はもちろん恐い。

 しかし、今は亜希子を救うために尽力できない歯痒さの方が勝っていた。

 「うーん、なるほど。分かりました。」

 東条は神妙な面持ちで腕を組んでいる。


 「一つ、私が気になったことをお話しします。山縣亜希子さんが隔離されている病棟には私の知人もいて、情報を流してもらっているんです。昨日亜希子さんの問診の内容が送られてきましてね。それによると、彼女は発症した感染者との接触も、あなた以外との性交渉も行っていないというんですね。」

 「では、感染源のプランクトンを吸引して、亜希子は感染してしまったのではないでしょうか?」

 東条は首をかしげて、

 「それがですね。彼女の移動歴等を洗っても、二週間以内に横須賀周辺に行ったりはしていないようなんですね。」

 と言う。


 「一応空気中を浮遊できるプランクトンですし、たまたま、運悪く亜希子の体内にはいってしまったんじゃあ」

 「いえ、浮遊と言っても、できたとしてせいぜい十メートルほど。海から陸に移動できるかできないか程度です。たまたまうまく風に運ばれたとして、山縣さんご自宅、職場周辺での感染は確認されていないので、ピンポイントで山縣さんだけ感染するのは非常に奇妙です。」

 もし、亜希子の答えと感染者情報が正しいのなら、たしかに奇妙だ。

 「それと、たまたまとか、偶然とか、そういう可能性まで考慮していると真実が遠のく場合が多いです。まずは冷静に、目の前にある事実だけを見て推理しましょう。」

 東条は諭すように、優しく笑いながら話す。


 その後、部屋に備え付けてあったメモ用紙に、過去一か月の日にちと起こったこと、ウイルスの情報をかき出しながら、頭の中を整理した。


 ある一つの可能性に気づいたのは正午を過ぎたころだった。

 東条は席を立ち、キッチンに向かう。

 「もうお昼ですね。どうします? カレー味とかもありますけど。」

 「あの、その前に一つ聞きたいことがあります。」

 東条は私の方を見て、部屋の真ん中スペースの私の向かいに座る。


 「なんでしょう。なんでも聞いてください。」

 「八月二十二日の日曜日。ウイルス感染の第一派は、あの巨大生物が出現した、波風公園に来ていた海水浴客たちなんですよね。その中には、あの巨大生物が昼に姿を現す前に海に入り、巨大生物の姿を見ることなく午前中に帰った人もいるんでしょうか?」

 私がメモ用紙を手に持ったまま質問すると、

 「ええ、そのはずです。私が調査した限り、午前中に来て、午前中に帰った人たちの中でも感染者は出ていますよ。」

 私はその答えで、真っ暗闇に小さな可能性の光が少しずつ広がっていくのを感じた。

 「それがどうかしましたか?」

 東条は不思議そうに私の顔を覗き込んでいる。

 私は立ち上がった。

 「会わせてください。隣の部屋の人に。」




   五


 佐脇へ内線を入れるとすぐに対応してくれることになった。ただし、面会するのは一人だけにしてくれとのことだ。

 防護服を着た研究員が一人、部屋のドアを開け、私を隣の部屋へ誘導する。


 ドアを開けると、私がいた部屋とほとんど同じ広さの空間がある。簡易キッチンとベッドの位置は逆だが、設備も同じようだ。

 部屋の真ん中に机があり、一人の男がこちら向きに椅子に座っている。

 私が部屋に入ると、防護服はすぐにドアを閉めた。

 座っていた男は、佐脇が昨日見せたカルテに載っていた男だ。感染から潜伏期間が過ぎたはずなのに、いまだに発症していないと言われていた、彼だ。


その男は立ち上がり、

 「初めまして、山本一雄と言います。」

 といった。

 長い間ここに隔離されているからか、カルテの写真よりは幾分かやつれて見える。ウイルスに感染しながらも、何らかの理由で発症に至っていない彼は、今の私にとって最大の希望だ。


 私は名乗った後で、簡単に用件を言った。

 「さんざんここで訊かれていることかもしれませんが、山本さんご自身のことをできるだけ詳しく教えてください。」

 「いいですよ。で、どんな質問ですか?」

 人とのふれあいがほとんど無いためか、色黒で細目の少し気難しそうな顔に似合わず、気前よく答えてくれる。


 私は遠慮せず次々と質問していった。

 身長、体重、血液型、持病、よく食べていたものなどから始めた。流れで、趣味を訊くと、サーフィンと山本は答えた。

 「横須賀に住んでいるので、頻繁にサーフィンはしていました。サーフィンを始めたのは高校生くらいからですかね。それ以前も海で泳ぐのは大好きで、夏はほとんど毎週のように海に行っていましたよ。」

 血液型や体型、年齢等、その他の身体的特徴も、彼のウイルス抑制の原因だと思えなかったが、彼の海での経験が少し引っかかった。


 「ずっと横須賀に住まれてるんですか?」

 と訊いてみる。

 「いえ、横須賀の前は沖縄に住んでいましたよ。まあ、沖縄で育ったから海が好きになったっていうものあると思います。」

 沖縄…。

 また引っかかる言葉が出てきた。

 「沖縄にはどれくらい居たんですか?」

 山本は斜め上を見ながら年数を数える。

 「何年くらいだろう。僕、生まれたのは福岡で、三歳の時に沖縄に引っ越してるんですよ。高校に入ってから横須賀に来たから、十二年くらい居ましたね。沖縄に。」

 それなら沖縄の海で育ったといっても過言ではない。

 山本の肌が焼けているように見え、それがなんとなく自然に見えるのも沖縄で育ったからだろう。


 「羨ましいですよ。僕も海が好きで、沖縄の海に一度だけ行ったことがありますが、綺麗で驚きました。」

 私がそういうと、

 「みんなそう言いますけど、ずっとあそこに居るのは辛いですよ。湿度はずっと高いですし、交通は不便だし。それに、生き物が怖いですよ。」

 「生き物、ですか。」

 山本は軽く頷く。

 「自然がいっぱいあるのはいいことですけど、毒を持った生き物もたくさんいるんですよ。代表格なのがハブですよね。親があれに噛まれて病院に運ばれたことがあって、それ以来蛇が苦手なんですよ。陸だけじゃなくて、海にも毒を持った生き物が多く生息してますしねえ。」


 私は小学生のころ見た、あの透き通るような海を思い出しながら話す。

 「海で、毒っていうと、ウミヘビとか。あと、沖縄だとクモヒトデ、とか有名ですよね。」

 山本はまた軽く頷く。

 「そうですね。けど一番恐いは多分あれですよ。クラゲ。」

 たしかにクラゲには毒を持つものが多い。沖縄にも数多く生息していそうだ。

 山本は続ける。

 「クラゲの中でも、ハブクラゲってやつがいるんですが、これが猛毒なんですよ。しかもハブの何十倍もの。さされたらめちゃくちゃ痛いです。ショック死する場合もあるみたいですね。」

 ハブクラゲは聞いたことがある。沖縄の海全域で出現するクラゲで、時期も幅広かったはずだ。


 「山本さん、刺されたことがあるんですか?」

 「ええ、一度だけあります。小学六年生くらいに。お盆が過ぎたばかりのころ、友人数人といつものように海に行ったんですが、浅瀬で泳いでいると左足に激痛が走ったんです。歩くこともできなくて、友人に担がれて海から上がったんですが、今でもはっきり覚えていますよ。左足に巻き付いた透明な触手を。」

 水族館の水槽で浮かんでいる神秘的な青白いクラゲの姿を連想する。

 クラゲの触手の表面には刺胞という、針を内包した器官がある。外敵に触れるとそこから針が飛び出し、毒でダメージを与える。

 観賞する分には美しいが、実際は強い毒を持っているものが多い。


 「それから一週間、左足がパンパンに腫れあがって大変でしたよ。痛みで歩くのもままならなくて。その年はもう海に行けませんでしたね。クラゲが恐くて。」

 たしかに考えただけでもゾッとする。

 体の動きが制限される水中で突如激痛を感じ、身動きが取れなくなる。よく姿も見えない、生き物が足に巻き付き攻撃してくるのだ。

 ふと、あの夢の光景が思い浮かぶ。

 突然、体が動かなくなり、視線が海中に移る。足もとには、白い手が手招いている。

 その時、あの揺らめく手とクラゲの姿が重なった。

 



   六


 午後二時過ぎ。

 私はパソコンに向かっている東条に声をかけた。

 「東条さん。少しいいですか。」

 また、部屋の中央で向かい合って座る。


 「どうしました。また何か聞きたいことでも?」

 東条は頭を掻きながら、好奇心に満ちた目で私を見つめる。

 「僕と亜希子の感染について、自分なりに考えて、一つの結論に至りました。それを聞いてもらいたいです。」

 私は推理を書いたメモ用紙を取り出して話す。

 東条も頷く。


 「まず、僕が感染したタイミングについてです。亜希子の感染が発覚した後に僕の感染が発覚したことによって、僕は亜希子から感染したのだと盲目的に考えてしまっていました。」

 メモ用紙に書いた、過去一か月のカレンダーを指さす。

 「亜希子が発症したのは九月十八日、一昨日の土曜日です。ということはその約二週間前に他の感染者か感染源に触れたということになります。で、僕は九月十一日土曜に潜伏期間中の亜希子との接触したことにより感染したと思っていました。しかし、亜希子の証言を信じるなら、亜希子は過去二週間私以外とは性的な接触はなく、感染源に近づいたということも考えづらい。」


 東条は目線を落とし、

 「そうですね。亜希子さんの感染経路が全く分かりません。潜伏期間中の感染者で空気感染が起こる例があれば話は別ですが、そうなるととんでもないパンデミックが起こっているはずですから、可能性は低いでしょう。」

 という。

 「はい。そのとおりです。例外を考え始めるときりがないですから、東条先生のおっしゃったとおり、事実をもとに推理を組み立ててみました。」


 私はカレンダーの八月二十二日を指し示す。

 「僕はすでにこの日に感染していたのではないかと、そう思ったんです。」

 東条は目線を上げ、首をかしげる。

 「八月二十二日、あの生物が姿を現した日ですね。この日は亜希子さんとお二人で現場近くの宿泊施設にいたと聞いていますが、もし須藤さんが感染していたとしたら、亜希子さんもこの日に感染していそうな気もしますが。」

 「いえ、この日感染したのは僕だけです。実はこの日の午前中、僕一人、海で泳いでいるんですよ。巨大生物が出現していない、午前中に海に入った海水浴客も感染しているなら、僕が感染していても全然おかしくないですよね。」

 実際、当日は二日酔いで寝ている亜希子を部屋に残し、午前の間少し海で泳いでいる。


 東条は何度も、軽く頷いて、

 「なるほど。しかし、それだと依然として症状が出ていないのはおかしいですよ。九月の第一週には発症しているはずです。」

 といった。私もそれを聞いて頷く。

 「おそらく、僕も何らかの理由で、発症が抑えられているのではないかと。つまりウイルスはずっと潜伏状態ということです。」


 次に九月五日日曜を指さす。

 「この日にも僕は亜希子と接触しています。ここで亜希子にウイルスが感染したんでしょう。きっと。」

 東条はメモ用紙を手に持った。私の推測の妥当性を確認しているようだ。

 「須藤さんが亜希子さんから感染したのではなく、亜希子さんが須藤さんから感染していたと。たしかに筋は通っています。お二人の体内にどのようにウイルスが入ったのか、一応の説明はつく。」

 東条はそういうとメモ用紙を置いて、こう続けた。

 「亜希子さんが九月五日に感染し、約二週間後の九月十八日に発症するは分かります。しかし、あなたはなぜ発症していないんでしょうか? 隣の部屋にいる山本さんも長い間発症が抑えられている。しかし、現在まで何も分からずじまいです。先ほどの彼との会話で何か分かったのですか?」


 私はもう一枚のメモ用紙を取り出し、東条に見せた。

 山本の発言をメモしたもので、彼の身体情報や簡単な経歴、趣味まで書いてある。

 「山本さんと僕には共通点があることが分かりました。それが沖縄のクラゲ、ハブクラゲに刺されたことです。」

 メモの中の「ハブクラゲ」という箇所をペンで丸く囲む。

 「実は、小学生のころ沖縄の海で溺れかけたことがあります。泳いでいると足に何かが触れた感覚がして、急に体が動かなくなりました。そこで足もとに奇妙なものを見たのです。山本さんも僕と類似した体験をしており、それがハブクラゲの被害ということを聞いて、はっとしたんです。」

 東条は神妙な顔で聞いている。

 「僕はすぐに実家の母親に連絡を取りました。事実を確認するためです。」

 「だからさっきどこかへ電話されていたんですか。」

 私は頷く。

 「溺れたその日、僕が見たものは海の底から手招きをしている青白い人間の手だったんです。いや、そう思い込んでいたんです。母は言っていました。僕はハブクラゲに刺されて溺れたということで間違いない、と。」

 「これまで教えてもらっていなかったんですか。」

 東条が訊く。


 「はい。僕は幼少のころから海の生物が好きだったので、その海の生物に恐怖心を抱かせないようにするため、このことには家族内では触れないようにすると、両親の間で話し合っていたようです。その結果、海の中で見た揺らめく何かを、人間の手と錯覚し、その錯覚が夢に出てくるまでに私の中で定着していたんです。」

 山本の話を聞いたとき、直観的に起こったイメージ。

 あの不気味な白い手が、揺らめくクラゲの姿と重なる、そんなイメージ。


 「毒の痛みを感じた覚えはないのですが、おそらくパニックになり、そのまま気を失ったのかと。」

 ここではスマートフォンの持ち込みも許されていないが、事務室に内線をすると外の電話番号に発信できるようにしてくれる。すぐに実家に発信してもらい、母親に事実確認をした。

 母はこれまで事実を伏せていたことを謝っていたが、私のことを慮ってのことと分かり、私の方も感謝を述べた。


 「それで、お二人の共通点として、ハブクラゲに刺されたことがあるということが挙がったということですね。」

 東条は感心しているようだ。

 「まだ他に共通点があるのかもしれませんが。」

 私が少し自信なさげに言うと、

 「もう時間もあまりありませんし、これにすがりましょう。」

 と言って東条は立ち上がった。


 「さっそくその話を佐脇に伝えましょう。隔離されている私たちでは何もできませんからね。」

 私も立ち上がり、佐脇に内線をかけた。

 「もしもし、須藤さん。体調はいかがですか?」

 こもったような佐脇の声が聞こえた。

 私は、東条に伝えたとおりの推理を話した。私と亜希子がいつ感染したか。ハブクラゲの毒がこのウイルスの鍵を握っている可能性。

 佐脇は唸りながら聞いていた。


 「試してみる価値はありそうですね。」

 話を聞き終わると、佐脇は静かに言った。

 「試験方法は二つ。ハブクラゲの毒をウイルス感染者に投与すること。そしてハブクラゲの毒の抗体を投与することです。両方試してみましょう。」

 ついに、ウイルスへ直接的な対抗ができるかもしれない。

 「ぜひ、早急にお願いします。」

 私は興奮を抑えながら言う。

 「ハブクラゲか…。」

 電話の向こうで佐脇は考え込んでいるようだ。


 「ハブクラゲはかなり強力な毒を持っています。アナフィラキシーショックが起きる例もあると聞きます。しかも、刺された箇所は大きく腫れると聞きます。ウイルスの初期症状には発疹もありますし、もしかするとハブクラゲの毒と同質な部分があるのかもしれません。そして、須藤さんと山本さんの体内に残っているハブクラゲの毒の抗体が作用して、ウイルスの発症を抑え込んでいるのかもしれません。」

 アナフィラキシーショックとは、薬や毒や食事など、アレルギーの原因物質が体内に入ることで引き起こされる症状だ。

有名な例では蜂毒だ。スズメバチに刺された時、稀にショック症状が起こり、場合によっては死に至る。

 症状を考慮すると、このウイルスは毒に類似しているのかもしれないと思い至るのも理解できる。


 「あの、どれくらいで試験は終わりますか?」

 明後日には亜希子の命が危ない。明日には有効性を実証し、亜希子の治療に活用できるようにしなければならない。

 しかし、電話口からは無情な答えが返ってきた。

 「そうですね。実用に至るには、少なくとも一週間くらいでしょうか。」

 「一週間?」

 私は思わず声を荒げそうになる。

 「時間がないんです。なんとかもっと早く…、お願いします。」

 「そう言われましても…。」

 困ったような佐脇の声が聞こえる。


 「ハブクラゲの毒を取り寄せるのも、何日かかるのか分かりませんし、お二人の血液を再度分析して、毒の抗体の有無を調べるのも時間がかかります。どう少なく見積もっても一週間はかかります。」

 昏睡状態で、死を待っている亜希子の姿が浮かぶ。

 「なんとか、なんとか明後日までに…。お願いします。お願いします。」

 私は必死に食い下がった。

 「残念ですが…。」

 佐脇は苦々しそうに言う。

亜希子のことは佐脇も知っている。到底間に合わないということを佐脇の方が痛烈に感じているはずだ。


 「では、佐脇先生。一つだけ、私からお願いしたいことがあります。」

その時、私は一つの決心をした。

 「亜希子と同じ国立病院に、私を搬送してください。」




   七


 九月二十一日火曜。

 午後五時、研究所が用意した手術着のような服から私服に着替えていると、佐脇から内線があった。

 「救急車が到着したようです。そちらにお迎えが向かいますので、そのままお待ちください。」

 「佐脇さん。もろもろのお手配、ありがとうございました。」

 私が礼を言うと、

 「こちらこそ。須藤さんのおかげで大いに研究が前進しそうです。ありがとうございます。」

 と佐脇が言った。


 防護服に身を包んだ二名の救急隊が部屋に入ってきて、私にマスクをかけさせ担架に乗せる。

 部屋を出る時に東条が、

 「須藤さん。どうか、お気をつけて。」

 というのが聞こえた。

 外に出ると昼間に浴びた熱を残したアスファルトのじんわりとした熱さを感じる。日は傾き、周りのビルに反射していた。

 救急車の中では簡易ベッドに寝かされ、発進する振動を後頭部に感じた。

 社内は無言だ。

 いや、それも当然だ。私の体内には死のウイルスがある。

 私の両脇に座っている救急隊の二人は私の方を見ようともしない。感染の恐怖に怯えながら私を搬送しているのだろう。

 目を閉じて、車の振動を感じ続けた。


 国立病院に着くまでそれほど時間はかからなかった。車の減速を感じると、そのまま停止し、すぐに後方の扉が開けられる。

 担架に乗っている状態で車から降ろされると、車庫の中のような場所だった。

 隅にほうにある大き目の扉を開けると、病院の廊下だった。おそらく隔離病棟への入り口だったのだろう。

 エレベーターに乗り、上の階へ移動する。

 七階で降り、また廊下を通過する。感染者は全員の病室の外には出られないようで、廊下には防護服を着た医師か看護師の姿しか見えない。


 私が入れられた部屋はベッドが二つあったが患者は誰もいない。完全に個室のようで、ドアから離れたほうのベッドに寝かされた。

 おそらく重要な患者だとみなされているのだろう。

 横になってしばらくすると、防護服姿の女性の看護師が入ってきた。

 「須藤淳一さん。これからすぐに検査を行うので、こちらの問診表に記入をお願いします。書けましたらお声がけください。」

 私はペンとクリップボードに綴じた問診票を受け取り、無気力なふりをして質問内容を見つめた。

 看護師はもう一つのベッドを整えようと背を向けた。


 その瞬間私は動いた。


 背中に隠していたナイフを抜き、後ろから看護師の首を絞める。

 「きゃあ!」

 と防護服の中のため少しこもった叫び声をあげ、看護師が振りほどこうとする。

 「動くな!」

 私は後ろからナイフを看護師に見せる。

 「動けば殺す。それが嫌だった俺の言う通りにしろ。」


 看護師はしばらく無言で震えているだけだったが、やがて首を縦に振った。

 「よし。感染者の患者の中に山縣亜希子という女性がいるはずだ。今すぐその病室に案内しろ。」

 私が囁くように、しかし威圧を込めて言うと、看護師は無言でよろよろと歩き始めた。


 このナイフはウイルス研究所のあの隔離部屋からくすねたものだ。東条は最後まで反対していた。

 しかし私はその反対を振り切って、肌着とシャツの間にナイフを隠した。そして今、意図したとおりの使い方ができている。

 看護師にナイフを突き立てたまま廊下に出る。


 エレベーターの方に歩くと、防護服を着た男性がこちらに気づき、一瞬固まったかと思うとこちらに駆けてきた。

 「ちょっと、何やってるんですか!」 

 私はひるまなかった。

 「来るな! この女の首を掻き切るぞ!」

 これまで出したことのない大声を出した。

 男は立ち止まり、そのまま壁際に下がる。看護師の女も男に対して、「大丈夫」というふうに目配せをしているようだ。

 エレベーターに乗り、五階へ移動する。

 五階の廊下は作業をしている防護服が三人いた。今度は看護師が両手を前に出して、反応を抑えるように訴えかけていたので騒ぎにはならずに済んだ。


 看護師は廊下の一番奥左手にあるドアの前に立った。

 「こ、この部屋です。」

 私は周囲を気にしつつ、ナイフをさらに看護師の首元に近づける。

 「そのまま開けるんだ。」

 女は頷き、ゆっくりとドアを開ける。

 部屋の中には、左側に二つのベッドがあり、間に防護服が一人立って、何か記録しているようだ。

 防護服が振り返ると、

 「動くな!」

 と私が先にけん制をいれる。

 防護服を着ているのは、眼鏡をかけた年配の男性だ。おそらくこの病院の医師の一人だろう。

 一瞬で事態を悟ったのか、医師はクリップボードを持ったまま両手を上げた。

 「落ち着きなさい。」

 恐怖と焦りの表情を浮かべながら、上ずった声で言う。


 「そこにいるのは山縣亜希子か。」

 私が奥のベッドを見ながら問う。

 「あ、ああ。そうだが。」

 医師は私の声に反応して少し近づく素振りを見せる。

 「何もするな!」

 私の声にビクッと体震わせ、後ずさりする。

 私は看護師の首にナイフを当てたまま、亜希子のベッドの横へ移動する。


 確認すると、確かに亜希子のようだ。酸素マスクをつけられ寝ている。もう昏睡状態になっているのだ。

 ウイルスの症状を間近で見るのは初めてだ。たしかに、首や腕の皮膚に発疹が見える。

 「君。馬鹿なことはやめなさい。」

 医師が諭すようにいう。

 「この部屋から出ていけ今すぐ。」

 私が看護師の首に防護服の上からナイフを当てながら威圧的にいうと、

 「分かった。分かったから落ち着きなさい。」

 医師はこちらから視線を外さないように後ずさりし、部屋から出て行った。

 「ほらお前もだ。」

 看護師に向かって囁き、ナイフを突き立てたままドアまで歩かせる。

 看護師がドアの外に出たところで私は、

 「いいか。この部屋には誰も入れるな。もし誰かが入ってきたらあの患者を殺す。」

 と後ろから言った。

 看護師が頷くと、部屋の外へ解放し、内側からすぐにドアを閉めた。


 部屋の外では看護師が走っていく音が聞こえる。

 おそらく、感染者どうしの心中とでも思っているのだろう。しかしそれは違う。私は亜希子を助けに来た。僅かな可能性にすがってなんとかここまで来た。

 亜希子のベッドの横に立つ。

 たった数日しか経過していないが、亜希子は明らかに痩せていた。あのウイルスが確実に体を蝕んでいる。

 私はシャツのポケットから一本の注射器を取り出した。この注射器の中身こそ、このウイルスに打ち勝つための希望だ。


 昨日、佐脇から、ハブクラゲの毒やその抗体の効果について検証し、実用に至るまでには早くて一週間かかると告げられた後、私はこの病院に搬送してもらうよう希望した。

 理由は、できるだけ亜希子の近くに居たいからと話してある。

 そしてすぐに橘に電話をした。

 彼は私が感染する前と同じ声色で電話に出た。

 私は亜希子と同じ国立病院に入院することになったことを説明した後、こう言った。

 「橘、一つだけ頼みがある。後生のお願いだ。ハブクラゲの毒、もしくは、それと同質の物質を手に入れることってできないか?」


 橘はさすがに驚いていた。

 「ハブクラゲ? なんでまたそんなもん。」

 私はこれまでのいきさつを簡単に説明した。

 私が亜希子よりも前に感染していたこと。

 発症していないのは、以前にハブクラゲに刺されたことに起因しているのではないかということ。

 橘は「うーん」としばらく考えていた。

 私は何度も頼んだ。

 「ハブクラゲって沖縄のクラゲだろ。多分こっちのほうには毒のサンプルもないだろうし。まあ、ベストは尽くすけど、あんまり期待すんなよ。」

 と結局橘は引き受けてくれることになった。


 佐脇の研究に協力するため、再度血液検査等を行った。

 橘から小包が届いたのは、今日の昼の検査が終わったところだった。

 差し入れだと防護服の研究員に渡され、中身を確認するとたしかに駄菓子やカップラーメンの詰め合わせだった。もしやと思いよく確認してみると、菓子の袋の中に一本の注射器を発見した。

 おそらく、橘がなんとか手に入れたハブクラゲの毒のサンプルだろう。

 私が何を考え、これから何をしようとしているか、彼にもなんとなく察しがついていたのだろう。だから注射器に入れた状態で、なおかつ見つからないようによこしたのだ。

 東条に気づかれないようにシャツのポケットに忍ばせたが、彼も私の様子を不審がっているようだった。


 私が今握っているこの注射器にはハブクラゲの毒が入っている。そう確信している。

 発疹にまみれた亜希子の左腕を手に取る。

 あんなに白くきれいだった腕、こんなに醜くなっていることに対して、怒りに似た感情が沸き上がる。

 このウイルスせいで、彼女は死の恐怖に怯え、今は意識もない。

 私はもちろん誰かに注射をしたことは一度もない。

 毒を注射する、この場合は皮下注射だろうか。亜希子の二の腕の、少し皮膚が厚くなっている部分を探す。

 とにかくやるしかない。

 私は亜希子の二の腕に注射針を突き刺した。初めての経験であること、そしてうまくいくだろうかという不安で心臓が高鳴る。

 ゆっくりと注入し、針を抜いた。


 とりあえず、上手く注射はできたようだ。

 ひとまず安堵し、近くにあったパイプ椅子に腰を下ろす。

 すでに警察は通報されているはずだ。しかし、ここは隔離病棟で、私は感染者の一人だ。おそらく、対応の検討に少しは時間がかかるだろう。


 私は両手を組み祈った。

 頼む、亜希子、生きてくれ。

 学部時代、大学の図書館で一緒に課題に取り組んでいる時、締め切りに追われる私に向けた彼女の悪戯っぽい笑み。

 水族館で、水槽の中の神秘的な世界を見つめる横顔。

 昔、遊園地で彼女が財布を失くして、二人で必死になって探した時。その時の泣きそうな顔。

 酔いつぶれた彼女に付き添って、公園で夜を明かしたこと。

 社会人になってからは、仕事の疲れやストレスを隠すような空元気が増えたこと。

 横須賀の夜を見ながら抱いた小さな肩。

 洪水のようにいろいろなことが思い出された。


 こんなことになるなら、もっと早く結婚するんだった、という後悔も顔を出してきた。

 もしかすると私は、変わらずそばにいてくれる亜希子に甘えて、前進しようとしていなかったのかもしれない。

 亜希子が助かったら、ずっと一緒に居られるようにしよう。

 絶対にプロポーズをしよう、と心に決めた。


 廊下の方は静かだ。窓の外も目立った音は聞こえない。

 組んだ両手を額に当て、目をつむった。

 …。


 どれくらい経っただろうか。


 窓の外はビニールシートのようなもので遮られているが、日が沈みかけだんだんと暗くなっていっているのが分かる。

 おそらく十五分か二十分ほど祈っていた。誰かがこの部屋に近づく気配もない。

 亜希子の方を見て、一瞬目を疑った。


 腕の発疹が薄くなっているように見える。急いで首元も確認する。

 間違いない。ハブクラゲの毒を注射してから、発疹の色が薄くなっている。亜希子の表情も心なしか少し楽になったように見える。呼吸も落ち着いているようだ。

 これは、効いているのではないか。


 胸が歓喜で震え始める。いや、まだ分からない。勘違いの可能性もある。気を引き締めなおして、再び容体の変化を見守る。

 さらに十分が経過すると、先ほどよりも発疹の赤みが薄くなっているのがはっきりと分かった。目を確認してみると、充血もしていない。

 体の内部の症状についてはともかく、表面に出ている症状はほとんど収まりつつある。

 これは、成功したと考えていいのではないか。

 空になった注射器を握りしめる。やはり、これこそがウイルスの症状抑制の鍵だったのだ。そうに違いない。

 私の試みは無事に成功したのだ。


 その時病室のドアが力強く開けられた。

 ドアのほうを見ると、サングラスとマスクをかけた白衣の男が立っていた。こちらに構わずつかつかと中に入ってくる。

 私は両手を上げて、

 「待ってくれ。ウイルスの症状を抑える方法を発見した。現に彼女の症状は収まり始めている。」

 と懇願するように言った。

 次の瞬間、バスッ、という音が響き、左肩に強い衝撃を感じた。

 視界が揺れる。

 男を見ると、拳銃のようなものこちらに向けている。


 撃たれる。いや、すでに撃たれたのだ。

 パイプ椅子を倒して、窓の下の壁に背中をぶつける。

 男は私の足もとに寄り、床に落ちている注射器とナイフを拾い、懐に入れている。

 意識がもうろうとし始める。

 これで、死ぬのだろうか。こんなに、急に。


 男はサングラスを外した。見覚えのある目元が現れる。

 「た、ち、ばな?」

 見下ろしている、マスクをつけたままの男を見ながら、私の意識は途切れた。

 



   八


 目を覚ますと薄暗い天井が見えた。

 ここは病室のようだ。枕元の小さなスタンド電気が点いており、外は真っ暗になっている。

 どれくらいの時間が経ったのだろうか。

 そうだ。亜希子は…、亜希子はどうなったのだろう。あれでうまく症状が抑えられたのだろうか。


 ベッドの上から体を起こそうとするが、全身に力が入らない。

 うめきながら身をよじらせていると、足もとの方から声がした。

 「やっと気が付いたか。」

 橘がベッドの横に歩いてくる。私を撃った男と全く同じ服装で、白衣を着ている。

 「お前、どうして…。」

 私はもつれそうになる舌を懸命に動かして声を出す。

 「悪かったな、急に撃ったりして。かなり強めの麻酔だから、動けるようになるまでしばらくかかるぞ。」

 橘は私に発砲した銃を見せる。

 確かに通常の拳銃とは違う。銃身は灰色で、プラスチックでできているようにも見える。この中に麻酔針が入っており、私の左肩に当たったのだろう。


 「亜希子は…、大丈夫なのか。」

 そう訊くと橘は、

 「ああ、安心しろ。今、症状は完全に抑えられている。」

 と微笑を浮かべながら言った。それを聞いてほっと胸をなでおろす。

 「それにしてもよく見つけたもんだよ。まさかハブクラゲの毒にウイルスを抑える効果があったなんてな。マジで助かったよ。」

 橘がベッド横にあるテーブルに空の注射器とナイフを置く。

 「今日お前がやったことは全て俺がもみ消しておいた。」

 もみ消した? どういうことだ。

 「は?」

 と妙な声が出る。


 「せっかくだから、お前には全部教えてやるよ。」

 橘はパイプ椅子に腰を下ろした。

 「このウイルス、いや、この事件の真実を。」

 真実? なぜ急にそんなことを。彼は何かを知っているのか。

 「驚いた顔だな。疑問に感じなかったのか。俺と再会したタイミングでこれほどまで多くの出来事が重なったことを。」

 橘は薄く笑う。

 「俺は全部知っていたんだよ。何年振りかにお前へ連絡した時にはすでに。というより、そのずっと前から。謎の微生物のことも、巨大生物のことも、そしてウイルスのことも。」


 冗談を言っているようには見えない。何より、麻酔銃を撃たれて身動きがとれなくされているという事実が、彼の言葉を否が応でも受け入れさせてくる。

「ど、どういう、ことだ。」

 私は混乱を隠せない。

 橘は立ち上がり、おもむろに白衣の内側に着ているワイシャツのボタンを外し始めた。電気スタンドの明かりに、痩せた上半身が露わになる。


 私は目を疑った。

 橘の上半身、あばらの辺りに奇妙な線が斜めに入っている。それが、魚のエラのように見えるのだ。

 「なんだよ、それ。」

 呼吸が荒くなる。

 「なあ、須藤。」

 橘がこちらに近づき、見下ろしてくる。

 「アトランティスって知ってるだろ?」

 この場に不釣り合いな言葉を聞いて、さらに混乱する。

アトランティス。何千年も前に海に沈んだとされる大陸と文明のことだ。

「アトランティスはな。本当にあったんだよ。」

橘はなおも微笑を浮かべている。


「…何言ってる。」

「そのまんまだよ。失われた大陸は本当にあったんだ。まあ、海底の都市とも言えるか。その昔、太平洋の南に存在していたとされるムー大陸、お前も知ってるだろ。ムー大陸には高度な文明が栄えたが、天変地異によって海に沈んだと言われている。」

本当にあった?

わけが分からない。ムー大陸はあくまで空想上の話だ。学術的にもあり得ないとはっきりと否定されている。


「けど、その話には続きがあった。」

外を走る車の音が聞こえ、途絶え、を繰り返している。

「大陸が沈むと分かったアトランティス人は、発展させた科学技術を最大限に使い、文明を絶やさない術を得た。」

橘はわき腹のエラのようなものを見せながらこう言った。

「それが、人間と海洋生物の遺伝子の融合。海の中でも生きられる人間を作り出すということだったのさ。」


到底信じることはできない話だ。飛躍しすぎている。


そんな人体実験が成功するはずはない。そう思いながらも、目の前にある、橘の白い体に生えているエラが、言葉を飲み込ませる。

「俺はアトランティス人の生き残りの末裔だ。」

そういうと、橘は再び椅子に座った。


「大陸が沈没した後、アトランティス人は海での生活を始めた。魚の遺伝子を活かしてな。海底に都市を作り、可能な限り文明を持続させようとした。しかし、一つの問題が生じた。」

橘が自分のわき腹を触る。

「大陸が沈んだ時点で、人間と魚を融合させる技術は失われてしまっていたんだ。海の中では保存や開発ができないほど超精密な装置だったんだろうな。いわゆるロストテクノロジーになったってわけだ。人間に魚の遺伝子を加える形で作られたから、そうなると、何千年と世代を重ねるにつれ、魚の方の遺伝子が淘汰され始める。だから、海の中での暮らしが困難になってきた。」

エラの線をゆっくりなぞっている。

「実際、このエラももう機能していない。そうなる前に、ご先祖様たちは生きていくための陸を目指した。」


その時ふと、これまで橘の裸体を見たことがないということに気が付いた。

学生時代、海水浴に一緒に行ったことがあるが、上半身にもラッシュガードを着ていた。卒業旅行で泊まったホテルでも、一人だけ大浴場に行かずに部屋のシャワーで済ませていた。

このエラを隠していたのだ、と思い、次第に目の前の現実を受け入れ始めている自分がいた。


「アトランティスは太平洋のど真ん中にあった。だから、最初は太平洋沿いの島へ上陸した。日本で、人魚に関する伝説が多いのはこのためだ。日本書紀にも川で人間のような生き物がいたという記述がある。聖徳太子は人魚に会っていたって話もある。」

人魚と聞くと、どうしても上半身は人間の女、下半身は魚というイメージが起こる。現在の姿、つまり橘のわき腹のエラは退化した姿とのことだから、かつてはずっと魚に近い姿をしていたのかもしれない。

橘は続ける。

「多分アメリカ大陸の方にも行っただろうな。でヨーロッパの方にも行った。で、アイルランドやギリシャにも人魚の伝承がある。そして、日本に流れ着いたやつらの中にも、中国に移動したやつがいた。だから中国にも人魚の話がある。」

頭の中で太平洋を中心とした世界地図を思い描く。

真ん中にあった大陸がなくなり、周辺の島々へ移動していく人間のような、魚のような生き物を想像する。


「けどな。歓迎はされなかった。」

橘が前屈みになり、太ももに両肘をついた。

「俺らは迫害されたんだよ。人間に。」

電気スタンドに橘の横顔が薄く照らされる。

「幸福をもたらすものと信じられる場合もあった。福岡の神社に人魚の骨が祀られているのもその例だな。だが実際は恐怖の対象とみられることの方が多かった。俺らの見た目は異常だったらしい。俺も当時の姿がどんなもんか知らないが、魚の遺伝子が混ざってるんだ。相当きもかったんだろう。正体がばれたやつらの多くは人間に殺された。」

 私は西洋の魔女狩りを連想した。

 人間は自身の理解の範疇を超えた異常な何かを排除、もしくは生贄に捧げることによって、不幸な出来事や都合の悪いことへの不安と恐怖を発散してきた。

 日本でもかつて、人魚に対して同じようなことが行われていたのだろう。


 「そこで、俺らは正体を隠すことにした。ばれたら殺されるからな。仲間で固まって暮らし、時には人間と交わりながら、ひっそりとこの社会に溶け込んできた。俺の両親もそうだ。」

 橘はシャツのボタンを留め始めた。

 「だが、さっきも言ったように世代交代を続けるにつれ、魚の、もといアトランティス人の血はさらに薄まっていく。純粋な人間の遺伝子の割合がどんどん大きくなっていき、いずれアトランティス人の血は完全に淘汰される。俺らはそういう運命だということに気づいたんだ。」

 目の前の男が、その末裔だという実感は依然としてわかない。しかし、嘘は言っていないということはなんとなく分かる。その言葉の強さや雰囲気で。


 「そうなると運命に抗おうとする動きが生まれた。淘汰を避ける。そのために導き出した結論は」

 橘は立ち上がり、また私を見下ろす。

 「ウイルスを使ってお前たち人間全員の体に、魚の遺伝子を組み込むということだ。」


 「ウイルス? 死のウイルスのことか。」

 ようやく舌の感覚が通常に戻ってきた。

 「そうだ。このウイルスはアトランティス人が開発したものだ。海洋生物の遺伝子を含むウイルスで、人間の遺伝子と海の生物の遺伝子を少しでも近づけるために作られた。しかも、何千年も前の海底都市アトランティスで。だから現代の世界中に散らばったアトランティス人たちが結託して、海底に眠るウイルスを地上まで運ぼうとした。」

 橘は私の胸の上に手を当てる。

 「だが、大きな問題が発生した。約十年前、海底都市の跡地まで行き、ウイルスを回収しようとしたが、無理だった。このウイルスは深海の強い水圧や気圧の中でないと破壊されてしまうということが分かったんだ。そこで、あるものを利用した。」


 私は話が呑み込め、次の展開も予測がついてきた。

 「それが、あの巨大生物だっていうのか。」

 橘の笑みが不気味に見える。

 「そのとおりだ。アトランティスにはウイルス以外にも生物兵器があった。遺伝子を組み替えて作り出した超巨大生物だ。それにウイルスを宿して地上まで運ぶという計画が立ち上がった。だが、それも失敗した。」

 「巨大生物はウイルスに感染しなかったのか?」

 話を聞く限り、このウイルスは人間にしか感染せず、効果をなさない。巨大生物にはウイルスは宿らず、運搬ができなくなったのではないか。


 「そう。ここで、巨大生物に寄生し、ウイルスの入れ物となり、空気中にも浮遊できる微生物を作り出すという話が持ち上がった。」

 あの奇妙な形のプランクトンが頭に浮かぶ。

 「それが、お前の言う新種のプランクトンだ。ヤコウチュウに似たのは偶然で、実際は全く関係ない。ウイルスを体内に宿し、海中と空気中を移動するという役割だけを与えられた生物だ。」

 「ちょっと待ってくれ。」

 胸の中に悲しみのような、怒りのような感情がふつふつと沸いてくる。

 「つまり、つまりだ。この死のウイルス拡散も、巨大生物の騒動も全て計画的に行われたことであり。お前はそれに加担していたと。こういうことか?」

 私は橘をにらみつける。


 「いや、少し違うな。」

 橘はベッドの周りを歩きながら話す。

 「まず俺たちはウイルスを手中に収めたかった。ウイルスを地上に持ち出した上で、効果を実証し、その上で計画的に使いたかったんだ。そこで、微生物の中にウイルスを入れて、その微生物を巨大生物の体内に寄生させ、巨大生物にウイルスを運搬させようとした。日本も無人島は多いからな。見つからないように移動させ、隠すことはいくらでもできる。で、ついにこの計画を実行した。微生物を寄生させた巨大生物の群れを、アトランティスから出発させたんだ。」


 気になる言葉が聞こえた。

 「…群れ? 一匹じゃないのか?」

 「そうだ。巨大生物は複数いる。それぞれに鎖をつなぎ、一台の潜水艦で進路をコントロールしながら、日本の太平洋側にある無人島に向かわせていた。だが、そのうちの一匹が暴走してな。鎖をちぎって脱走しちまった。それが八月十日のことだ。」

 「そいつが、横須賀に現れたやつなのか。」

 八月十日…。

 横須賀に現れたのはその十二日後だ。移動速度はかなりゆっくりだったということが分かる。


 「ああ。当初は俺らもなかなか足取りがつかめなくてな。どこに現れるか分からないから、調査をする役に俺が選ばれた。だから少しでも情報を仕入れるため、大学時代、一緒に海洋生物を学んだやつらに連絡した。その中でも須藤、お前が最も海に関わる仕事をしていたから、すぐに会うことにしたんだ。」

 橘から数年ぶりに連絡がきたときのことを思い出す。

 亜希子はその時、数珠繋ぎのように、橘が次々と研究室メンバーに連絡していると言っていた。そんな生ぬるい表現では足りない。

私は橘の蜘蛛の巣に絡まり、糸をつながれ、いいように利用されていたのだ。

 「そんな怖い顔するなって。けど、おかげで助かったぜ。まさかあの微生物のことが話題に上るなんて思ってもみなかったから。お前の話を聞いた時はそれはもう嬉しかったよ。こんなにあっさりほしかった情報にありつけるなんてな。」

 私はまだしびれが残る右手を弱弱しく握りしめた。


 「お前の先輩が大洗にある漁船であの生物を見つけたと聞いて、その漁船はなんらかの形で巨大生物に接触したという予測がつく。おそらく網か何かに巨大生物が触れ、寄生していた微生物が船に上がったんだろう。巨大生物のだいたいの位置が分かった俺は仲間に共有した。が、なかなか発見されなかった。その後だよ、横須賀にあれが姿を現したのは。まさかその場所にもお前が居合わせるなんてな。」

 私は怒りとともに、強い後悔を感じていた。

 自分のした行動が、こいつの手助けになっていたのだ。素知らぬふりで上辺だけの話をして、私に寄生していたのだ。この裏切り者は。


 「あの巨大生物が海から出て、人目にさらされたのは、俺たちにとっても失敗だった。だが、それ以上に誤算だったのは、ウイルスの非常に強い攻撃性だ。それがいち早く知れたのも、お前のおかげだ。」

 「俺? 最初にウイルスの情報を提供したのは高橋だろ。」

 私がウイルスのことを知ったのは高橋と橘に教えられた時だ。

 「いや、お前だよ。まあ正確にはお前の先輩、片平さんだけどな。感染していた彼のおかげで感染者にどのような症状が現れるのか、知ることができた。」


 「おい…、まさか。」

 橘はまたあの悪戯っぽい笑みを作る。

 「片平は被験者第一号になった。貴重な感染者だからな。俺らも手を尽くしたんだが、すぐに昏睡状態になって死んじまった。」

 橘は、片平と連絡がとれなくなったと言っていた。新種の生物の研究ができると期待していたのに残念だ、ということも言っていた。

 全て白々しい嘘で、私は間抜けに頷いていたのだ。


 「焦ったぜ。手の施しようがなかったからな。おそらく、海底で保存されていた期間、もしくは微生物の体内にいる間に変異し、強い攻撃性を持ったウイルスになってしまったんだろう。そしてウイルスの蔓延が始まった。」

 東条とのビデオ通話の時、橘が、このウイルスは人工的に作られたものである可能性はあるのかと、東条に訊いていたことを思い出す。私に片平とコンタクトをとるように言ったのも、その前に私たちを集め、感染源や政府の隠蔽工作について教えたのも、全て私たちを利用し、ウイルス抑制の術を探るための誘導だったのだろう。


 私は起き上がろうとした。起き上がって、橘に殴りかかろうと思った。

 だが、思うように体は動かず、ベッドから転がり床に背中をぶつけた。

 痛みはあまりなかったが、臓器を突き上げられたような衝撃に悶絶する。

 「大丈夫かよ。安静にしていろ。まだ動けないぞ。」

 橘は私のそばに立ち、見下ろす。


 「そっからはさらにお前たちと協力して、このウイルスを抑えるための情報を得ようとした。亜希子ちゃんが感染したのも、お前が感染したのも予想外だった。そして、このウイルスを抑える物質がハブクラゲの毒だったこともな。」

 橘はしゃがみ込む。

 「お前にはマジで感謝してる。俺にとって、俺らにとって、いや、人類にとっても、お前は救世主だぜ。」

 私は橘のズボンの裾を掴もうとする。

 「ふざけるな。お前らが殺したんだ。片平さんを。たくさんの人を。」

 橘は立ち上がり、容赦なく私の手を振り払う。


 「あのな、最初に一方的に迫害して、俺らの仲間を殺してきたのはお前らだろ。今回、俺らが作ったウイルスで死者が出たのは事実だが、お前らがしてきたことを棚に上げて、そのことを非難してくるのはむかつくな。それに。」

 橘はまた空の注射器を手に取り、

 「ウイルスを抑える手立ては見つかったんだ。今、急ピッチでこの毒、いや、抗体の生産が行われている。世界中で蔓延し始めていたこのウイルスもじきに収束するだろう。」


 「まだ終わっていない。」

 私はなおも橘をにらみつけた。

 「お前たちは裁かれる。世界中にこのウイルスを撒き散らした、犯罪者としてな。」

 「裁く…?」

 橘の声のトーンが変わり、低くなる。


 次の瞬間、左頬に痛みが走った。視界がぶれる。

 橘は足のつま先で地面を叩いて、私を蹴った衝撃でずれた靴を整えている。

 口の中が切れているようで、血の味がする。

 「お前らは何か勘違いをしてるんじゃないか? なんで俺らが罪に問われるんだ? お前らだって、他の動物や家畜を大量虐殺している。そのたび誰かが裁かれたり、謝罪したりしてるか?」


 私はまた橘の足を掴む。

 「お前たちが殺したのは人間だろ。裁かれて当然だ。」

 「はあ。」

 橘は怒りを分散させるようにため息をついた。

 今度は橘が私をにらみつける。暗く、冷たい目で。

 「なんで、俺らとお前らただの人間が対等だと思ってるんだ? 俺らはお前らより進化した存在だ。そして歩み寄ろうとした。だが、お前らは拒んだ。拒むどころか、暴力で傷つけようとした。それでも俺たちはキレて、暴動や戦争を起こしたりしなかった。じっと耐え我慢し、お前ら下等生物との屈辱的な共生を続けたんだ。」


 橘はまた私の手を振り払い、踏みつける。

 「お間ら人間は勘違いをしていたんだよ。この世界を支配し、意のままに操ることができていると。自分たちの種族がこの世界の中心なのだと。お前らの傲慢さは、浅ましく滑稽だ。」

 私の手を踏む足に、徐々に体重をかけてくる。

 「傲慢なのはお前たちだろ。それに、自分でさっき言っていたじゃないか。お前たちの魚の遺伝子は、今ではほんの少ししか残っていない。俺たちと大差ない。ほとんど同じ人間だろ。」


 体を起こそうとするが、やはり力が入らない。踏みつけられた左手に強い圧迫感と痛みを感じ、顔が歪む。

 「大差ないか。」

 橘は私の手を踏むのを止め、しゃがみ込んで私に顔を近づける。

 「たしかに大差はない。魚の遺伝子もほんの少ししかない。だが、あるかないかで雲泥の差なんだよ。俺らはお前らに無いものを持っている。そこが重要だ。量は問題じゃない。俺らにとってのかけがえのないアイデンティティ。それを守るため、そして、劣っているお前らを救うため、このウイルスを作ったんだ。」

 「ふざけるな。俺らは救われてなんかいない。それどころか、お前たちのせいで滅亡してもおかしくなかった。」

 私は声を荒げる。


 「だからさあ。」

 橘は手の甲を私の額に押し当てた。ちょうど熱があるか確かめるように。

 「お前には感謝してるって、さっき言ったろ? だから俺が今まで隠していた秘密を教えてやってる。こうやって生かしてやってる。お前がこの病院でやったことも上手く隠してやった。」

 橘の手の甲は、私から怒りと戦意の熱を奪うように、私に落ち着きを取り戻させた。

 私は、悟りつつあった。橘とは、考え方に大きな隔たりがある。分かり合うことはできないだろうと。


「お前からハブクラゲの毒を手に入れるよう依頼された時は何事かと思ったよ。俺らは独自のルートで薬品や物資を手に入れ、研究に利用している。日本にも巨大な研究施設があって、ハブクラゲの毒も俺らにかかれば簡単に入手できるんだよ。今日、俺たちも他の感染者にこの毒を投与してみたが、たしかに一時間ほどでウイルスの症状を完全に抑えた。それを確認してからここに来て、立てこもったお前を助けてやった。」

 「俺は、許さない。お前たちがやったことを。俺に話したことを後悔させてやる。」

 気力を振り絞った最後の抵抗のつもりで、橘をにらむ。


 「ならもう一つ、お前に教えといてやる。俺らの種族はすでにこの国の中枢部に巣くっている。重要なポストの官僚になっているやつが何人もいるし、大企業の社長や銀行の役員のやつもいる。少しじゃない。大勢だ。だから、俺は政府の動きや対応の情報を早く知ることができたし、お前が起こしたさっきの事件も隠蔽できたんだ。」

 薄明りに照らされた橘の顔は、目の前で不敵に笑っている。


 「もっというと、日本だけじゃない。世界中に俺たちの種族がいる。もちろんアメリカにもな。」

 巨大生物が現れた時にも、アメリカの研究機関も目撃情報はあった。ウイルスについても、アメリカからの研究報告が日本に届いていると東条が言っていた。

 「須藤。もしお前が今日のことを誰かに話せば後悔することになる。お前も、お前が秘密を教えた奴も…、どうなるかはわかるだろう? 俺は、お前を生かしてやってると言った。そのことを忘れるな。」

 橘はそういうと立ち上がった。

 橘がよく言っていたことを思い出す。


 「人間って空を飛べて、宇宙にも行けるのに、なぜかまだ海の一番深いところには行ったことがないんだぜ。」


 その言葉が今は全く違う響きで聞こえる。一方でアトランティスの存在を示唆し、一方で人間社会での自らの孤独を呟くような。


 私はぐったりとした、疲れ果てたような声で、

 「これからどうするつもりだ。どこで、何をする。」

 と訊いた。

 「これから? 俺は仲間のもとに向かう。早急にハブクラゲの毒の研究と実用化を進めるためにな。」

 どこか、アトランティス人の末裔たちが集まる場所があるのだろう。この社会に溶け込み、ずっと反乱の契機をうかがっていたやつらの会合に、私の友人の一人が参加し、加担していたのだ。


 大学時代から何度も見ていた橘の顔が、今では全く別人に、全く別の生き物に見える。

 「お前は、一体、何なんだ。」

 私はベッドの横の床に倒れたまま、この疑問を投げかけた。

 部屋を出ようとしていた橘は足を止め、こちらを振り返る。

 「橘康太だよ。お前もよく知ってるだろ。っていう答えは少し意地悪か。」


 橘は私の足をまたいで、ベッドに腰かける。

 「俺の今の立場、職業、そしてこれまでの来歴は全て、一族、もっというとアトランティス人の同胞たちによって用意されたものだ。橘康太という人間は、俺が人間社会に溶け込み、アトランティス人の利益のために働けるようにデザインされているんだ。」

 橘は私を見下ろして言った。

 「だから、海洋生物について大学で学び、その後も大学で研究を続けた。その間も、同胞たちとコンタクトはとっていたがな。日常生活での必要なものは全て親父が用意してくれた。アトランティス人の血を引くな。」

 私は、橘と初めて会った時のことを思い出していた。活発で、陽気そうなやつだと思った。間違いなく、人間だった。


 「俺たちの、大学で一緒に過ごした時間は、全部嘘だったのか?」

 と訊くと橘は、

 「さあな。」

 と言ってベッドを下りた。


 「お前の麻酔は明日の朝には完全に解けるだろう。今はゆっくり寝ていろ。起きた後も、特に罪に問われることはなく病院を出られるだろう。」

 橘はドアまで歩いていき、「じゃあな」と言って部屋を出て行った。

 出て行く橘の姿はベッドに隠れて見えなかったが、私はなぜか彼の寂しげな後ろ姿を想像していた。


 私はその後、泥のように眠り、気づけば夜が明けていた。

 とにかく亜希子が無事でいるらしいということを橘が言っていたのを思い出し、歓喜の気持ちに打ち震えながら病室のカーテンを一気に開けた。

 差し込む朝日の光を浴びて、やっと日常に戻ることできるという安堵で胸をいっぱいにして、道路をまばらに行き交う車を眺めた。

 橘が語ったウイルスの真相、アトランティス人の話は遠い夢のように思われたが、腫れている左頬と、口の中の痛みが、紛れもない現実だと訴えていた。







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