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群青のカタストロフィ  作者: 相川 健之亮
4/8

侵略


 八月二十八日土曜、午後一時の中野駅前は、授業を終えた大学生や新宿方面へ歩いていくカップル、昼休みで社外に出ているサラリーマンが行き交い、ビルの間を満たすアスファルトにさらに熱を加えている。

 今日も一段と暑く、人込みを縫って目の前を歩く橘のティーシャツも汗の染みができている。


 橘から連絡があったのは昨日だった。

 お互い昼食を済ませたあと、橘の済むアパートがある中野駅に集合することになった。

 オフィス街から少し離れた、閑静な住宅地のアパートの前に立ち止まった。

「ここが俺んちだ。」

 と橘が言う。

 白塗りの五階建てのアパートだ。周囲の建物もある程度高さがあるため、下の階はあまり日が当たらなそうだが、たたずまいときれいな壁で高級そうに見える。


 エレベーターで五階にあがり、廊下一番奥の部屋を開け、「上がれよ」という橘に続いてドアをくぐる。


 思わず「広いな」と声が出る。玄関から廊下を進むと広々とした居間があり、大き目のソファとテレビに挟まれてガラステーブルが配置されている。オープンキッチンもあり、一人暮らしには少々勿体なく思えるくらい充実している。

 「一か月前に越したばかりだから何もないけどな。まあ座れよ。」

 橘に促されて、ソファの端に腰かける。橘はキッチンに立ち飲み物を出している。

 「お前どんだけ良いとこ住んでるの? ここ月十五万とかじゃきかないだろ。」

 私が部屋を見渡しながらいうと、

 「自分で言うのもなんだが、実家が裕福だからな。住むところは妥協するなって、親がお金出してくれるから、遠慮なく脛をかじってるだけだよ。」

 と、橘は笑いながらコップを取り出している。

 橘の実家は父親が印刷会社の社長、母親が製薬会社の役員をしていて、大学生のころも破格の援助をしてもらっていた。バイトもしておらず、金銭について自由な感覚を有している。

 「どうせ夜は亜希子ちゃんとデートだから、酒は飲まないだろ? リンゴジュースでいいか?」

 橘はコップとリンゴジュースのペットボトルを私の目の前に置いた。勝手に入れて飲んでくれということだろう。チューハイを持ってきた橘がさっそく自分のコップに注いでいるのも見て、私もリンゴジュースを注ぎ、二人で乾杯した。

 「さてさて、何から話したらいいか。」

 橘は手のひらをこすり合わせている。

 「あのプランクトンの件、何か進展があったんだろ?」

 と問うと、橘は頷き、語り始めた。

 「結論から言うと、あの生物はヤコウチュウが突然変異して、形体が変化したものだとほぼ断定できた。」

 「マジか。」

 片平に見せられたあの二枚の写真が頭に浮かぶ。触手のさきにキノコの傘のようなものが生えたあの生物の形が。


 「ただ。問題がいつくかあってな。」

 橘の神妙な声を聞いて、

 「問題?」

 とこちらも眉をひそめる。

 「ああ、まずはあれがヤコウチュウの一種ということで片付けるのか、それともヤコウチュウとはまた別の生物とするか、その線引きだな。」

 橘はコップを置いて、テーブルのしたからバターピーナッツの袋を取り出して開封し、テーブルの真ん中に置く。

 「もっというとだ。あれはそもそもプランクトンと分類していいのか、っていう問題がある。」

 「どういうことだ?」

 私は理由を聞いた。

 「あの生物が採集されたのは船べり、つまり海中じゃない。海に生息している個体はまだ採集できていないんだ。サンプルを持ち帰って、水に浸して、水中でも問題なく生きていけることは確認できてるんだが。」

 だんだんと、橘の言うことが呑み込めてきた。片平から聞いていたのは、再度大洗に調査に行き、同じ船の船べりからサンプルを採ったところ、同様の生物が見つかったということだ。それを聞いて私は、大洗周辺の海にその生物が生息していることが確定できたものだと思っていたし、橘もそう思っていたはずだ。

 しかし実際は海中に生息している個体をまだ発見できておらず、本当にプランクトンなのかということも確証が得られていないのだろう。

 「で、お前の先輩が予想していたとおり、あれは触手のさきの傘をパラシュートみたいに使って、空中に浮遊できるということが分かった。ということは、陸上のどこかにメインの生息地があって、そこからたまたま船まで浮遊してきただけって可能性もある。」

 私は山から町まで流れてくる花粉をイメージして話す。

 「なるほどな。けど、その船以外の船や陸地からはサンプルはとれなかったのか? もし陸上のどこかに生息していたなら、もっと広くに分散していないとおかしいだろ?」

 「そこなんだよ。」

 橘はチューハイを一口飲んでから話す。

 「お前の先輩、片平さんがあの生物を採れたのは、今のところ一隻の船からだけなんだ。周辺の海や、陸地、他の船のサンプルからはあの生物は発見されなかった。まああの人は近くの海に大量にいるはずだっつって、誰かが見つけないか心配してたけどな。」

 私はある港の一隻の船、そこだけに特定の微生物が付着しているということの原因について思いを巡らせる。


 橘は考えている私を見ながら、こういった。

 「奇妙だろ。俺もこんな事例は初めてだ。」

 「たしかにな。姿かたちや性質は判明しても、それが主に生息している環境が分からないなんて。一目見てヤコウチュウにそっくりだったから、勝手にプランクトンだろうと思っていたけど。もしかしたら事実は全然違ったりしてな。」

 私は続けて気になっていたことを橘に質問する。

 「片平さんとは連携してやってるんだろ? 再調査とか再検証で橘と一緒にいるのかと思ってたけど。」

 橘は顔をしかめる。

 「いや、会ってないよ。火曜に初めて会った時にサンプルを受け取ったきり、その後連絡も来ていない。」

 「え?」

 こちらの想定と、事態が少し異なるなるようで、一瞬思考が止まる。

片平とは所内では仲が良いが、お互い頻繁に連絡を取り合うほうではないので、橘を紹介した後この研究の進展については特に聞いていなかった。

 ただ、たしかに片平は今週の水曜ごろから体調不良か何かで仕事を休んでいると、他の研究員から聞いたのを思い出した。


 「片平さんに会った時はどうだった? なんか変なところはあったか?」

 私が聞くと橘は、

 「いや、普通に気さくないい人だったよ。駅前で落ち合って十分、十五分くらい話しただけだけど、変な様子はなかった。むしろ、今日お前から片平さんについていろいろ聞くことになるだろうと思っていたのに。何も聞かされてないのか?」

 と逆に聞き返してくる。 

 「実は橘さん、水曜日から休んでるんだ。他の所員から体調不良らしいとは聞いてる。けど、本人からは特に連絡もなくて。」

 私がそういうと、橘は不意にテレビの電源を入れる。再放送されているクイズ番組が私達の会話のBGMになる。


 「こっちとしては面白そうな話を聞かされて、サンプルまでもらったけど、そこで話が止まってるんだよ。メールしても返信も何もないし。だから、さっき言ったのも、片平さんの話と照らし合わせながら、その生物のサンプルを観察していくと、新発見の生物であることは確定的だ。しかし、それ以上詳細な証拠やロジックは手に入らずじまいってことだ。」

 橘がため息まじりに話す。

 「しかも、俺も別にそんなに暇じゃないからな。他の研究や論文作成、講義の助手とかいろいろ仕事がある。行き先不透明なめんどくさい研究をいきなり押し付けられたみたいな感じだよ。まあ興味は大いにあるが。」

 片平は今どこで何をしているのか、病床に伏せている姿と、研究に没頭している姿が交互に脳裏に現れる。


 橘との共同研究の話を持ち掛けたときは、最初こそ渋っていたが、最終的には機嫌よく引き受けてくれた。途中で研究を投げ出すことも考えづらい。橘に全てを押し付ける、もしくは裏切って自分だけ調査を進めるということもないだろう。

 片平の身に何かあったのかもしれない。

 「すまないな。俺がお前を巻き込む形になって。」

 私はコップを顔の前に掲げたまま謝罪する。

 「いやいや、お前が謝るなよ。俺からすれば貴重なサンプルが手に入ったんだし、むしりサンキューって感じだよ。」

 橘はピーナッツを口に運びながら笑う。

 「とにかく、俺からも片平さんに連絡してみる。何かあったかもしれないからな。」

 「頼むわ。大学同期の親友が困ってますって、言っといてくれ。」

 私が「ああ」と頷くと、

 「で、だ。先週の話を聞かせてくれよ。」

 と橘がトーンを明るくする。


 横須賀の砂浜に出現した、巨大生物について話題を変えようとしているのだと思う。その生物が現れた日、偶然居合わせたこともメールですでに橘に伝えてある。

 「分かった。けどそんなに期待するなって。実際に触ったわけでも、間近で見たわけでもないぞ。」


 それから、先週の土日に亜希子と横須賀の海に行ったこと。日曜日、ホテルのチェックアウトまで部屋の片づけと荷物の整理をしていた時、海の中から巨大生物が現れたのが、ベランダから見えたこと。砂浜にまでそれが上がってきて、海水浴客がパニックになったこと。私たちは混雑をさけるため、すこし間をおいてホテルを出て、無事に帰れたことを手短に説明した。


 「須藤お前、運良すぎだろ。」

 橘は酒が回って、少し声が大きくなっている。

 「連日あの生物についての報道がされている。世間もしばらくはその話題で持ち切りだろう。一週間前、テレビで突然中継映像が流れて、でっかい怪獣みたいな生き物が映されたからな。ネット上にも、たまたま居合わせたやつが撮った動画もいくつか上がっている。一番再生されてる動画はたしか、四千万回再生だ。たった一週間足らずで。」

 興奮して橘が話す。

 先週の日曜日、あの生物は海を出て前進しようとしていたが、砂浜を少し進んでから停止した。そして、現在まで停止したままだ。

 時折動く触覚が目撃、撮影されており、まだ死んだわけではないらしい。


 橘はパソコンを取り出し、その画面をテレビに映し出した。動画サイトを開き、巨大生物の動画を再生する。

 八十インチはありそうな画面にあの生物が現れる。

 「やっぱりでかいな。」

 私が呟く

 「ああ。これはその日砂浜にいた大学生が撮影した映像で、ネット上にあるものでは一番きれいに、しかも近くで撮れている。」

 動画画面外の右下に表示されている再生回数は、橘は四千万と言っていたが、すでに五千万に届きそうだ。

 「中継映像が流れたときはビビったよ。映画のワンシーンかと思った。こんなやつが海に潜んでたなんてな。お前がうらやましいよ。こんなの生で見られることなんてそうそうないぞ。」

 「俺も驚いたよ。外をみたらあんなのがいるんだから。亜希子も怯えてたし。」


 私は橘の意見を聞いてみることにした。

 「なあ、橘はどう思う? あれについて。いくらなんでもでかすぎないか? 見た目はグソクムシに似てるけど、あのサイズはあり得るのかよ。」

 橘は映像を見ながら話す。

 「あり得るも何も実際に存在してるじゃないか。」

 私は笑って、少し言い方を変える。

 「そうじゃなくて、海の生物の専門家として、こんな大きさの甲殻類が生まれ得るのか、理論的に説明できるかってことだよ。」

 「できない。」

 橘はきっぱりといった。

 「けど、実際に俺らの目の前に姿を現しちまった。だから、これまでの常識を取っ払って考えるしかない。」

 私はコップを傾けながら続きを聞く。

 「さっきも言ったが、連日あの生物について報道されている。未だ生存しているあれがどんな状況か、近隣住民はどう思っているかとかに始まり、海外の研究機関が来日したことや、生物の専門家たちの討論なんかもしきりに取り上げられている。そんな中海水浴場を閉鎖せざるを得ない地元は、巨大生物を模したぬいぐるみと人形を作って売っているらしい。」

 橘は後ろに体を傾け、くつろいだ姿勢になった。

 「世間はもうあの生物の話題で持ち切りだ。日本だけでなく海外のSNSでもすっかり有名になって、わざわざあれを見にくる外国人もいるくらいだ。この動画のタイトルも見てみろよ。」

 “横須賀に怪獣出現”

 とある。


 「世間ではもう、生物っていうよりは、現存の生物を超越した怪獣が突然現れたって認識がされてるってことか。」

 私がいうと橘は頷いて、

 「そういうことだ。これまで妄想や幻想の範疇で、怪物とか怪獣とかって言われてたやつが、少なくともそれに近いやつが現れたんだ。これまでの生き物についての常識がひっくり返るかもしれないぞ。」

 と話す。


 それを聞いて一瞬、記憶がフラッシュバックする。

 あの海の底からの手招きを思い出し、背筋に冷たいものが走るが、テレビに表示されている関連動画のサムネイルに集中して払拭しようとする。

 「俺も動画は見漁った。今映っている動画はどれも見たことがある。だが、問題は今も動画が次々と投稿され、増え続けていることだと思う。」

 画面をマウスでスクロールしている橘に言うと、

 「そうだな。一応あの生物は二十四時間体制で見張られ、もちろん砂浜は立ち入り禁止だが、若者の肝試し的なノリで、動画投稿者の格好のネタになってるらしい。まあ、自然なことだ。あれだけインパクトがある見た目だから。政治とか芸能のスキャンダルの話題への関心を全部かっさらっていったな。」


 あの生物が、人間の興味関心を栄養にして、ネット上でもどんどん膨張していくような、そんなイメージが起こる。

なんとなく嫌な予感がする。


 「なあ橘。あの巨大生物は、例のプランクトンと何か関係があると思うか?」

 橘に質問する。

 「分からん。そもそもプランクトンかどうかの確証もないんだ。同じ時期に出現したのかどうかも分からない。ずっと前から生息していて、たまたま見つかってなかっただけかもしれないからな。特に巨大生物の方は、あれだけの大きさになるのはかなりの年月がかかりそうだが。」

 橘はソファの上であぐらを組んでいる。

 「たしかにそのとおりだな。けど俺は関係があると思う。」

 私がそういうと橘も食いつく。

 「どうしてだ?」

 「ただの勘だ。」

 「勘かよ。」

 とどこかであったようなやり取りで二人して笑う。


 「それにしてもこういう新しい発見だとか、怪獣がでてきたりだとか、須藤の身の回りでばかり起こるよな。研究者とか教授になったほうがいいんじゃないか。」

 橘がテレビを見ながらいう。

 「一応研究所勤めだから、気づかないうちにその運みたいなものの恩恵にあずかってたのかもな。」

 私がそういうと、

 「いや、なんというか。もっと自由に研究できる仕事だよ。研究所っていっても自分で研究テーマを決められるわけじゃないだろ? 研究者にこそ運が必要だ。」

 橘はなおも勧めてくる。

 「分かったよ。教授に推薦しといてくれ。」

 私はその気ないように答える。

 「任せとけ。」

 橘も冗談っぽく言い、笑みを浮かべる。


 テレビ画面では、柵の外側から巨大生物を撮影した動画が流れている。アフレコで若い男の声が入っている。

 周辺には他に何十人も、あの怪獣を一目見ようと、もしくはカメラにおさめようとしている野次馬が見える。

 警官も何人か配備されており、過剰に近づく人に注意をしているようだ。この動画投稿者はその制止に構わず、柵に近づいてカメラを回している。そのためか、低評価の数も多い。

 砂浜にうずくまる巨大なそれは、小さな山のように見えた。




   二


 橘の部屋を出たのは午後三時半だった。


 亜希子とは渋谷で午後六時に待ち合わせており、時間まで新宿で買い物をすることにした。

 亜希子から電話があったのは、橘のアパートから出てすぐ、住宅街を抜けたところだった。

 スマートフォンの振動を感じ、耳に当て「もしもし」という。

 「もしもし。淳一君、今どこいる?」

 電話からは少し焦っているような、興奮しているような感じがある。

 「今は中野だ。新宿に向かって歩いてる。」

 と私が答える。

 「テレビ。テレビ見てほしいんだけど。」

 テレビか。ちょうど橘の家にあったんだが、と言おうとしたが、周囲を見渡すと家電量販店が見えたので、「ちょっと待ってろ。」と言い、店に入る。

 「家電量販店に入った。テレビコーナーは…。奥にありそうだ。何かあったのか?」

 店の奥に進みながら話す。

 「うん。今テレビで中継映像が流れてるんだけど。」


 ここまで聞いて、だいたい何のことか想像はつく。

 「あれがね。また動き始めたの。」

 やはり、あの巨大生物のことを言っているのだろう。動き始めた? あの大きさだと、陸上では生命維持すら危ういはずだ。だが、動いているらしい。

 テレビの売り場では人だかりができている。注目を浴びているテレビを見ると、ヘリコプターからの中継映像が映し出されており、亜希子の言った通りあの生物が砂浜を抜け出て、アスファルトの上に移動していた。


 「今テレビの前だ。マジで動いてるな。」

 画面の右上には「中継映像」、左上には「横須賀巨大生物動く」とある。もう肢は潰れてしまっているのだろう。芋虫のようにもそもそと体を伸び縮みさせながら、少しずつ前進している。

 スタジオからのナレーションが入っている。


 「八月二十二日、日曜日に横須賀の波風公園の砂浜に現れた巨大生物が、本日午後三時一五分ごろ、突如前進を再開しました。速度は時速一キロ未満で非常にゆっくりですが、横須賀市街地方面へ向かっている模様です。避難指示が出され、近隣住民や旅行客の避難を促しています。」


 ヘリコプターのローターが回転する音とともに、巨大生物とその周辺を画面が移動している。巨大生物は私たちが泊まっていたホテルを横切り、あと数百メートルで住宅地に入ろうとしている。

 「これ見て、淳一君が、心配だった。もし、万が一、近くにいて、巻き込まれていたらって思ったから。」

 亜希子が詰まり詰まり話す。

 「こっちは全然大丈夫だ。安心して。」

 私は亜希子を安心させるようできるだけはっきりと答える。


 「それにしても、どうやって砂浜から道路に移動したんだ。堤防があったはずだ。あれを乗り越えたのか?」

 「うん。無理やり乗り越えたらしいの。」

 画面が生物の後方に移動し、砂浜が映されたので注視すると、堤防の一部が、上から強い圧力を受けたように凹んでいるのが分かる。どうやら、亜希子の言うように、目の前を阻む堤防に構わず無理やり進んだようだ。

 その証拠に、巨大生物の体も大きく破損しているようで、通過したアスファルトには体液が大量に残されている。


 「今どこにいるんだ?」

 亜希子に聞く。

 「家だよ。家でテレビ見てる。」

 「今日はどうする。やめておくか? ご両親に心配かけるかもしれないし。」

 亜希子は少し間をおいて、

 「ううん。行く。今から出るから、渋谷で待ってて。」

 と答えた。

 「分かった。後で会おう。」

 通話をオフにして再びテレビ画面に目を移した。


 巨大生物が移動している道路沿いの住宅を中心に警察が訪問し、避難を促しているようだ。しかし緊急事態のため、限界がある。結局は住民の自主避難に任せることになるだろう。

 死傷者は今のところ出ていないということをナレーションが告げるのを聞いて、中野から電車で渋谷に向かうことにした。

 電車内ではほとんどの乗客がスマートフォンやタブレットで、巨大生物の中継映像を視聴していた。


 動画サイトで検索すると、さっきのテレビと同じ中継映像がリアルタイムで上がっている。

 住宅地まであと数十メートルというところまで迫っており、道路を走って逃げてる住民の姿も映し出された。停めてある車や電柱にぶつかりながら前進しており、死傷者が出るのも時間の問題かもしれない。


 スマートフォン画面上部、橘からのメッセージが表示される。

 「大変なことになってるぞ」

 橘も自宅のあの大型テレビの画面でこの映像を見ているのだろう。

 「後で電話する」と返信し、動画を視聴しながら電車に揺られた。

 生物が通過した場所がアップで映った。

 黒い体液が道路とぶつかった電柱にこびりついており、潰れてもげた脚もいくつか確認できた。

 それでも怪獣の進撃は止まず、何かを求めて少しずつ這いずっているようだった。




   三


 午後四時半少し前に渋谷駅ハチ公口を出た。

 駅前はいつものごとく混雑しているが、人々は一様に立ち止まり、大型ビジョンのほうを見ている。

 四つのビジョンには「緊急」とテロップが打たれた巨大生物の中継映像が映されており、


 「横須賀市内にお住まいの方、ご家族や親せき、ご友人が住まわれている方は、すぐに連絡をおとりの上、避難を促してください。」


 と繰り返しナレーションが流れている。

 巨大生物は住宅地を抜け、市街地に入ろうとしている。

 渋谷では、立ち止まる大勢の人々と不安そうな話声と、より不安を煽るような映像が、夕方の傾いた太陽に照らされて、世界の終末とでもいうような雰囲気を醸成している。


 スマートフォンには亜希子からの

 「四時五十分には着く」

 というメッセージが見える。

 再び顔をあげると、巨大生物はいよいよ市街地に近づいたようで、立ち止まる通行人もさらに増えてきた。この渋谷の光景を撮影している者もいる。

 巨大生物がアップで映される。背中の破損している箇所が増えている。少しずつ弱っているようにも見える。

 目前に迫っている市街地の入り口は少し狭くなっており、建物を壊しながら前進することが映像からでも予想できる。


 「うわ、気持ち悪。」

 「なんかやばそうじゃない?」

 「おい。あの怪獣が動いてるぞ。」

 と周囲の人たちも口々に当惑の声を漏らす。

 ついに巨大生物が、市街地に突入した。道路の両端のビルが壊れていく。

 その瞬間駅前にざわめきが起こり、女性の悲鳴もあがる。

 映像では、壊されていくビルがさらにアップで映される。

 怪獣はなおも進行を続けようとし、電柱をなぎ倒している。

 その時、巨大生物から見て右側にあるビルが、破損したため耐久できず、巨大生物の方にごろごろと音を立てて倒壊した。

 またざわめきが起こる。


 巨大生物は壊れたビルの下敷きになった形だ。煙が上がって姿が少し隠れたが、まだ動いているようだ。

 ガラガラと音を立てて巨大生物がもがいている。大勢の人たちがその光景にくぎ付けになっている。

 しかし、巨大生物の動きはすぐに止まり、ビルのがれきと煙の中に隠れていった。ヘリコプターの音だけが止まずになり続けている。

 しばらくして、


 「えー、つい先ほど横須賀市街地に進行した巨大生物でしたが、たった今、進行を停止した模様です。」


 とナレーションが始まった。死者は出ておらず、避難の際に転倒した軽傷者が一人いるだけだと告げた。

 引き続き中継映像を流すようだが、ビジョンから目を離して歩きだす人が増えてきた。

亜希子に「ハチ公口にいる」と返信した後、橘に電話をかけた。

 「もしもし。俺だ。今渋谷にいる。」

 「おう。見たか。あれの映像。」

 橘は落ち着いた声だ。

 「ああ、大型ビジョンでやってた。」

 「すごいことになったな。昔やっていた怪獣映画を思い出したよ。」

 周囲に人が多いため、比較的人がいない位置に移動しながら、

 「あれ、これからどうなるかな。それなりの被害を出したんだから、駆除されるだろうか。」

 と聞く。

 「まだ生きていればすぐに捕獲と駆除の対象になるだろう。死んでれば処分だな。」

 電話では落ち着いていたが、橘の声色から少しの興奮と、その裏の不安を感じ取れた。この前代未聞の怪獣事件は、怪我人や経済的損失を出しただけには留まらず、もっと大きな衝撃を世界に与えることになる。巨大不明生物が出現し、街中に侵攻したという事実がもたらす影響への不安を、私も橘も感じている。


 通話を切った後、ビジョンを見ると変わらず巨大生物は沈黙している。

 不意に右手の袖を引っ張られたので、振り返ると亜希子がいた。キャップを被り、いつもより薄いメイクで、不安を押し殺したような笑みをつくっていた。




   四


 結局その日は渋谷駅からすぐ近くのファミレスで夕食を食べながらスマートフォンで中継映像をみた。

午後七時を回ると、太陽も沈む準備を初め、中継映像でも光が橙色に変化し、闇が目立つようになってきた。

 巨大生物もその橙色の光をがれきの隙間から浴びている。

 通過した道路の体液や折れた脚をカラスの群れがついばんでいる。


 午後七時半になると、ヘリコプターがライトを照射し、巨大生物が埋もれるがれきを浮かび上がらせた。触覚も動く気配はない。

 「とんでもないことになったね。」

 亜希子がスマートフォンでSNSを見ながら言う。おそらくこの巨大生物に関連した投稿を探しているのだろう。

 「ああ。戦争でも起こったような感じだ。」

 私もスマートフォンで動画投稿サイトをチェックしながら答える。


 今回の騒動について、巨大生物の侵攻を撮影した動画はさすがに少なく、検索した限り二件しかなかった。


 一つは巨大生物が動き始めるまさにその瞬間をとらえたものだ。

砂浜の柵の手前で、三人で談笑しながらカメラを回している。うち一人の方へカメラを向けてふざけあっていたその時、ぐぐぐ…、という低い音がした。

カメラを巨大生物のほうへ向けると、体を震わせながら前進し始めた姿が映った。それを見た撮影者たちや他の野次馬たちが、一目散に逃げる。百メートルほど離れたところで、再度カメラを向けると、巨大生物が堤防に体をぶつけていた。

そこで映像は終わっている。


もう一つは十秒程度の動画で、住宅地の道路を移動していく巨大生物の背中部分を、少し離れた建物の屋上から撮影したものだ。

一つ目の動画より移動速度が遅くなっており、堤防を越える際、体を著しく損傷したことが推測できる。


撮影した人はまだいるはずだ。これから投稿される動画もあるだろう。


椅子の上で膝を抱えていた亜希子が立ち上がり、ベッドに腰を下ろしている私の左側に並んで座る。

亜希子にもこれらの動画を見せると、少し疲れたような顔で小さく感嘆の声をあげる。

見終わると、

「生きててよかった。」

と言って、苦々しそうな、それでいてほっとしたような顔で私を見ていた。

先週から驚きと恐怖の連続で、彼女の精神は想像以上に疲弊しているのかもしれないと思った。


九時には中継映像が終わり、地上波映画が始まった。

結局その日はそのまま帰ることにした。亜希子は初め、帰るのを渋っていたが、帰ったらすぐに電話することを約束すると、頷いてくれた。母親のことも心配だったのだろう。

帰りの電車では、この騒動はもう終わり、日常に戻った、一瞬そんな気がした。

しかし実際は違う。

この事件以前と以降では、世界が全く変わってしまうかもしれない、それくらい大きな事件であることは、私と亜希子に限らず、また日本人に限らず、世界中の人々が勘づいている。人間社会に大きな危害をもたらす可能性のある、巨大な生物が海に生息している可能性が示唆されたのだから。

これから余波的に起きる混乱に、自分も備えなければいけないだろう。


その日はあまり眠れず、夜が長く感じた。


そして、巨大生物の生命活動が停止したことを、翌朝のニュースが告げた。




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