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群青のカタストロフィ  作者: 相川 健之亮
5/8

感染


 八月三十日、月曜日の職場では、あの巨大生物についての話で持ち切りだった。


 前の席に座っている大島も、先週の新潟での実地調査のレポートをそっちのけで、他の所員と会話している。

 「須藤君も見たでしょ、あれ。俺特撮が好きだったから、あの映像は興奮したなあ。着ぐるみでもCGでもない、本物の怪獣が見れるなんて。」

 大島が話しかけてきた。

 あれが現れた時、ちょうど近くにいたことは伏せて、適当に話を合わせる。


 昨日と今朝のニュースでは、あの死体は焼却処理される予定だと報道された。

しかしSNS上では、政府が極秘にあの生物の死体を運び、研究対象としているのではないか、とか、海外の研究機関が秘密裏に持ち帰ったのではないか、といった憶測を述べているアカウントが散見される。

 被害をもたらしたとはいえ、正体不明な巨大生物の貴重なサンプルを簡単に燃やしてしまうのは、たしかに違和感が残る。

 あの生物はアメリカが作った生物兵器で、それが実験的に使われたのではないか。騒動後の証拠隠滅を図るような素早い対応も、アメリカからの圧力ではないか、といった、何やら陰謀論めいた話も少なくない。


 「『モスラ』って知ってるでしょ?」

 大島が特撮の話を続けている。

 「『ゴジラ』に出てくるあのでっかい蛾ですよね。」

 パソコンの画面を見ながら答える。

 「そうそう。『モスラ』の幼虫は分かる? 茶色い芋虫みたいなやつ。」

 幼少のころに見た『ゴジラ』の映画を思い出しながら「はい」と頷く。

 「横須賀のあれを映像で見た時、真っ先に『モスラ』だ、って思ったね。横須賀の怪獣のほうはもっと固そうな感じだったけど。」

 大島はうちわを手に取り、扇ぎだした。

 「で、もし『モスラ』の幼虫が設定どおりの大きさで現れたとしたらって思ったんだよ。横須賀の怪獣は、あの大きさで、重過ぎて、身動きとり辛そうだったから、『モスラ』の幼虫ももし現れたら全然映画みたいには動けないんだろうなって。なんだか悲しいような、けど実際にあんなのがいてうれしいような、とにかく感動したねえ。」

 「『モスラ』って虫だから、子どものころ見ても全然かっこいいとも怖いとも思わなかったです。」

 私が正直な感想を漏らすと、大島の解説に、より熱が入る。

 「今観たら絶対違う感想になるよ。一作目の映画での『モスラ』なんか幼虫でも百八十メートルくらいあってめちゃくちゃ大きいんだ。『ゴジラ』なんか比較にならない。幼虫は糸、成虫になってからは鱗粉を使って攻撃する。他の怪獣たちはその糸や鱗粉で混乱してしまって大苦戦さ。」

 巨大な蛾がきらきら光る粉を振りまきながら空を飛ぶのが頭に浮かぶ。

 「とにかく、幼虫はあんなに頼りなさげな姿だけど実はでかいし、攻撃もいやらしくてなかなか強い。それが成虫になって、より強い武器を手に入れるっていう進化の構図は、幼いころに見ても揺さぶられるものがあったけどなあ。」


 大島はそこまで話すと椅子にもたれていた姿勢を直して、

「そういえば企画の片平は大丈夫なのかな。先週から休んでるらしいけど。」

 と目を細めて言った。

「どうなんでしょう。体調不良とは聞いてますけど。」

 興味のある話になったので、私もパソコンから顔を上げる。

 片平には昨日メールを送っていた。

 いつもならすぐ反応をくれるが、今日になっても返信がこない。

「今日も休んでるんですか?」

 と大島に聞いてみると、

「うん。先週金曜日に片平の課の課長に、母方の祖母が亡くなったから一週間くらい休むってメールがあったって聞いた。先週水曜日は、体調不良って言ってたらしいね。」

 と答えが返ってきた。


 祖母が亡くなったから…。

 しかも、一週間…。


 これまでの片平からすると、違和感のある休みの重なり方だ。

 体調不良で三日間休み、身内の不幸によってさらに続けて一週間も休むのは、仕事熱心な片平らしくない。

 やはり相当体が悪いのか、それとも別の何かが起こったのか。


 ここ最近は大きな事件が立て続けに起こっている。新種の微生物の発見と、巨大不明生物の出現。特に前者は片平の欠勤に関わりがありそうな気がする。

 もしかすると、新種生物の発見を発表するための、大詰めを迎えていて、そっちに力を入れるため、仕事を休んでまで時間を費やしているのかもしれない。

 楽観的な推測かもしれないが、最後はそこに落ち着いた。


 「珍しいよな。あいつがこんなに休むの。」

 大島も首をかしげている。

 「そんなことより大島さん。レポート、頼みますよ。」

 笑いながら言うと、大島もばつが悪そうに笑って、パソコンに視線を移した。

 「新潟での調査の結果も予想通りの結果でつまんなかったなあ。横須賀でも行ってあの怪獣みたいな生物を発見したいよ。『モスラ』みたいなさ。」

 「海だと、いたとしても『ゴジラ』じゃないですか?」

 大島はふんと鼻を鳴らして、

 「『モスラ』の幼虫は水中でも歩行できる。たしかかなり早いスピードで移動できるから、遭遇したら一巻の終わりさ。」

 と言ったが、あっという顔をして、

 「けど、もし映画の設定どおりの大きさと重さだったら、かなりのろいだろうから、すぐ捕獲できるかもね。」

 と一人で話とテンションを変えていた。




   二


 巨大生物侵攻から十一日目の九月八日水曜日、午後七時半。仕事終わりに橘と飲みに行くことになった。

  その日も例によって新宿で、特に予約もせずチェーンの居酒屋に入った。


 事前に聞かされていなかったが、橘はこの小さな会合に、もう一人参加者を招待していた。

 私と橘が並んで座り、もう一人を向かいに座らせる。


 「橘も須藤も何年ぶりよ。二人とも全然変わっとらんくて、安心したわ。」

 と話す男は、大学時代、私と橘と同じ研究室メンバーの高橋誠だ。


 愛知県出身の高橋は方言と標準語が混ざったような話し方をする。研究室一年目までは標準語のみで話していたが、メンバーと気心が知れる中になってからは、違和感のない程度に方言を混ぜている感じだ。

 相変わらず眼鏡をかけていて、坊主頭だ。ひげもきれいに剃っているので、髪が長く少し無精ひげが生えている橘とは対照的だ。

 「俺と須藤は少し前からちょくちょく会ってるけどな。」

 そう言って橘が生ビールを三つと料理をいくつか店員に注文する。


 乾杯の後、真っ先に口を開いたのは高橋だった。  

 「何年前かにあった時は、須藤は研究所に就職したって聞いたけど、橘はまだ大学院生やったろ? 今は何しよるん?」

 「大学で働いてるよ。教授のお手伝いをしてる。」

 という橘の言葉を聞いて、高橋はビールを口に含んだまま目を丸くしている。

 「想像つかないよな。橘が真面目に大学教授の助手してるとこ。」

 と私がすかさず橘をいじると、高橋も笑って、

 「たしかに。昔よりチャラく見えたから、下手したら水商売でもやってるもんかと思ったわ。助手ねえ。想像つかん。」

 といった。

 「みんなそういうんだよ。まあ、俺もやるときはやるってことさ。」

 橘もほろ苦いような顔で笑っている。


 「そういや高橋は仕事順調か? 医療機器メーカーだったよな。」

 私が聞くと高橋が頷いて話す。

 「うん。今は営業の仕事にもだいぶ慣れたから、結構楽しめとるわ。」

 新卒一年目に会ったとき、高橋は医療機器の営業の仕事でかなり疲弊している様子だった。

 ノルマは特にないが、客先が多いのと、正確で詳細な商品紹介が求められるため、上司も厳しく、相当ストレスがあったようだ。

 今はそんな影はなく、すっきりした笑顔だ。

 お互いの近況報告もひと段落して、橘があの騒動に話題を移した。

 「須藤はな。あの横須賀の巨大生物を、生で見てるんだ。」

 「あのでっかいダンゴムシをか。先週はすごい騒ぎになっとったね。」

 高橋が少し赤くなった顔でこちらを見る。

 「ダンゴムシっていうか、海から出てきたから、どちらかというとグソクムシだけどな。あれが現れた日、ちょうど横須賀の波風公園にいたんだよ。」

 橘も頷きながら聞いている。

 「大丈夫やったん? 動画見たけど、その日もすごいパニックやったらしいやん。」

 「その時は近くのホテルにいたから。そこから眺める感じだった。外から悲鳴が聞こえて何事かと思ったら、あれが海から出てきてた。」

 その日の光景を思い出しながら、ビールを口に運ぶ。


 「ある意味、歴史的な瞬間に立ち会ったって感じやね。」

 高橋がそういうと、

 「そうなんだよ。こいつ、そういうとこ、すごい運持ってるんだよ。」

 と橘も何度も聞いたようなセリフで同意する。


 「須藤の研究所の先輩が新種らしい生物を発見したんだよ。俺も関わらせてもらって、実際にそれを見たけど、多分未発見の生物だな。」

 「え?」と高橋は身をのりだす。

 「新種って、あの横須賀のやつとは別にか。」

 私は軽く頷く。

 「俺の先輩が見つけたのは微生物の類だ。プランクトンのヤコウチュウに似てるが、ちょっと違う。」

 私が補足の説明をする。

 生物の形状や、発見場所、ヤコウチュウが進化したのではないかという推測まで話すと、高橋は興味津々で、

 「なんかそれ、大発見の匂いがするな。」

 と言った。

 「橘は須藤の研究所で一緒に研究してるってことか?」

 「ちょっと違うな。俺がサンプルを共有してもらってるってだけだ。」

 「なんか楽しそうでいいな。大学の同期の職場と関われて。」

 高橋がそう言うと、続けて「そういえば」と手にしていたグラスを置く。


 「俺、都内の一部と神奈川の営業担当なんやけど、横須賀の病院はあの騒ぎの影響受けとったわ。避難指示が出てから院を閉鎖して、入院患者も別の病院へ移したりで、めちゃめちゃ忙しかったらしい。」

 高橋が思い出したように話す。

 「避難指示が解かれたのが一昨日の月曜。それからもとの入院患者を受け入れて、営業再開したわけよ。で、病院を閉めてたのがちょうど週末だったから、平日でも年寄りの患者や外来が殺到してるらしい。」

 話が少し逸れたが、

 「あんまり考えてなかったが、こういうとき、医療関係は大変だろうな。」

 と私が反応する。

 「あれの侵攻で、怪我人がほとんど出なかったことが不幸中の幸いだな。」

 橘も俯いて言う。


 「そんな中で、横浜にある内科の診療所の先生に聞いたんやけど。」

 高橋はおしぼりで口を拭いた。

 「なんでも、未知のウイルスが流行っているかもしれんってことだ。」

 「未知のウイルス?」

 思わぬ言葉で、私はつい反復する。


 「ああ、その症状がまた結構えぐいらしくて。まず目が真っ赤に充血して、涙が止まらんくなるらしい。」

 高橋が自分の目を指さしながら言う。

 「目? 花粉症の強化版みたいなもんか?」

 橘が、どうせ大したことないだろうといったトーンで聞く。

 「いや、先生から聞いた感じだとそんな生易しくはない。目から出血する患者もいるらしいわ。」

 「たしかにそんな状態になったたらまともに生活できないな。」

 私がそう言うと、高橋は

 「目だけじゃないぞ。体中にミミズ腫れができて、それも痛みがある。」

 と付け足す。

 それを聞いて私は、肌が黒く変色するという、ペストを連想した。

「加えて、高熱が出るらしい。四〇度超えるって言うとった。筋肉痛と関節痛もひどいらしくて、動けんくなるって。」

 高橋はより身を乗り出して話す。


 「なんかそれもインフルエンザみたいな症状だな。」

 橘はなおも本気にとらえていないように言う。

 「それは本当に未知のウイルスなのか? 聞いてる限りじゃ花粉症とか、その他の持病がたまたまインフルエンザと重なって発症したって可能性もあるように思うが。」

 私も疑問を素直にぶつける。

 「いやこの暑い季節にそれはないやろ。ちなみに発症が確認されたのは今日の段階で十人くらい。しかも全員神奈川県にある病院や診療所でや。」

 高橋は少し興奮した様子で続ける。

 「症状が出てるの人の年代はばらばらで、二十代もいれば六十代もいるって言うとった。その全員がインフルやら花粉症やらを一斉に発症するのはおかしいやん。まあ真夏でもインフルエンザにかかる人はいるし、可能性はなくはないけど、こんなに一斉にかかるってほぼありえんからね。」

 「うーん」と橘が唸る。

 「なるほどな。その患者たちは全員違う病院で判明したのか?」

 「それぞれの病院で何人出たかは分らんけど、多分別々やと思う。少なくとも、一つの病院に固まったりはしてないはず。」

 橘の質問に高橋が答える。


 「それだと奇妙じゃないか? ウイルスってことは感染症だろ? それなら同じ地域や病院に罹患者が集中してないとおかしいだろ?」

 今度は私が高橋に質問する。

 「そう、そこなんよ。俺も専門じゃないから詳しいことは分からんけど、先生は症状的にウイルスじゃないかって。けど、感染源も全く特定できてないし、今のところ神奈川だけで患者が出てるってことしか分からないってさ。症状も特殊やし。」

 高橋がそう答えると、

 「分からないことだらけだな。まあ、だから未知のウイルスってことか。」

 橘が納得したようなしてないような、消化不良といった感じで言う。

 「そうそう。早い話が、なんも分からん。多分ウイルスや。けど、実態が分からん以上、効果的な対策も抑制方法も分からん。」


 高橋は空になったグラスを掲げてハイボールを注文した。

 「で、この話の怖いのは、罹った人で完治した人はまだおらんってことよ。」

 「え?」

 私は素っ頓狂に声を漏らした。

 「死んだ人はいるのか?」

 「いや、死者まだ出てないって。一応、初めて罹患者が出たのが先週の金曜日で、そこからぽつぽつと出てきたって聞いた。最初の感染者は二十代で、昨日から昏睡状態になったらしい。他の患者も同じような症状で、重症化していっとるって。」

 高橋が神妙な顔で答える。


 「なんだそれ。めちゃくちゃ怖いじゃねえか。」

 橘が苦々しそうにしている。

 「まあ俺も又聞きした話やし、まだ不確定要素が多い。こういう風に話すのも、不必要に不安を煽るだけかもしれん。けど先生は、用心するに越したことはないって。」

 高橋もそれに答えるように話す。

 「けど、対策方法が分からないなら、気を付けようがなくないか?」

 私が訊くと、高橋は一度大きく頷いて、

 「そうだな。けど簡単な対策はできるやろ? 手洗いうがいとか。一応ウイルスって言うとるんやし。また詳しいこと聞いたら教えるわ。」

 と言った。


 氷のからんという音と共に、三人同時にグラスをゆっくり傾けていた。


 そして、その日は何か判然としないまま帰路についた。

 



   三


 動きがあったのは九月十日、金曜日の朝だった。

 いつものように七時のアラームで目を覚まし、コーヒーを飲みながらテレビで朝のニュースを見ていた。


 巨大生物が出現してから約二週間。ニュース番組では番組独自で撮影した映像や、ネット上の動画を編集して、特集をやっている。

 街中でのインタビューも行っており、新宿駅をバックに、若い男女が答えていた。

 今回の騒動は収束の兆しを見せている。

 巨大生物が焼却処理されると報道されてからの、SNS投稿も落ち着き始めた。

 台風が過ぎ去った後のような、世間の関心の移り変わりだ。


 余波はまだ続くと思っていた。

私はあの生物の出現と、それに起因するパニックを目の当たりにして、不必要に怯えていただけだったのかもしれない。

もしくは、自分の専門分野に関連した事件だから重要に感じるだけで、世間一般ではただ、目立った面白い出来事、くらいの認識なのかもしれない。

しかし、世界中の生物学者たちはざわついていることだろう。

報道されない、水面下で何か大規模な研究や調査が行われているのも想像できる。

そんなことを考えながら、コーヒーをスプーンでかき混ぜる。底にたまった砂糖のざらざらした感触が伝わる。


その時、一つの短いニュースが読み上げられた。


「九月八日木曜日。横須賀市内の病院で、二十代の男性が原因不明の症状により亡くなっていたことが分かりました。」


画面に病院の白い外観が映し出される。


「男性は九月三日金曜日から入院しており、当初は目の痒みと全身の痛みを訴えていたましたが、その後、四十度前後の発熱が起こり、六日月曜日には意識不明の重体になっていたということです。」


一昨日、高橋から聞いた未知のウイルスの話が一気に思い出される。

コップを机に置き、続きに耳を傾ける。


「また、神奈川県内の病院からは、この男性と同様の症状の患者が相次いており、新たな感染症である可能性も視野に入れ、神奈川県知事は昨日、医療研究機関等に調査を依頼したとのことです。」


キャスターがここまで読み上げたところで、BGMが変わり、スポーツのニュースが流れ始めた。

三十秒にも満たない短いニュースに、思考を奪われていく。

高橋から聞いた話と照らし合わせて、全く矛盾がないことを確かめていく。

     

 目が充血し、肌が腫れ、高熱と全身の痛みが現れると高橋は言っていた。

 最初の患者は先週の金曜日、横須賀の診療所で現れたこと。神奈川県内で、同じ症例がいくつかあること。

 全て先ほどのニュースの内容に当てはめられる。

 加えて、神奈川県知事が機関に調査を依頼したという報道。もしかすると、この原因不明の病気は、私が想像している以上に悪い事態を引き起こしつつあるのかもしれない。

 しかし、まだ不明確なことが多い。ただ偶然が重なっただけかもしれない。

 きっと心配するには及ばないだろう。

 と、その時はめんどくさいものに蓋をするように、考えることを止めた。




   四


 九月十一日、土曜日に亜希子が泊まりに来た。

 巨大生物との遭遇以降、不安とストレスを感じているようだったが、あれが死んで以来は活力を取り戻したようだった。

 しかし、以前と比較して酒をあまり飲まなくなった。その日も、その前の週の土曜日にうちに来たときも、缶ビールを一缶だけ飲んだだけだった。


 例の感染症の続報を聞いたのは、その翌朝のニュースでだった。

 

 「先日神奈川県内で確認されていた新型感染症により、昨日までに二十一名の死亡が確認されました。」

 

 ベッドに腰かけていた私は、このアナウンスで、ニュースに意識を持っていかれた。引き続き、感染症の具体的な症状を説明している。

 

二十一名?

 水曜日の段階で確認されている感染者は十人だったはずだ。

 ということは、感染者はさらに増え、その後回復することなく全員亡くなっていっていると考えてよいのだろうか。

 高橋の言葉を思い出す。


 「この話の怖いのは、罹った人で完治した人はまだおらんってことよ。」


 もし、この感染症に罹った人全員が重症化して命を落とすとしたら…。


 「神奈川県近隣の都道府県でも感染者が確認されており、感染拡大防止のため、実態調査を引き続き行っていくということです。」


アナウンサーが読み終えると、司会者がパネルを使って、この感染症によるこれまでの経緯を簡単に説明し、ゲストの芸人や評論家に話を振っている。

すでに県外にも感染者が出ているというのが、気味が悪い。

日本の地図にぽつぽつと火種が起こり、燃えていくイメージが沸いた。


「また変なニュースやってるね。」

亜希子が寝起きの少しかすれた声を出す。

下着姿で寝そべった亜希子はまだ眠そうに体を縮めている。

 私は亜希子に不安を抱かせないように、テレビの電源を消した。



夕方に亜希子が帰ってから再びテレビをつけると、緊急のニュース番組が放送されていた。

画面右上のテロップには「新型ウイルス流行の兆し」とある。

朝のニュースより、慌ただしい雰囲気でアナウンサーがニュースを読み上げている。

どうやら、これまでにない新型のウイルスによる感染症であると、厚生労働省が断定し、パンデミックの恐れがあると発表したようだ。


「このウイルスは非常に危険で、罹患してから回復した人は未だにいません。神奈川県内ではすでに五十名超の方がこのウイルスによって命を落としています。」


五十…。今日だけで三十人死んでいる。

感染すれば命を落とすウイルスというのは、ほぼ確定と言っていいのではないか。

SNSのトレンドでも「死のウイルス」がランク入りしている。この休日の間に、世間にも浸透しつつある。


テレビでは大学教授のコメンテーターが映っている。


「ええ、今のところですね。このウイルスについて、依然として何も分かっていないというのが現状だと思います。このウイルスに感染すると、人体にどのような影響が及ぶのか、それはだいたい分かっていますが、肝心の感染源や感染経路、そもそも人から人へ感染するのか、といったことが判明していないんですね。」


もし、インフルエンザウイルスのように、飛沫感染するウイルスだとしたら、今後、目もくらむような速さで感染者数が増えていくはずだ。


 「普通のウイルスでしたら、感染者の周囲で新たな感染が起こりますが、このウイルスは感染者とほぼ接点のない人が新たな感染者になっていってるんですね。そこが奇妙な点です。」


 司会者は、今後どのような対策をすればよいか、大学教授に質問する。


 「まずは手洗いうがい。そしてマスクの着用でしょう。まあ対策と言っても、やるに越したことはない、くらいのもんですが。」


まだ分からないことが多すぎる。今後の対策がはっきりと述べられないのが歯がゆい。

SNS上にはこの放送に煽られて、不安を吐露する投稿が相次いでいる。


「え、、、どうするの明日から。感染怖くて学校行けない」


「今度は死に至るウイルスって。最近の終末感ヤバイよな」


「感染源も感染経路も分からないって怖すぎん?」


画面をスクロールしているそばから、新規の投稿が増え続けている。

真偽のほどは分からないが、知人がこのウイルスに感染して亡くなったというものもあった。

日が沈んで、亜希子から電話があった。


「ニュース見たよね。」

亜希子の落ち着いた声が聞こえる。

「ああ。巨大生物の後はウイルスか。」

 私も亜希子の不安を少しでも取り除けるよう、笑って話す。

 「知ってる? 神奈川県を封鎖しろっていう声が、ネットとかSNSで多くなってて、それでちょっと心配して電話したんだけど。」

 さっき確認した時には見つけられなかった。

 しかし、この致死性のウイルスが神奈川県から始まったこと、県内にまん延している可能性を考えると、ある意味当然の帰結かもしれない。

 私は動揺を出さずに、

 「なんだ、そのことか。大丈夫だよ。危なくなったら職場に泊まるし。あんまり心配するなよ。」

 と言った。


 これから多少の混乱は起きるだろう。

 ウイルスに感染することは、死に直結する。その恐怖を、ウイルスを防ぐための具体的な対策がまだ分からないということが増大させている。

 電話を切った時は九時だった。

 テレビではまたニュース番組でウイルスの話をしている。

 このまま何事もなく収まってほしい。それが絶望的であることも分かっているが、現実から目を背けたい。


 その日はよく眠れず、午前四時にやっと眠りに落ちることができた。




   五


 九月十三日、月曜日。


 その日の朝は、厚木にいる母親から、私の身を案じるメールが届いていた。

 厚木市内では感染者は出ていないが、近隣の市は複数の感染者が出たらしい。横浜市の感染者数は横須賀に次いで多いので、かなり心配しているようだった。

 「大丈夫。そっちも気を付けて。」

 と短い文で返信した。


 いつものように出勤する。

 電車内は相変わらず混雑している。特に変わった様子は無いように思えるが、一つだけ異様な点がある。マスクを着けている人がいるのだ。

 マスクを着けること自体は別に変なことではない。しかし、まだ夏の暑さが残る九月に、クールビズの服装で、何人ものサラリーマンがマスクを着けている光景は異様だった。

 そして、片平は今週も欠勤していた。

 今週の休みについては、まだ管理職に連絡が来ていないらしい。しかし管理職連中は大したことはないだろうと、放置している。

 私の方にも片平からの返信は依然として無く、最近の騒動と相まって不安がより大きくなる。


 「須藤君、横浜に住んでたよね。そっち方は大丈夫?」

 デスクで書類整理をしていた大島が不意に聞いてきた。

 「ええ、なんともないですよ。大島さんも神奈川ですよね。」

 私もパソコンを打ちながら話す。

 「うん。うちは家内が敏感になっててさ。何でも、近所に住んでる奥さんの親戚があれに感染したみたいで。詳しくは分からないけど。で、それを聞いた家内がかなり焦ってて、今日マスクを買い込んでくるって言ってたよ。」

 大島はいつものゆったりとした話し方だが、顔は少し憔悴しているようにも見える。

 私と同じように、ウイルスの報道を見た昨夜は眠れなかったのだろう。そして、一人暮らしの私にはまだ分からない不安を感じているのだろう。


 「あと、息子が通ってる学校が今週一週間休みになったらしいんだ。」

 大島が顔を上げて言う。

 「そうなんですか? 小学生でしたっけ、息子さん。」

 私も顔を上げる。

 「そう。感染者が出た市や区にある小中学校は全部休校になるらしい。息子が通ってる学校の市でも感染者が出たらしくて。昨日の夜遅く、学校から連絡があった。うちは専業主婦で、息子も五年生であまり手がかからないからいいんだけど。」


 その話は知らなかった。

 おそらく、昨日の報道と、増え続ける県内の感染者数を考慮して、県の教育委員会が昨夜のうちに自治体へ通達したのだろう。非常に慌ただしい対応だが、事態が事態だ。しかし、休校措置を小中に限っているのは、国が事態の重さを計り兼ねており、対策を練っている自治体も手探りでやらざるを得ないという証拠でもある。思い切って舵を切れないのだ。


 その日の仕事は翌日に控えた、いわきへの出張の準備と、残っていたレポートの処理に充てた。

 他の班も出張に備えて、便や宿の手配や器具の準備をしていたが、ウイルスの報道を受けて、モチベーションは大きく低下しているようだった。

 大島も

 「こんなときなんだし、うちの研究所も出張禁止にしたりすればいいのにな。感染者が出てからじゃ遅いんだから。」

 と愚痴を漏らしていた。


 すでに都市部の大企業や、一部のIT企業が出社を制限し、自宅での勤務を促しているらしい。

 しかし、うちは現地へ赴き調査をして、所で実験や検査をして結果を報告するという業務だ。当分は通常通りの出勤を続けるだろう。

 今のところ、企業の営業に対しては、国からの要請や指示は何も出ていない。

 今後、労働者から不満の声が上がり、ストライキが起きる可能性だってある。今日のフロアの雰囲気を見ていると、そう感じた。

 その日は残業もせず、定時の七時で帰る所員がほとんどだった。




   六


橘からの着信履歴に気づいたのは、仕事が終わってからだった。

 折り返すと、

 「おお! 仕事中にかけて悪かったな。」

 といつもの調子の声が聞こえた。

 「なんだ? 飲みか?」

 研究所を出て、品川駅まで歩きながら話す。正直いろいろなことが重なって、言い知れぬ不安を感じていたので、この電話に救われたような気がする。


 「飲み、とは違うな。また三人で集まりたいと思ってな。」

 三人。おそらくもう一人は高橋だろう。

 「集まる?」

 「ああ、実は昨日高橋と会ってたんだが、ちょっと気になることを聞いてな。お前も混ぜて一緒に話がしたいと思ったんだよ。」

 少し考えて、何のことか想像がついた。

 「高橋がいるってことは、あのウイルスについてか。」

 「そうだ。」

 たしかに気になる。先週の水曜日の時点で、高橋はこのウイルスについて、先行してかなり正確な情報を得ていた。

 高橋が持つ医者のネットワークで、また何か分かったことがあるのだろうか。


 「了解。で、いつなんだ?」

 「急で悪いが、今日でもいいか?」

 「今日? 今からかよ。」

 しかし、腕時計を見ると七時を回ったばかりだ。今から集まったとしてもそこまで遅くはならないだろう。

 「分かったよ。どこに行けばいい?」

 「場所はな、別に俺んちでもいいんだが、どうしようかな。」


 橘は少し考えて意外な答えを出した。

 「じゃあ、俺らの元研究室にきてくれ。」 


 「はあ? どういうことだよ。」

 私はつい電話越しに大きな声を出す。 

 「いいから。明応大学渋谷キャンパス、四号館地下の〇〇五番実験室に集合だ。待ってるぞ。」

 「お前の職場ってことかよ。」

 「心配すんなって。他に誰もいないから。じゃ、早く来いよ。」

 あっけなく通話終了の音がした。

 しかし“実験室”か。

 その言葉を聞くだけで、大学時代のことがふつふつと脳裏に蘇る。

 たまには母校の門をくぐるのもいいかもしれないと思った。


 不安と高揚感が入り混じった、落ち着かない感情で渋谷に向かった。













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