原因
一
大学に入るのは卒業式以来だ。
正門はすでに閉まっており、キャンパスは静まり返っている。
橘からは、「裏門にいる」、と連絡があったため、学校の裏側へ回る。
図書館にはまだ電気がついており、窓からレポートに勤しむ学生たちの姿が見える。
やはりここに来ると思い出すことが多い。まだ青春の残り香が漂っていて、もう戻ることのないはずの時間が、手に届くぐらい近くにあるような、そんな不思議な感じがする。
裏門に着くと、橘と高橋が門の内側で待っていた。
私が手を振ると、こちらの到着に気づいた。橘が近くにいた守衛に何か言うと、それに応じて守衛が門を開けた。
三人で大学を歩くのは本当に懐かしい。研究室での実験以外でも、何度か三人で同じ講義を受講したこともあり、その時のことが思い出される。
裏門へ向かう学生たちの姿もちらほら見える
「一応今日から夏休みが明けて二学期だから、図書館も開いていて学生もいる。二人とも俺の客人ってことになってるからな。変なことするなよ。」
橘が笑って言う。
研究室がある四号館の前に来ると驚いた。高橋も
「うわ! めっちゃキレイになっとる!」
と声を出していた。
私たちが卒業した後、改修工事がされたのだろう。コンクリートむき出しで、ひびがいくつも入っていた壁面は、白く塗装されていて、新築のような雰囲気をまとっている。
四号館に入り、ワックスがきれいに塗られている地下への階段を下りる。
実験室内の外壁も白く塗装されている。
「俺らが使ってたこの実験室もすっかり変わったな。橘はいつもここを使っているのか?」
私が訊くと、
「ああ、週一回くらいだけどここで研究してる。」
と、橘は空調のスイッチを入れながら答えた。
「とりあえずその実験台の周りの椅子に座ってくれ。」
橘に促されて私と高橋が腰かける。
「そうだな。じゃあまずは高橋。あの話を須藤にしてやってくれ。」
高橋は橘にそう言われると話し始めた。
「前回会ったとき、ウイルスの話したろ? まさに今話題になってるあれな。あれから俺も気になっていろいろ聞き込みをしたんよ。」
「何か分かったのか?」
私が訊くと、まあ聞けというふうに手で制す。
「うん。まだ報道されとらんけど、たしかな筋の情報だ。順を追って話す。」
橘も大きく頷いて聞いている。
「分かったことは一つ。感染者の共通点だ。これを見てくれ。」
高橋は鞄から折りたたまれた地図を取り出した。
見ると、関東近辺の大きな地図のようだ。
「蛍光ペンで黄色く塗られとる地域があるやろ。そこが、先週金曜時点で判明していた感染者の出た地域な。」
千葉と茨城と栃木、そして都内と静岡と山梨と愛知の一部が塗られている。
私は目を凝らしてそれらの地域の共通点を探そうとする。しかし、県堺の地域や大都市に集中しているわけではなく、ランダムに発生しているようにしか見えない。神奈川県内に限っても、それは同じだ。
「これ見たら分かる通り、感染者が出た地域のつながりが分からんくてな。なぜか神奈川で感染者が多いことと、関東近辺の県にしか感染者が出とらんこと。それくらいしか分からん。」
高橋が真剣な顔で話す。
「けど、俺が親しい先生から聞いた話によると、地域じゃなくで、感染者自体にある共通点があるらしいんよ。」
これまでの報道では、感染者の年代もばらばらだと言われていたはずだ。居住地も異なるため、共通点と言われてもピンとこない。
「それがなんと、感染者全員の移動歴に隠されとった。」
「移動歴? 既往歴じゃなくてか?」
思わず聞き直した。
これまで罹った病気が関係しているという可能性があるのではと思ったからだ。
しかし高橋は首を横に振る。
「いや、移動歴。その先生の病院にきた感染者は二人いたらしい。で、その二人は三十代の女性と五十代の男性で、血液型も既往歴も異なる。特にこれといった共通点は無いように思われた。」
橘も真剣な表情で、腕を組んで聞いている。
「けど一つだけあったんよ。」
高橋が地図上の横須賀辺りを指さす。
「横須賀の波風公園に海水浴に行っていたことそれが二人の共通の移動歴やった。」
「波風公園?」
ホテルから見える砂浜が頭に浮かぶ。私と亜希子もそこに行っている。
「そう。しかも同じ日にそこへ行っとる。」
「一体いつなんだ?」
「今年の八月二十二日。今から約三週間前や。」
急いで頭の中を整理しようとするが追いつかない。
間違いなくその日、私たちも波風公園に行っている。
「ちょ、ちょっと待ってくれ。その日は俺と亜希子もその海に行っているんだ。」
「ああ、それについては後から橘が話してくれる。」
高橋が橘をちらっと見る。
「とにかく、その先生の病院にいた感染者二人は、約二週間前の同日に波風公園を訪れている。そのことを受けて、先生は感染者を入院させている神奈川県内の病院全てに連絡をとり、全ての感染者の移動歴の照合を試みたらしいんよ。そしたら、百人超の患者全員が八月二十二日の日曜、もしくはその少し後、あの海へ行っとったことが分かった。」
八月二十二日日曜日。短いバカンス二日目の最終日。
あの巨大生物が姿を現した日だ。
ということは感染源は…。
「あの巨大生物が感染源ってことか?」
「その可能性が高いだろうな。」
橘が立ち上がって口を開く。
「一応移動歴の照合ができたのは神奈川県内の感染者だけだそうだ。県外はまだ分からない。が、この地図を見ろ。」
橘はさっき高橋が取り出した地図を指さす。
「ある程度の距離はあるにせよ、神奈川にアクセスしやすい県に感染者が出ている。これらの県からなら八月二十二日の日曜日に横須賀へ海水浴に行ってても、なんら不思議ではないだろ。」
特定の日に、ある特定の場所へアクセスした人たちの居住地を示すと、たしかにこのような形になるだろう。
著名な観光地ならともかく、横須賀だ。他に綺麗で映える海はいくらでもある。そんな中で横須賀の海を選択し、海水浴に来る人たちの居住地にこのようにばらつきがあってもおかしくはない。
私は大きく頷く。
「とにかく、これで推測できることは二つ。あの巨大生物が感染源であることと、このウイルスは二週間前後の潜伏期間があるということだ。」
なるほど。特異な感染源と、二週間という長い潜伏期間により、現在まで感染源や感染経路等の特定が困難なのだろう。たしかに筋が通っている。
「須藤はその日波風公園にいた。だが、巨大生物に近づいたわけじゃない。少なくとも、感染するのに必要な距離にはいなかったんじゃないか。現に二週間以上経った今でも発症していないしな。それが逆に、あの巨大生物が感染源で、近づいたものが感染し発症しているという推測の裏付けにもなる。」
と言うと橘は椅子に座って、私の反応を待っている。
私はこの話を聞いて、気になったことを言う。
「仮にその話がウイルスの真相だったとしたら、別に八月二十二日に限った話じゃなくなるよな。だって、八月二十二日以降も巨大生物は砂浜に居座り、柵越しとは言え大勢の見物人が近づいている。もし感染圏内に入っていたら、もっと大量の感染者が出るんじゃないか?」
橘は頷いて話す。
「その通りだ。まだ確認は取れていないが、あれが動きを止めていた一週間の間と、横須賀市街地方面に進行した日に近づいた人も、感染してしまっているだろう。俺はそう思っている。」
「どれくらいの距離近づいたら、どれくらいの時間感染圏内にいたら感染するのか、そういう細かいところは分からんけど。すでに神奈川近辺の都道府県だけじゃなく、全国、いや、全世界に感染者が散らばっとるやろうな。」
高橋が地図を見つめて言う。
未知の生物の中に、未知のウイルス。
本当に、映画のような話だと思う。が、紛れもなく現実に起こっていることで、予想より事態はずっと悪そうだ。
高橋の言う通り、巨大生物に近づいたのは日本人だけではない。海外から来た観光客や見物客もいたのだ。
「このことはすぐに国へ報告して、全世界へ報道するべきじゃないか? その医者も巨大生物が原因かもしれないって推測はしているんだろ?」
私は思わず高橋に聞いた。
「ああ、先生もそう思っとる。で、すでに国へは医師会を通じて報告してるんよ。」
「そうなのか?」
今度は橘が訊く。ここからの話はまだ橘も聞いていないらしい。
「医師会でも共有しとるらしい。けど、厚生労働省へこの件を報告しても、確証がなく、国民を無意味に混乱させる恐れがあるとかなんとか言われて、取り合ってくれんらしいのよ。」
高橋が声を低くして言った。
たしかに国民を混乱させないために慎重な手を打たねばならないことも分かる。しかし今はそれどころではないはずだ。
致死率百パーセントのウイルスが全国、全世界にばらまかれたのだ。確証がないとはいえ、客観的に見てもあの巨大生物が感染源として怪しいことは間違いない。すぐに公表するべきだ。
「それに。」
高橋が続ける。
「一番最初の感染者が横須賀在住の二十代の男性。その男性も八月二十二日に波風公園への移動歴がある。八月二十三日以降、巨大生物に近づいた人たちも大勢おって、こうしている今にも発症している人がおってもおかしくない。けど、報道では先週の金曜日に、約百名の全国感染者数を公表して以降、感染者数を報じなくなった。土日の間にも発症した人はおったはずやのに。」
「それって。」
私は言おうか言うまいか迷ったが、
「国が隠蔽しようとしてるってことか。すでに全国各地に感染者がいるのに。」
と言った。
「かもな。」
今度は高橋が答える。
「国の立場で考えてみろ。こんな危ないウイルスの発生源の国だと知られれば、世界中から非難を浴びることになる。それを避けるための防御策として、隠蔽という手段を選んだ。しかも。」
橘が胸ポケットからスマートフォンを取り出す。
「なんでもいい、SNSでウイルスと検索してみろ。」
私と高橋もスマートフォン取り出し、言われたとおりに検索をかけてみる。
「うん?」
高橋が首を捻る。
それもそのはずだ。「ウイルス」で検索してみても、検索結果は「0」と表示されるだけで、「ウイルス」という言葉を含む投稿が何も見られない。
「検索できないだろ。」
橘はスマートフォンを胸ポケットにしまいたがら言う。
「他にも、『致死性』とか、『感染』とか、『巨大生物』って言葉でも検索できなくなってる。最初は検索できないだけかと思ったが、フォロワーの過去の投稿から、ウイルスに関するものが全て消されていた。で、俺が新たに『ウイルス』という言葉を入れて投稿しようとしても、不適切な言葉があるという表示が出て投稿できなかった。」
私も、「ウイルス」とだけ書いた投稿を試みるが、橘の言う通り、「不適切な言葉や表現があります」と表示される。
「この現象が起き始めたのは今日の昼くらいからだ。利用者の多いSNSの投稿や検索機能に制限がかけられている。」
「これも隠蔽の一環ってことか。」
私が訊くと、橘は
「だろうな。疑問に思った利用者がSNSの運営会社に問い合わせたところ、不必要な混乱を避けるための制限だと、返答がきたらしい。」
と腕を組んで言った。
橘は、「もう国は頼りにならない」と言いたいのだろう。
このSNSの制限が、国からの要請と圧力によるものだったとしたら、過去に例を見ない対応だ。
大きな災害が起こったときでも、選挙のときであっても、このようなインターネット上の規制がされたことはない。
これが、混乱を避け、国民の安全を維持するために取られた対策ならいい。しかし、何かの発覚や情報漏洩を恐れているような、そんな気がする。
「とにかく、今できることをやりたいと思う。そこでお前ら二人を呼んだんだ。」
橘がまた立ち上がって、実験台の上に手をつく。
「そういうても、俺らにできることなんて大分限られとるで。」
高橋が言う。
「けど、何もしないよりはましだろ。本当に手遅れになる前に、俺らで動こう。二人とも協力してくれ。」
「分かった。」
私がそういうと、高橋も大きく頷く。
「で、何をすればええ?」
「そうだな…。まず高橋だが、医者のつながりを使って、ウイルスの研究ができる機関とパイプを持っている医者を探してくれ。このウイルスについての真相を探っていて、ウイルス研究に協力したいと思っていると伝え、俺らにその先生を紹介してもらうことができればよりベストだ。」
橘がそういうと、高橋は顎に手を当てて考えている。橘が続ける。
「今、国からの圧力で、このウイルスの研究にも制限がかけられている可能性が高い。医者や、その関係者からの情報漏洩を防ぐためにな。」
「いやいや、ちょっと待てって。国がそんなことしてたらワクチン開発も当然遅れるし、なんも分からんままウイルスが蔓延して大変なことになるわ。」
高橋が慌てた声を出す。
「よく考えてみろ。さっきの報道やSNSの規制だって相当なことだぜ。いわゆる言論統制だ。ここまであからさまにやったのは戦後初じゃないか? とにかく、国はこのウイルスの実態や真相を国外に漏らしたくないんだろう。だから、ウイルスの真相に迫る研究や発表にも規制をかけているはずだ。逆に政府の息がかかった機関は、国への情報提供を要請されてるかもしれない。」
もし、この橘の予想が当たっていたとしたら…。
政治権力がこのウイルスの真相を隠蔽しようとしているとしたら…。
しかし、その動きはすでにSNSの規制という形で現れている。それは否定しようもない事実だ。
「今、国が妨げているウイルス研究を、俺らで援護したい。こういう研究への規制は個々だけでなく、団体にも及んでいて、連携して研究できないように国が働きかけている可能性が高い。だから、俺らで連携を促して、研究を再開させる。」
橘はそこまで話すとまた腰を下ろした。
「要は外部の俺たちから、医者や研究機関を説得するってことか。」
私が橘に訊く。
「ああ。幸い、医者につながりを持ってる高橋がいる。ウイルス研究に詳しい、もしくはパイプを持っている医者にコンタクトを取りたい。そこから質の高い情報を収集できるもしかしたら、もうウイルスの実態を解明している研究者がいるのかもしれない。」
「オッケー。ウイルス研究機関にパイプを持った先生ね。探してみるよ。」
高橋はメモ帳を確認しながら承諾した。
「頼んだぜ。」
橘がこちら向く。
「で、須藤にも一つ頼みがある。」
私のほうが高橋よりもできることが限られている。医者のつながりもなければ、ウイルスに詳しいわけでもない。橘は何を私に期待するのか。
「お前の先輩いたろ。片平さんだっけ。その人とは結局、連絡ついたのか?」
片平さん?
久しぶりに聞いたような、意外な名前に少し戸惑う。
「いや、まだついてない。先々週の水曜からずっと休んでる。」
「まじか…。」
橘はまた腕を組んで「うーん」と唸る。
「じゃあ、なんとか片平さんとコンタクトを取ってくれ。」
「いいけど、またなんで片平さんなんだ?」
私が訊くと、
「仲間に引き入れといて損はないと思ったからだ。化学が専門だったろ? 今後医者と話を進める上でその専門知識は役立つと思う。それに、あの新種のプランクトンの話あったろ。あれについても聞きたいがことあるしな。」
化学の専門知識を持つものが一人いてもいいかもしれない。しかし、対ウイルスを考える上でそこまで重要なこととは思えなかった。
もしかすると橘が期待しているのは、あの新種のプランクトンについてなのかもしれない。
八月と九月で奇妙な事件が重なって起きている。それらの中で先陣を切って現れたのが新種のプランクトンだった。もしかすると橘は、この件もウイルスに関連しているとにらんで、発見者である片平にコンタクトを取りたいのかもしれない。
私は少し考えた後頷いた。
「分かった。なんとか片平さんに連絡を取ってみる。」
橘も大きく頷いた。
「じゃあ二人とも頼んだぜ。」
まずは片平の家を訪問してみよう。総務の所員に聞けば教えてくれるだろうか。そう思って立ち上がろうとした時だった。
「ちょっと大事なことを伝えとくわ。」
高橋が机に広げた地図をしまいながら、立ち上がろうと中腰姿勢になった二人を制す。
「手洗いうがい、あとマスク着用、しっかりやってくれよ。」
「なんだ、そんなことかよ。」
中腰になっていた橘がそのまま立ち上がる。
「いやいや大事なことなんやって。まだ、人から人へ感染するかどうかも分からんけど、対策はやるだけやっといた方がいいやろ。」
「分かったよ。これから気を付けるようにする。」
私も立ち上がって言う。高橋も鞄を持って立ち上がる。
「あと、次はいつ集まる?」
「今週の金曜日にしよう。少し早いが、それまで二人とも、頼んだ。」
橘が高橋の質問に即答した。
高橋が、「了解」と言って手帳にメモをしている。
その時、学生時代、実験台を囲んで話し合った研究室の記憶がよみがえってきた。
「なんか、懐かしいな。こうやってここで話すの。」
私がそれを口にすると、
「ああ、この三人で課題に取り組んだこともあったな。」
と橘も同意し、高橋も笑って頷いている。
集合場所は後日、橘が連絡することになり、その日は解散した。
大変なことになっている。そのことには変わりないが、この三人でなんとかその問題を解決しようと結束したことで、不安は無くなった気がする。
なんとかなる。
状況とは裏腹に、前向きな気持ちのまま帰宅し、その日はあっという間に眠りに落ちることができた。
二
九月十四日、火曜日。
さっそく研究所の総務に片平の住所を聞き出すことができた。理由を聞かれたが、見舞いのためだと言うとすんなり教えてくれた。
終業後さっそくその住所へ向かった。
片平の済むアパートは目白駅から歩いて約十分の大通り沿いにあり、人通り、車通りが多い。
部屋番号は四一六で、一階の集合ポストをちらっと見ると、何枚ものチラシが溜まっているようだった。
なんとなく予感していたことだが、部屋の前に来てチャイムを何度鳴らしても、片平は出てこなかった。
ドアに耳を当てても中は静まり返っており片平の気配はない。
実家にいるのだろうか。
片平所属の課長曰く、今週いっぱい待ってみて何も連絡が来なければ、実家を含め、片平へ連絡をするとのことだった。本人の体調不良に加え、身内の不幸という繊細な話のため、こちらから無理に出勤を促し難いというものあるだろう。
結局その日は何も収穫なしに、片平のアパートを後にした。
帰宅して夕方のニュースを見ても、新たな感染者の報道はされていない。このウイルスについては、感染予防の方法の特集くらいだ。
昨日も、感染者数や新たに感染者が出た地域は報道されず、橘が言っていた隠蔽説が真実味を帯びてきたなと思った。
三
九月十五日、水曜日。
その日は、いわきへの日帰り出張だった。
実地調査は午後四時には終わり、そのまま直帰となった。
同伴する大島には、出張帰りに毎度飲みに誘われるが、その日は用事があると断りを入れ、水戸で特急を降りた。
片平の実家へは来週、所から連絡が行く。しかし、待ってはいられない。
片平がよく訪問していた大洗の漁業団体。そこであの微生物も収集した。
ダメもとだが、何か片平について手がかりがあるかもしれない。そんな希望を抱いて、大洗行の電車へ乗った。
昨日から、マスクをかけている人が多くなった。今日も電車の中のほとんどの人がマスクをかけている。
私は電車や屋内でだけマスクをかけていたが、電車内で神経質そうな人がマスクをかけていない人をにらみつけているのを見て、これからは町を歩くときもずっとかけなければいけなくなるだろうと思った。
漁業団体のある港に着いたのは午後六時ごろだった。
いくつもの船が並ぶ港の片隅に、大きな倉庫を併設している事務所があった。
ドアをノックすると中から「はい」と、年配であろう男性の声が聞こえた。
中に入ると、左奥のデスクに白髪頭の男が座っている。六十歳くらいだろうか、私を不思議そうに見つめている。
「こんばんは。突然すみません。東京にある海洋生物研究所の須藤と申します。片岡がいつもお世話になっています。」
私がそういうと、男の表情がやわらかくなり、
「ああ、片岡さんとこの。こちらこそいつもお世話になってます。さあどうぞ、狭いところですが。」
と事務所の中央にあるソファへ促された。
「今日は何かありましたかね?」
そう言いながら男がテーブルを挟んで向かいのソファに座る。
「いえ、今日は仕事で来たわけではないんです。片平のことで聞きたいことがありまして。」
「片平さん? 何かあったんですか?」
男が少し目を細める。
「実は、片平がここ二週間ほど欠勤していまして、連絡もつかず少し様子がおかしいんです。少し前にこちらへ実地調査で片平が伺ったかと思うのですが、その時の彼の様子等が分かれば、ぜひ教えていただきたいです。」
最初は適当に嘘を話して、うまく情報収集するつもりでいた。しかし、変にこじれる危険もあるし、別に本当のことを話しても問題ないだろうと思い至り、ここは正直に事情を話すことにした。
ただし、もちろんウイルスに関することは伏せる。
「そうだったんですか。八月の中頃に調査できましたが、その時はすごく元気でしたよ。来られた時と帰られる時に挨拶して少し話しただけですが。」
男は首をかしげる。
「なんでもいいです。いつも違ったところはありませんでしたか。」
私が食い下がると、
「うーん。あ、そういえば。」
と男が眉を上げて言った。
「たしか、さっき言った調査の次の週だったかな。休日だったと思う。僕、よく休日もここにいるんだけど、珍しく片平さんが来たんだ。少しやつれた顔をしていたね。」
おそらく、追加でサンプルを収集しに行った時だろう。たしかに、向こうにとっては変わったことかもしれないが、こちらが求めている情報ではない。
念のためメモをとる。
その後も目立った話はなく、片平が三年前ここに初めて挨拶にきた時のこと、最近は若者が漁師をやりたがらず漁師が高齢化していること、漁獲量が年々下がっていることなど、他愛ない話に終始した。
もう切り上げようとした時だった。
気になる話を聞いた。
「しかも、最近二人も漁師がいなくなっちゃって。船も一隻余るし正直きついねえ。」
と男が言った。
「二人いなくなった? 辞めちゃったんですか?」
「いや、一人は失踪して、もう一人は亡くなっちゃったんだよ。」
思わず「え?」と声を漏らす。
「いやね。二人とも同じ船を使ってる若い漁師なんだけど、急に休み始めちゃって。一人はご家族から亡くなったって連絡が来て、もう一人は音信不通でさ。」
「亡くなった方はいつ頃お亡くなりになったんですか?」
私がそう訊くと、
「先々週だよ。休み始めて二三日後に、急に意識を失って、病院に運ばれてから二日後に亡くなったらしい。」
「先々週。」
俯いて考えを巡らせる。
二人の漁師は三週間から休み始めたらしい。とすると、片平が休み始めた時期と重なっている。
メモを取る手が汗ばんでくるのが分かる。
片平が音信不通になったことと関わりがあるのかもしれない。
「その二人について、詳しく教えてください。」
男は、その二人の漁師が「坂東丸」という船に乗っていたこと、小さな漁船だが最近は沿岸だけでは漁獲量が少なく、沖合の方まで行くこともあったこと、一人は家族を持ち、もう一人は独身で一人暮らしであること等を話した。
「家族持ちの方が瀬川健一、独身の方が田中雄二って名前だよ。」
名前まで教えてくれたので、思い切って、
「もしこのお二方のご家族かご親戚の連絡先か住所を教えていただけないでしょうか?」
と身内の住所まで聞いていた。
男はさすがに迷っているようだったが、しぶしぶデスクのパソコンの前に座り、何やら紙に書き始めた。
男が戻ってきて、
「教えるのはちょっと気が引けたけど。あなたがあまりにも真剣だからさ。」
と、その紙を私に手渡すと、三つの住所と電話番号が書かれていた。
瀬川と書かれた住所は茨城と福島のもので二つ、田中と書かれた方は茨城のもの一つだけだった。
「ちなみに、瀬川は体調崩してから、奥さんと子どもと一緒にこの福島の実家へ帰っちゃって。葬式も福島であったから、福島の住所の方がつながりやすいと思う。田中はとりあえず実家の住所だけ。一人暮らししていた大洗の住所に何度か行ったけど、全然反応なくてね。」
「すみません。こんなことまで教えていただいて。」
私が頭を下げると、
「あ、名乗るのがすっかり遅れたけど、僕は板間と言います。」
と、男は「S漁業団体 事務局長 板間洋一」と書かれた名刺を差し出した。私も慌てて名刺を差し出す。
「須藤さん、ね。今日はせっかく来ていただいたのに、あんまり手掛かりになるような話ができなく、申し訳ないね。」
板間は白髪頭を掻きながら、少し残念そうな表情だ。
「いえいえ、すごく助かりました。こちらこそ急にお邪魔してしまってすみませんでした。」
私もソファから立ち上がりながら言う。
「連絡とれるといいね。片平さんと。」
板間はそういうと笑顔で事務所の出入り口まで見送ってくれた。
外は暗くなりかけていた。少し湿ったような潮風が顔を撫でる。
海の色も黒くなりかけており、港にある船も影を帯びて波にゆっくり揺れていた。
私はマスクをかけ、ほとんど無人になった港を通過した。
とにかく、一刻も早くここから離れたいと思っていた。
板間の話を聞いて、自分なりに考えた仮説。
もし正しければウイルスの真相究明に大きく近づく。しかし、そうであってほしくないと思う自分もいる。
とにかく確かめなければいけないことがある。
駅までの道の途中にコンビニを見つけ、店外の喫煙スペースにあるベンチに腰かけた。
スマートフォンを取り出し、橘に電話をかける。
「もしもーし。」
電話の向こうでいつものように明るい声が聞こえる。
「橘。実は一つ聞きたいことがあってな。」
「おう。なんでも言ってみろ。」
私は先ほどの板間の話をメモした手帳を片手に、
「少し前になると思うが、片平さんと会って、その時にあの新種のプランクトンのサンプルをもらったって言ってたろ? そのサンプルを採取した場所、例えば船の名前なんかは記入されていないか?」
と橘に訊く。
「うーん、場所ね。あったっけな。ちょっと待ってろ。」
数十秒後に再び橘の声がした。
「待たせたな。このサンプルが採取された場所を言えばいいのか? えーと、どれかな。」
私は思わず訊いてしまう。
「『坂東丸』って、書いていないか?」
数秒の無言の後、
「ああ、書いてある。」
と橘が答えた。
「お前の言う通り、『八月二十一日土曜日、大洗S漁業団体所属船 坂東丸の船べりにて』って書いてあるぞ。」
どくんと、心臓が鳴る。背筋に冷たいものが走る。
おそらく、橘が読み上げたのは、片平が追加で採取したサンプルのものだろう。
片平は同じ船の船べりと言っていたはずだ。加えて、八月十三日の水曜に新種のプランクトンを顕微鏡で見つけたと言っていたから、その前日、八月十二日木曜辺りに「坂東丸」で最初のサンプルを採取したことになる。
「なんだ? 何か分かったのか。」
話したい、橘に。自分がついさっき立てた仮説と推測を。
しかし、確証はないのだ。まだ確かめるべきことがある。
「いや、なんでもないんだ。また連絡する。」
そう言って電話を切ると、板間からもらった連絡先のメモに目を移した。
福島の住所の横にある電話番号をスマートフォンに打ち込む。五回ほどのコール音の後、「もしもし、瀬川ですが」と少し上擦った声女性の声が聞こえた。
「突然のお電話すみません。瀬川健一様にいつもお世話になっておりました。海洋生物研究所に勤めております、須藤という者です。」
「あ、こちらこそ健一がいつもお世話になっています。」
電話の声は少し年配者のような調子がする。おそらく瀬川健一の母だろう。
気さくな感じもするので、少し安心する。
「実は、健一様お勤めになっていた漁業団体に、定期的に水質調査の依頼を受けておりまして、本日会長から健一様がご逝去されたと伺いました。お悔やみを申し上げます。」
ゆっくりとこちらの言葉が確実に伝わるように話す。
「いえ、わざわざご連絡をいただきまして、ありがとうございます。」
少なくとも邪見にされることはなさそうだ。
「お辛いところをお尋ねすることになり申し訳ないのですが、健一様の症状についてお伺いできればと思いまして。」
と思い切って訊いてみた。
「症状ですか…。失礼ですがどのようなご意図での質問ですか。」
電話の向こうの怪訝な顔を想像する。やはりすんなりとは教えてくれない。
「実は以前、研究所の職員が健一さんの職場に行き、その後健一さんがお仕事を休み始めたのと同じ時期に連絡がつかなくなりまして。今、その職員の手掛かりを探しています。」
ここも正直に事情を打ち明けることにした。
「そうでしたか…。」
少し間があって、
「あれですよ。最近話題になってるウイルス。あれじゃないかって話です。」
と予期していた言葉が聞こえた。おそらくそうであろうと。
しかし、同時に外れていてほしいと思っていた予測だった。
「私は健一の症状を直接は見ていないんです。健一の妻から聞いたのですが、目が充血して前進にミミズ腫れが広がって、高熱も出てすごく苦しんでいたらしいんです。」
まさにあのウイルスの症状と酷似している。思わず息をのむ。
「健一から苦しそうな声で電話をもらって、こっちで療養するって話になったんですが、一家で移動している途中で症状が悪化して、そのまま福島の病院へ行ったんです。病院についた時には意識はなくて、そのまま二日後の九月一日に死んでしまったんです。私たちが健一と再会した時には、健一はすでに骨になっていました。」
少し早口で女性が話す。
「それは、健一様は入院して亡くなられて、ご遺体が焼かれるまでずっと隔離されていたということでしょうか。」
「はい、そうです。病院からは危険なウイルスに感染していて、遺体からでも感染が起こる可能性があるから、と話がありましたが、具体的な説明は全くありませんでした。しかも、混乱を防ぐためこの件は他言無用でお願いします、と一方的に言われたんですよ。」
聞きながら、自分の予測が現実となって姿を現し始め、橘の言っていた隠蔽についての話も一気に現実味を帯びてきた。
瀬川健一はあの死のウイルスに罹って死亡したと見て、ほぼ間違いないだろう。しかも、世間に報道された一番最初の感染者よりも早く感染しているのだ。
かなり重要な情報を手に入れることができた。ここまで聞き出せれば十分だろう。
「あの、貴重な情報をありがとうございました。お電話でこのような質問をしてしまい、申し訳ございません。」
「いいんですよ。むしろお話しできてすっきりしました。病院からは絶対言わないように言われていたんですが、対応に正直頭にきていたので。」
女性の声が気さくな雰囲気を取り戻した。
「あの、これからもし何かありましたら、ご一報いただけると嬉しいです。私もあのウイルスについて、少しでも情報がほしいと思っているので。」
最後に瀬川健一が入院していた病院の名前と電話番号を教えてもらい、私も自分の電話番号を教え、通話は終わった。
続いて、今教えてもらった病院へ電話をかけるが、やはり営業時間外を伝える自動音声が流れる。
ネットで病院のサイトを開くと、昨日から休業しているようだ。これについてもいい予感はしない。
その後、瀬川健一の茨城の電話番号と、田中雄二の電話番号にかけてみたが、誰も出なかった。
途端に肩を落としてため息をこぼす。
日はすっかり沈んで、周囲は暗くなっている。自分の周りを飛び交う無数の羽虫に気づいて、すぐにコンビニのベンチを離れた。
事態は予想以上に悪いかもしれない。とにかく今は思考がまとまらない。
橘たちに会うのは明後日の金曜日だ。
しかし、今日得た情報と、私の推測を早急に二人に共有しておいた方がいいだろう。
帰りの特急に乗ると、すぐに眠気が襲ってきた。窓の外に見える建物や街灯の明かりが尾を引いて後ろに流れていくのを眺めていると、いつの間にか意識が途切れた。
四
九月十六日、木曜日。
自宅のデスクの上に突っ伏している状態で目を覚ました。時計を見ると六時を回ったところだった。
目の前の開きっぱなしになっているパソコンと手帳を見て瞬時に思い出す。
昨日は大洗から帰宅してすぐにパソコンを開いた。
得た情報と自分の意見や仮設をまとめて、橘と高橋にメールで送ろうとしていた。パソコンの前で内容を考えていて、いつの間にか眠ってしまったのだ。
一日でかなりの距離を移動したので、疲れが溜まっていたのだろう。
二人へのレポートは簡易なものだったので、六時三十分にはメールの送信が完了した。
レポートの内容は下記のようになった。
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九月十五日(水)
茨城県東茨城郡大洗町所在 S漁業団体の事務局長 板間洋一氏の証言
三週間前(八月二三日~八月二九日の週)二名の漁師が突然休み始めた。うち一名の瀬川健一は翌週死亡し、もう一名の田中雄二は失踪した。
二名は同じ船に乗っており、船名は「坂東丸」。
「坂東丸」は沿岸での漁獲量が少なくなり、沖合まで出ることもあった。
瀬川健一の実家住所(福島県)在住の女性 おそらく瀬川健一の母親の証言
瀬川健一は三週間前から体調を崩し、療養のため妻と子供とともに実家へ帰る途中に体調が急変し、福島県内にある病院へ搬送される。その二日後の九月一日に逝去。
瀬川健一の症状は例のウイルスによるものと酷似しており、目の充血や全身のミミズ腫れ、高熱などの症状の後、昏睡状態に陥った。
女性は医者から、ウイルスの感染拡大を防ぐため、遺体と対面できないこと、世間の混乱を避けるため他言しないことを要請された。
①について
片平(海洋生物研究所 企画部所属)が音信不通になったタイミングと重なる。
②について
「坂東丸」は片平が八月十二日頃と八月二十一日に、新種のプランクトンを採取し
た船と同一名。
④⑤⑥について
瀬川健一はおそらく例のウイルスに感染していた。
以上から、八月十二日もしくはその前日に感染源に接触しウイルスに感染していたとして、約二週間後の八月二三日~八月二九日の週にウイルスが発症して体調を崩してしまったというのは筋が通る。
八月十二日ごろに起こったことは何か考えると、片平が発見した新種のプランクトンが、ウイルスの感染源である可能性が高いことが分かる。
③にあるように、沖合まで出ていた「坂東丸」は何らかの形で新種のプランクトンに遭遇。そして、乗員の二人と、船を調査した片平の三人がプランクトンによってウイルスに感染したのではないかという仮説が成り立つ。
片平と田中雄二もウイルスによって死亡しているものと思われる。
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あくまで仮説だと、自分に言い聞かせるが、話の辻褄が合いすぎている。
もし片平がすでに死んでいたとしたら。
一昨日、片平のアパートを訪ねた時は何も反応がなかった。しかし、中に死体があったとしたら。
何も知らずチャイムを鳴らしノックをしていたのを思い出し、ゾッとする。
そんな暗いイメージを払拭するように、椅子を弾くように立ち上がった。
警察に連絡して、片平の家の玄関をこじ開けてもらうことも考えたが、まだまだ確証がなく、仮説の域を出ないので、踏みとどまった。
二人の意見を聞いてからにしよう。
テレビをつけるといつもの朝のニュース番組がやっている。しばらく見ていたが、やはりウイルスについてはあまり触れず、意図的に控えめな報道がなされている感じがする。
もしかすると、感染したのは巨大生物や新種プランクトンに接触した人たちだけで、そこから他の人へ、つまり人から人へ感染することはないのかもしれない。
そうなると、感染拡大の危険は無いと言えるため、徒にウイルスの報道をしても世間を混乱させるだけだ。
まだ、何が真実か分からない。
暗い気分とは裏腹に冴えた頭へ、シャワーを浴び、いつも通りの時間で出勤する。
橘から返信で翌日の集合場所を知らされたのは正午を少し過ぎてからだった。
五
九月十七日、金曜日。終業後。
実験室に入ると、少し暗く感じる。
室内天井の端の照明が壊れているのか、点滅を繰り返している。
「なんか今日調子悪くてさ、あれ。そろそろ交換しなきゃいけないな。」
橘が真ん中の実験台の椅子腰かけるのを見て、私と高橋も従う。
「やっぱり、大学時代を思い出すわ。これから三人で実験してレポート書く、みたいな。懐かしいわ。」
高橋が鞄からパソコンを取り出しながら言う。
「だからここにしたのか橘。」
私が訊くと、
「うん。誰もいなくて話が捗るし。」
と橘は悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「それはそうと、須藤。メールありがとうな。かなり面白い話やないか。」
高橋がパソコン画面を見ながら切り出す。橘も、
「だよな。わざわざ遠出して聞き込みまでしてくれるなんて。で、須藤が書いていたとおり、かなり疑わしいな。」
と頬杖をつきながら反応する。
「だろ? 巨大生物だけじゃなくて、新種のプランクトンも感染源であるの可能性がある。そうなると、あのプランクトンが大洗にだけ局所的に発生しているとは限らないから、脅威の可能性も大幅に増えることになる。」
二人にこの件を共有し、話すことで気持ちが楽になった。
それからしばらくの間、意見を交わし合った。
橘はもう少し懐疑的になった方が良いのではないかという意見だった。
「坂東丸」に新種のプランクトンが付着していたことは事実らしいが、感染源と決めつけるのは早すぎる。
例えば、例の巨大生物、もしくは別の個体が船と接触し、乗員の二人がウイルスに感染した可能性もゼロではない。片平が音信不通になったのも、プランクトンが検出されたのもただの偶然かもしれない、という別の仮説を唱えていた。
高橋は橘の意見に頷きつつも、私の仮説を支持しているようだった。
「どっちにしても今は確証がないからな。」
私が言うと、
「そうだな。三人で話してるだけじゃ埒が明かない。そこで、今日はなんとゲストをお呼びしている。」
と橘が高橋の方を見ながら話す。
「まあ俺が呼んだんやけど。今日八時から俺がよくしてもらっとる先生とビデオ通話することになっとる。」
高橋がパソコンを操作している。
時計を見ると、もうすぐ八時だ。
「このあいだ橘が依頼してた、ウイルス研究機関につながりがある先生か。」
「そうだ。昨日承諾をもらったらしい。」
高橋も仕事が早い。普段も熱心に関係構築をしているのだろう。
「忙しいからか、ビデオ通話ならいいって言われたんよ。もうすぐ開始するから、二人ともこっちに来て、カメラに映るところへ座って。」
高橋の周りに椅子を移動させて座り、画面に顔が映るように位置を調整する。
高橋が一枚の名刺を実験台の上に置く。「東条宏」という名前が見える。
「これが先生の名前な。そろそろ向こうもログインすると思う。」
高橋の言ったとおり、数十秒後に相手側のカメラ画面が表示された。
ごそごそと姿勢を直す音がして、一人の男性が現れる。
四十歳くらいだろうか。細いフレームの眼鏡と無造作なパーマヘアが印象的で、薄く顎ひげを生やしており、想像していた医者の姿とのギャップからか非常に若々しく見える。
「こんばんは、東条先生。今日はお忙しいところお引き受けいただいて、本当にありがとうございます。」
高橋が朗らかに、しかし丁寧にあいさつする。私たちも画面越しに会釈する。
「いえいえ、高橋さんの頼みでしたら。それに面白いレポートもいただきましたし。」
東条は一枚の用紙を手にしている。
「あ、そうやった! 須藤。お前のレポート、先生にも共有したからな。」
高橋がこちらを向いて、少し申し訳なさそうに言う。ということは東条が持っているのは、昨日、橘と高橋に送ったレポートか。
私は、二回頷いて、「全然大丈夫だ」の意を示す。
「ええと、あなたが須藤さんですか。貴重な資料をありがとうございました。おかげでこのウイルスの全様が分かりました。」
東条は落ち着いた、自信を持った口調だ。
「え? 全様が分かった、そう言いましたか?」
と訊いたのは橘だ。
「はい。あなたが橘さんですね。高橋さんから伺っています。ご挨拶遅れましたが、私は横浜の診療所を営んでいる医師で、東条といいます。」
そう言われ、私と橘は顔を見合わせ、それぞれ東条に向かって会釈し、名乗った。
「では、何から話したらいいでしょうかねえ。」
東条は頭を掻きながら首を傾ける。
「ウイルスの研究は進められているのですか? ワクチンの開発にも着手されているのですか?」
橘がすぐに質問した。
「ええ。進んでますよ。順を追って説明します。」
即座に返答が来た。三人ともパソコンに顔を近づけ、耳を立てる。
「先週の水曜日、九月八日にウイルスの解析が終わりました。現存するどのウイルスにも合致しない遺伝子構造であることが判明しています。つまり、正式に新型のウイルスだということが分かりました。そのタイミングで全国の病院や診療所へこのウイルスのことは通知されました。しかし、政府は医療機関に対して、このウイルスの情報を流出しないように制限を課しました。お察しされていると思いますが、マスコミも『謎のウイルス』という言い回しを混ぜながら、特に最近は直接的な報道を避け、政府の隠蔽工作に加担しています。その一端が、須藤さんのレポートにも見えましたね。」
東条は少し俯いた状態で話す。眼鏡にパソコン画面が反射している。
ウイルスの正体が判明しているというのは衝撃的な話だ。我々がほとんど蚊帳の外のような状態で、傍観者的にしかこの事件に関われていなかったということを痛感した。
「あの。」
私はずっと抱いていた疑問を投げかけた。
「このウイルスは、人から人へ感染するんでしょうか?」
東条は眼鏡を少し押し上げる。
「いい質問ですね。その件についても説明します。」
画面の向こうで、資料をめくる音が聞こえる。
「このウイルスには潜伏期間があるというのは、推測されていることと思います。」
東条はこちらで進めた議論や推測をある程度知っている。おそらく高橋が事前に伝えたのだろう。
「エボラウイルスを例にして考えると分かりやすいと思います。エボラウイルスに感染すると、二日か、長くて二十日の潜伏期間を経て、発熱や頭痛、倦怠感などが起こります。いわゆるエボラ出血熱。しまいには皮膚や粘膜、消化官などから出血し、罹患者のほとんどは死亡します。」
「エボラ…。」
高橋が呟く。
エボラウイルスは重篤な症状を起こすウイルスの中で最強と言われている。いや今となっては、言われていた、というのが正しいのかもしれない。内臓の出血をともない、致死率は五十から九十パーセントに達する。
「エボラ出血熱」という言葉は、不安をさらに深い不安に突き落としてくるような響きを放っている。
「対して、例のウイルスの潜伏期間は二週間前後。エボラほど振れ幅はありません。しかし、エボラウイルスと同じように、患者の血液や体液との接触で感染することが分かりました。」
ということは、人から人へ感染するということだ。しかし、エボラと同様なら感染条件は限られている。
東条は続ける。
「報道されていませんが、今、首都圏の風俗街を中心にこのウイルスが蔓延し始めています。昨日の時点で全国の感染者数は三百人強。うち二十代女性と四十代男性の割合が高く見られました。その多くが風俗店を利用したり、働いていたりしています。」
海水浴を楽しむ若者たち、彼らが新宿や池袋などの夜の街へ繰り出し、風俗街にウイルスを持ち込む。感染した女性従業員が男性客に感染を広げ、家庭に入り込んだウイルスは次の宿主を狙う。
そんな想像が瞬時になされた。
「そして症状です。潜伏期間は無症候ですが、発症すると目の充血や全身の発信に始まり、高熱が続いてあっという間に昏睡状態に。エボラのような出血はともないませんが、多臓器不全により、致死率は百パーセントです。」
多臓器不全…。そういえば、直接的な死因を聞くのは初めてだ。
エボラでさえ致死率は「高い」という表現に留まる。しかしこのウイルスは、少なくとも今のところは「絶対に」死ぬのだ。危険度の高さがこれだけで際立つ。
「これだけなら、まだよかったんですがね。」
画面では東条がペットボトルの水で喉を潤している。
「さらに何かあったと。」
橘が身をのりだす。
「はい。簡潔に言うと、発症後は空気感染するということです。可能性という話ではなく、確証に近いものがあります。」
「空気感染…。」
高橋がまた呟く。
「咳とかで感染するってことですか?」
私が訊くと、東条は間を置かずに頷いた。
「まあ正しくは経気道感染と言います。インフルエンザや結核などがその代表例ですが、咳やくしゃみなどの飛沫が呼吸器に入って感染することを言います。一番目の感染者が出た横須賀の病院で、医師や看護師への感染が確認されました。その感染者の二十代男性は、症状がまだ出る前の潜伏期間中に、実家で数日間家族と過ごしているのですが、家族には感染は見られませんでした。それ以降病院での感染拡大の報告は上がっていませんが、感染者が入院していた病院が相次いて休業しています。」
私はそれを聞いて、ふとあることを思い出した。
「そういえば、私が書いたレポートにある、感染者の瀬川健一ですが。彼が搬送され入院していた病院は、今週火曜日から休業しているようでした。今の話を聞くと、そこでも院内感染が起こっている可能性があるのでは。」
東条は興味深そうに、少し画面に顔を近づける。
「なるほど。はい。その可能性が高いでしょうね。瀬川さんに同行していたその妻子にも感染している可能性が高いです。」
血液感染だけではなく空気感染もするとなると、パンデミックの可能性は大きく膨れ上がる。
ウイルスの症状が出始めたのはちょうど二週間ほど前だ。感染者と接した人々の症状が出始めるのはそろそろではないか。
「しかも、ウイルスは遺体にもしばらく残り続けるということも分かっています。感染拡大を防ぐため、亡くなった後、早急に焼かれる必要がありますから、遺族は遺体に対面することもできません。」
瀬川の母親が言っていたとおりだ。
このウイルスは感染者の人生だけではなく、死後の別れの時間も奪う。
「遺伝子の構造はエボラウイルスともインフルエンザウイルスとも、エイズウイルスとも異なっています。完全に未知のウイルスです。症状から見ても、史上最強、いや最悪のウイルスと言えるでしょう。医療崩壊も時間の問題です。」
「ワ、ワクチンはどれくらいでできるんですか?」
高橋が訊く。この話に動揺しているのが分かる。
「半年でできればいいほうです。一年、いや、もっとかかるかもしれません。類似のない、全く新しいウイルスですから。」
三人の顔に絶望の色が浮かぶ。
東条の言う通り、医療機関が機能しなくなるのも時間の問題だ。このウイルスについて報道がされない今、医療も受けられず、何も分からないまま死んでいく感染者が急増するだろう。
半年という期間でも、一体何人死ぬことか。
「手立てはあります。感染者を完全に隔離し、医療も行わないということです。そうすれば感染拡大の可能性は低くなります。しかし、日本では難しいでしょう。特に、政府が感染拡大防止ではなく、隠蔽の方向へ舵を取った今は。」
たしかに、ウイルスについての情報も開示されず、医療機関も連携して動けない中、そのような隔離政策の実施は困難を極める。
しかも、人道主義から大きく逸れた手段だ。超法規的措置として選択肢にあったとしても日本では選択されることはないだろう。
「ちなみに、海外でも感染者が出ています。中国やアメリカが国内感染の報道をしていますが、まだ感染源が日本であるという報道までは至っていません。この事実も日本は報じず、海外からのウイルスの情報をシャットアウトして、国内から政府への批判が高まらないように抑制しています。」
しかし、あの巨大生物については全世界に大々的に報じられている。同タイミングで流行るウイルスの感染源を、あの生物だと疑う声が世界から出てきてもおかしくはない。
政府は、少なくとも自国民の声は抑え、事実を隠そうとするだろうが。
そもそも東条は、感染源についての情報は得ているのだろうか。
「あの、先生は感染源について、どう思われますか? 私たちはあの巨大生物も感染源として可能性が高いと睨んでいるのですが。」
私は思わず訊いた。
「ああ、その話も高橋さんから聞いています。」
東条はまた手元の資料をめくっている。
「須藤さんのレポートの、新種の微生物が感染源ではないかという記述。これも非常に興味深く思いました。で、個人的に調査を試みました。つい昨日のことですけどね。それで分かったことが二つあります。」
東条は目線をカメラに合わして、こちらを覗き込むように見つめる。
「一つは、あの横須賀の巨大生物が侵攻した住宅街の周辺で、あの微生物が検出されたんです。新種のプランクトンとそちらではご認識されているようですが、あれは巨大生物の常在微生物なのではないかという推測ができます。巨大生物の死体は焼かれたらしいので、確かめようがないですが、あの生物がいた周りからだけ微生物が検出されたことを考えると間違ってはいないと思います。」
常在微生物。
我々の体内にも、人間の細胞数よりはるかに多い微生物が棲みついていると言われる。これと同じように、巨大生物の体内や体表に常在微生物としてあのプランクトンが存在しているのではないか、と東条は考えているのだ。
「もう一つ。ウイルス研究員の知人がいるので、依頼してあの微生物を検査してもらいました。すると、結果は黒。つまり、あの微生物の体内から、死のウイルスが検出されたんです。」
「ということは、須藤の推理は正しかったということだな。」
橘が呟くようにいう。
「そういうことです。あの微生物はウイルスの入れ物です。おそらく、微生物が吸い込まれて体内に入り、消化液によって生物の細胞壁が溶け、ウイルスが流れ出て感染する、という流れです。感染源があの巨大生物か微生物かどちらかは分かりませんが、微生物がウイルスを媒介しているというのは確かだと思います。ちょうど、マラリアや日本脳炎を蚊が媒介者となって運ぶように。」
その後しばらく無言の間が続いた。
恐るべきウイルスだ。治療法がなく、必ず死ぬというだけではなく、ヒトヒト感染、しかも空気感染する。
片平も、失踪した田中洋一も、ウイルスに感染してすでに死亡しているだろう。そう思いたくなかったが、あのプランクトンがウイルスを持っていること、船べりからプランクトンが検出されたという事実を並べると、目を逸らす余地がなくなる。
「このウイルスの全様が分かった、と申し上げましたが、厳密な感染源や、発生した過程、そもそも自然界に存在していたものなのかということ、不明瞭な点は多くあります。私も残された時間でどこまでできるか分かりませんが、ワクチンの開発のため、全力で解明したいと思っています。」
そして、東条は椅子にもたれかかり、また眼鏡を押し上げながらこう言った。
「実は私もすでに感染しています。」
「え?」
私と高橋が同時に声を上げる。橘も驚いた顔をしている。
「先生、感染してるって。あのウイルスに感染しているんですか?」
高橋が、まさか、といった口調で尋ねる。
「はい。先週の日曜日に判明しました。前日の土曜日に感染者の患者に接していたので、おそらくそれが原因でしょうね。その他四名の看護師の感染が確認されました。病院もすでに閉鎖し、感染者と感染疑いのある者は厚生労働省管轄の医療機関に隔離されています。」
「先生は今どこにいらっしゃるんですか?」
今度は橘が訊く。
「自宅ですよ。私は隔離されていません。申告していませんから。隔離されても自由を奪われるだけで、死ぬことには変わりありません。私が無症状なのは長くてあと一週間。その後数日で死にます。だから、最後の抵抗として、ウイルスの調査を独自で進め、こうしてあなたたちに情報提供しているわけです。」
三人とも息を飲んで聞いていた。
この医師はもう、死を覚悟している。死を受け入れて、その上で行動している。
だから昨日、危険を顧みず、感染源である可能性の高い巨大生物がいた跡の周辺を調査したのだ。
東条の笑みが力ないように見える。
「この生物のことはすでにウイルス研究者の知人に伝えています。今後、まあ一週間が限度ですが、私も全面的にウイルス研究に関わろうと思っています。被験体にもなれるでしょうし。」
言論統制の力も増し、ウイルスの現状がますます分かりにくくなっている中、東条のような医師と関係を持てたのはうれしい。
可能であれば東条の命が助かるよう働きかけたいが、時間はあと二週間も残されていない。助かる見込みはほとんどないだろう。
「大変なのはこれからですよ。今週末から来週にかけても感染者が続出するでしょう。しかし、そのことは報道されないし、医療機関の間での情報共有も限界がある。今後も何か情報があれば教えてください。」
「もちろんです。こちらこそよろしくお願いします。」
高橋が恭しく頭を下げた。
私と橘も一礼する。
「最後に一つ、質問いいですか?」
橘が少し前に出て画面に顔を近づける。
「このウイルスは本当に自然発生したものなのでしょうか。人為的に作られたという可能性はありませんか?」
という橘の言葉を聞いて、東条は屈み気味だった姿勢を少し直した。
その疑問は誰もが心の奥で感じていることかもしれない。それほど大きな事件が重なり、その後の国の対応にも違和感が残る。
「それについては確証もないので私の個人的な意見になりますが、それでもよろしければ。」
東条はそう前置きをし、話し始めた。
「人為的なものという可能性はあると思います。ただ、あのウイルスはこれまでのウイルスとは違う遺伝子構成です。通常、人為的に作られたウイルスは現存のウイルスの遺伝子を変えたり組み合わせたものになりますから、このような複雑で類似のないウイルスが作り出せるのかという疑問が残ります。しかし、政府の対応を見てください。注目すべきはこの点だと思います。」
三人とも頷く。
実験室の片隅の点滅する照明が、微かにチラチラという音を立てている。
「今、国内ではSNSもネット上も政府の検閲が行われているため、世論が形成されにくくなっていますが、おそらく多くの方がこう思っていることでしょう。なぜ、こんな危険なウイルスが流行する可能性がある中で、報道や発言の自由を制限したのだろうかと。もし自国民の安全を優先するなら、危険を回避するため情報の発信・受信を促進すべきです。不必要な混乱を招く可能性はありますが、それは受け取り側が情報の取捨選択をすればよい話で、情報が手に入らない方がよっぽど危険です。」
東条は手振り身振りで続ける。
「政府の対応こそが、このウイルスは人為的なものではないかという疑問の根源です。何か知られては不都合なことを隠蔽するために、自国民に犠牲を強いているように思われます。医療現場のサポートも消極的なようで、いや、むしろ医療機関側からの情報発信に制限をかけていますし。二十年近く医師として勤めて、こんなことは初めてです。年配の医師も私と同じように政府に大きな不信感を抱いていました。」
そのとおりだと思う。
暗雲が消えるどころか、どんどん立ち込めるように促すような、そんな対応をされているのだ。情報発信の規制が強まり、表出はされないが、不満はたまる一方だ。
「皆さんも、引き続きこの件の真相を追求していくことと思いますが、何があるかわかりません。くれぐれも気を付けてください。」
東条の眼鏡に、自分たちの映った画面が小さく反射して見えた。
六
九月十八日、土曜日。
その日は曇りで、ところどころに見える厚い雲が黒く歪んでいた。
朝起きると、前日の東条が語ったウイルスの実態や政府への疑惑が思い出される。
東条はその後、マスクの着用について話した。
「感染源はあの微生物です。マスクを着用することで、微生物からの感染リスクは大幅に下げることができるでしょう。マスクは買っておいてくださいね。私は大量にストックがあるので、必要なら差し上げられます。」
画面にマスクの入った大きな箱が映される。
「あと、風俗店の利用は避けてくださいね。まだまだ普通に営業しているところが多いですからね。」
東条は最後に冗談っぽく言った。
ビデオ通話が終わった後、三人の空気は沈んでいた。
想定を超えるウイルスの危険性、行く手を阻む政府、私たちが行動したところで何も変えられないのではないか、そういった不安が脳裏を支配していた。
「俺は、一応先生方からの情報収集は続けようと思う。何ができるか分からないが、ただ純粋にことの成り行きと、新しい情報が知りたい。」
高橋はパソコンを鞄に仕舞いながらそういった。
「分かった。三人での情報共有も続けよう。今後、社会がどうなっていくか分からないから、もしものときはまた集まって話せたらいいな。」
俯いて話す橘から、当初の威勢は消え失せていた。
今後、政府はさらに言論統制などの締め付けを強めていくのだろうか。
とにかくこのウイルスの感染源の隠蔽を優先しているように思うが、自国民の被害も少ないに越したことはないはずだ。
水面下でワクチン開発も進んでいるようだし、無理に政府に逆らおうとするよりは、今は大人しく従い、ウイルスを収束させるための手段が講じられるのを大人しく待つのがベストなのかもしれない。
しかし、社会は回り、経済は絶え間なく動いている。仕事に行かずに引きこもるというのも現実的ではない。果たして政府が働きかけ、企業活動を制限するかどうか。国が経済を優先するか、国民の命を優先するか、その選択にかかっている。
私は、このウイルスの実態、つまり、二週間程度の潜伏期間あること、潜伏期間中は血液感染し、発症後は空気感染するということを書いたビラを街で配るということを提案した。
しかし、二人の反応は芳しくなかった。
橘も高橋も政府からの制裁を恐れていた。たしかに、国民の混乱を招いたという名目で、政府の意図に沿わない行動にはいくらでも介入できるのだ。
結局、次の会合は未定のままお開きとなった。
とにかく空気感染するということが厄介だ。
東条の話では、症状が出始めてからしか空気感染しないといっていたが、それでも感染者の出た家庭や病院が大きな危険にさらされる。
パンデミックが起きるのも時間の問題だろう。
その日のニュース番組も、ウイルスについての情報はほとんどない。
また窓から見える暗澹とした雲を見て、ため息をついた。
亜希子との待ち合わせのために新宿へ向かうと、街ゆく人たちのほとんどがマスクをかけていた。
横浜駅付近で雨が降り出した。
折りたたみ傘を持ってきておいてよかったと思う。
駅の中は相変わらずごった返している。
どうしても周囲の人たちの眼の状態を気にしてしまう。赤く充血した眼があれば、ウイルスを撒き散らしている可能性がある。
眼が充血するという症状はすでに報道されているため、私以外にも周囲の人の眼に敏感になっている人はいるだろう。
そう思いながら傘を袋に仕舞っている時だった。
後ろポケットに入れていたスマートフォンのバイブレーションが鳴った。
亜希子からの電話だ。
「もしもし。」
「…。」
亜希子は電話の向こうでしばらく無言だった。泣いているようにも聞こえる。
急な用事でもできたのだろうか。
「亜希子? 何かあったのか?」
私が訊くと、
「ごめん。今日行けそうもない。」
とだけ言う。
やはり、泣いているように聞こえる。
「ああ、気にするなよ。まだ電車にも乗ってないし。また今度にしよう。」
私は駅の出口で、強まる雨を眺めながら答える。
亜希子は少しの無言の後でこう言った。
「あのね。私、あのウイルスに感染したっぽい。」
その後は泣きじゃくる声が聞こえてくる。
感染した? 亜希子が?
いや、まだ分からない。勘違いかもしれない。
「しょ、症状は出ているのか?」
「眼が、すごく赤くて。体中に、発疹が出ているの。」
亜希子は詰まり詰まり話す。
「熱は、ないけど。これってやっぱり、あれだよね。」
そこまで聞いて、私は頭が真っ白になった。
かろうじで、部屋から出ず、家族とも接触しないように伝え、またすぐ連絡すると言い、電話を切った。
どくんどくんと心臓が激しく鳴るのが分かる。
さあっという雨の音がいやに陰鬱に聞こえる。
またあの、海の底から伸びる白い手がフラッシュバックした。