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群青のカタストロフィ  作者: 相川 健之亮
3/8

出現

 一


橘と再会した週の土曜日、八月二十一日に、横須賀の浜辺にある「波風公園」に行くことになった。

八月のなかばで、混み合っていることが懸念されたが、運良く浜のすぐ近くに立つ、リゾートホテルを予約できた。


当日は予想どおりの混雑で、特に最寄の駅周辺ではぞろぞろと海の方へ向かう団体が多く、十二時にチェックインの予定だったが、三十分ほど遅れての到着となった。

部屋に入ったときにはすでにぐったりしている私をよそに、亜希子はいつもに増してせわしなく、四階の高さからの海を眺めている。

「ねえ見てよ! すごい人! 海もきれいだし、快晴でよかったわね。」

亜希子がベランダから身を乗り出すようにしながら声をあげる。

私はベッドに腰をおろしてくつろぎながら、

「いい部屋とれただろ。多分キャンセルが出たタイミングでちょうどサイトを開いたんだろうな。俺のラッキーに感謝してくれよ。」

とベランダのほうへ向けて言う。

亜希子は部屋の中に入り、

「はいはい、すごいすごい。」

と言いながらスーツケースを開けている。水着を取り出しているようなので、着替えるつもりなのだと分かる。

「少し休んでからにしようぜ。昼も食べてないんだし。」

ベッドに寝そべりながら言うと、亜希子は

「起きて早く着替えなよ。今が一番いい時間帯なんだから。」

と言いながら私を起こそうとする。

「分かったよ。ま、俺はすでにサーフパンツだから着替える必要ないけどな。」

と水着を抱えて洗面所に向かう亜希子に言う。

着替えの済むのを待っている間、ベランダから海を眺めていると、今週あった出来事が思い出された。



橘が希望していた、片平の発見した生物のサンプルの共有。

結果から言うと、片平と橘の共同研究という形でうまく実現しそうである。

今週の月曜日にこの話を持ち掛けた際、片平は最初は渋っていた。おそらく、独り占めできると思っていたサンプルを、どんな男か分からない研究者と共有することに抵抗があったのだろう。

しかし、この提案のメリット、つまり研究所の所持する研究器具・機械よりも充実した機材を活用できる点、共同で進めることで大幅に時間短縮できる点、この二つを強調し、共同研究をするのは大学に所属した専門家であり、私の同期で気心を知れた仲であること、私が間に立こともあり、片平が第一発見者でこの研究の主導者であることは揺るがない、ということを話すと納得してくれたようで最後には快諾した。

橘が少し心配していた、例の生物のサンプルは、片平が休日中に大洗へ行き、同じ船から追加のサンプルを大量に手に入れることができたらしい。要は、この生物は少なくとも大洗の海の浅瀬にある生態系にすでに根付きつつあるかもしれない、という推測ができる十分な証拠が追加されたのだ。

片平が興奮気味に語っていた。

「この研究は必ず早急に形にする。おそらくだが、大量の個体が大洗付近の海に存在している。他の研究者がこの生物を見つけ、新種だと特定するのは時間の問題だ。」

片平に橘を紹介する機会を作ろうとしたが、三人の都合がつかなかったことと、片平が一刻も早く共同研究をしたいと焦っていたこととで、直接引き合わせることはできなかった。

片平にメールで橘とやり取りしてもらうことになり、翌日の火曜日にはサンプルを共有できたようだった。

その後の進展は分からない。橘からもまだ連絡はなく、研究室で顕微鏡をのぞくのに没頭している彼の姿を想像した。



「ねえ、準備できたから行こうよ。」

部屋のほうから亜希子の声が聞こえた。

振り返ると、水着に着替えた亜希子の姿が見える。

水色のビキニで、フリルがついている。恥じらいをごまかすように横を向き、オーバーサイズの白いティーシャツを上から着ようとしている。

私はベランダから部屋に入ると、

「なんだ、まだ全然着れるな、水着。」

と、身体を隠すようにティーシャツを着終わった亜希子に言った。

学生時代にも亜希子と海に行ったことがある。たしか大学四回生の夏だった。その時以来の水着姿だ。

亜希子は鞄をデスクの上に置き、鏡を見ながら長い髪を結び始めた。

「髪型どうしよっかな。ポニーテールでいいかな。」

と後ろ髪をまとめ、首筋を露わにしている。

私はそばに寄ると、亜希子のうなじにキスした。

亜希子はくすぐったそうに少しだけ身をよじる。

鏡の中には自分の髪型を確かめている亜希子と、亜希子を後ろから抱く私の姿があった。




   二


太陽の光で熱を帯びている砂浜は、大勢の海水浴客でにぎわっている。

シートの購入とパラソルのレンタルのために売店に寄った。

今日は特に暑い日で、涼しさを求めて売店や海の家に避難している人たちが多い。シートはすぐ買えたが、パラソルはすでに全て出てしまっており、十分ほど待ってやっと手に入れることができた。


波打ち際に近い浜は人口密度が高く、場所の確保が難しいと判断し、波から少し遠い位置でパラソルを立て、シートを敷く。

近くの食堂も混んでいるのが見えたので、私が設置している間に、亜希子が食べ物と飲み物を買ってきた。

私はコーラと焼きそばを受け取ると

「あれ、酒は飲まないんだな。」

とおどけたように言う。

亜希子は太陽の明るさに目を細めながら、

「こんな時間から飲んだら、夜のお酒がまずくなるでしょ。」

とわざとつっけんどんな感じを出しながら返す。


二人で一時間ほどその場所でゆったりした後、亜希子が海に入ろうと言い出した。ここの海水はきれいではない、むしろ汚いので、亜希子が泳ぐのに抵抗を感じるかもしれないと思っていた。嬉しそうにしている亜希子を見て安堵した。

パラソルを返して、荷物をロッカーに入れてから、二人で海に入った。浮き輪も何もなかったが、他の海水浴客たちの喧騒に酔うように、二人で笑いながら体を海の中に倒して進んでいった。

波の飛沫で塩の味を感じる。

亜希子は顔をつけないようにバタ足で泳ぎながら、

「競争する? どっちが遠くまでいけるか。」

といつにない笑顔ではしゃいでいる。いつもと違う髪、声で魅力的に見える。

波が来るたびに高まる雑音の中、周囲に気づかれないように海面の下で手をつないだ。

水の中で動き辛そうな、まぶしそうに顔をしかめている亜希子が愛おしく、多分これからもずっと一緒にいるんだろうなと思った。


一時間ほどで海から切り上げた。

ホテルに戻って抱き合った。

キスをすると少しだけ塩の味を感じた。


夜はホテル内のレストランでのディナーだった。特に珍しくもない洋食のコースだったが、亜希子は幸福そうに目を輝かせて食べていた。

夜は酒とつまみを買って、部屋のベランダで夜の海を見ながら身を寄せ合った。

いつも以上に酒を飲んで、亜希子は酔っぱらっているようだ。

目の前には黒々とした海が広がり、星空との境界線がうっすら見える。緩やかな波の音が鳴り続けている。

昼間とは打って変わって涼しい砂浜からくる空気を感じながら、その日は終わった。



翌日、九時に目を覚ました時、亜希子はぐっすりと寝息を立てていた。

おそくまで酒を飲んでいたので、胃がむかむかとしていて朝食を食べる気にはなれない。

シャワーを浴びようと思ったが、ふとベランダに出て砂浜の方を見てみると、海の解放感を求める人たちが集まり始めている。

当初は午前中にもう一度海に泳ぎに行く予定だったが、亜希子はしばらく目を覚まさないだろう。無理やり起こして不機嫌になられても困る。

一人で泳ぐことに決めた。チェックアウトは午後一時なので、午前十一時くらいに戻って来られれば昼食をとる時間も十分にあるだろう。


その日の海は午前中ということもあり、前日ほどの暑さはなく、砂浜もまだ熱を孕んでいなかった。

雲も見え、ときどき日が陰っている。

しかし、瞬く間に人の数は増えていった。日曜日ということもあり、翌日の月曜日から始まる一週間を見据えた海水浴客の時間選択の傾向なのだろうと思った。

海の中も冷たく感じたが、二日酔い気味の体にはちょうどよく、すぐ快適になった。

久しぶりに足のつかないくらい深いところまで泳いでみた。

この時間はサーファーも多く、奥のほうにもヨットがいくつも見える。太陽が昇りきる前が、海を趣味にしている人々の時間なのだろうと思う。

海はやはり濁っていて、水中ゴーグルからも見通しが悪い。

一度海から上がって水分補給をして、それから少ししてまた泳いだ。


十時半には昨日ほどではなくとも、かなりの客入りとなった。

子ども連れも多かった昨日と比較して、今日は二十歳前後の若者が多い印象だ。夏休み中の大学生や有給を使って連休を作った若い社会人が、今日も気兼ねなく羽を伸ばしているのだろう。


ホテルに戻ったのは十一時前で、亜希子はまだ寝ていた。

シャワーを浴び終わると、亜希子はベッドの上に体を起こしていた。

私は体をタオルで拭きながら、

「大丈夫か? 二日酔いだろ。」

と亜希子に聞く。

亜希子はかすれた声で「うーん。」と言って、布団に顔を押し付けている。

水を飲ませると、少し楽になったようだった。

「もう十一時過ぎなの? 昨日はさすがに飲みすぎたなあ。」

と幾分ましになった声で亜希子が言う、

「淳一君もしかして一人で泳ぎに行った? あーごめんねー。全然起きれなかった。」

肩をすくめて謝る彼女の横に腰かけ、

「さすがに無理やりは起こせないからな。絶対二日酔いだろうと思ったし。とりあえず、十二時には荷物まとめて、昼を食べてからチェックアウトしよう。」

亜希子はまた「うーん。」と言いながらベッドから抜け出て支度を始めた。シャワーを浴びた後はさっぱりしたようで、てきぱきと片付けていた。

化粧をしている亜希子が、

「あっという間に終わっちゃったねえ。嫌だなあ、帰るの。」

と残念そうにつぶやく。

「じゃあうち来るか? 今日。」

私が問うと、亜希子は少し嬉しそうに笑いながら、

「そうしようかな。けど仕事もあるしなあ。」

と迷っているようだった。


私がベッドに横になってまどろんでいると、不意に亜希子が立ち上がり、ベランダのほうを見ながら言った。

「なんか変じゃない?」

「何が。」

私が横になったまま聞くと、

「外の音、これ悲鳴じゃない?」

と怪訝な顔で答える。

ベランダの外へ耳を集中すると、たしかに先ほどとは違う喧騒が聞こえる。女性の甲高い悲鳴のような声。男性のものも聞こえる。


最初はイベントか何かだろうと思った。が、凄惨な響きを持ったそれらの声を聞いていると、だんだん悲惨な出来事によって誘発された声であることが想像できた。

私は体を起こして言った。

「多分事故か何かだろう。」

亜希子はベランダに出て外を窺おうとしている。サッシの枠に立って周囲を見渡しているようだったが、途中なにかをみつけ、一点を凝視しているようだった。

外からの悲鳴はなおも続いている。


亜希子は後ずさりするようサッシの枠から足を外すと、急にかけてきて私の腕をつかんだ。顔が真っ青だ。

「ねえ。あれ。」

とベランダのほうを指さしている。

急いで外を見てくれということだろう。

おおかた、大きな交通事故でも起こったのだろうくらいに考えていた。

ベランダに二人で出る。


ホテル周辺の道路を、悲鳴をあげながら走っている何人かの姿が見える。いずれも海のほうから走ってきたようだ。しかも、何かから逃げ惑うような、何かに追われているような、そんな混乱のさなかのように見える。

たしかに何かがおかしい。

亜希子を見ると、震えている。どこかを指さしている。砂浜のほうを示しているようだ。

見ると砂浜でも混乱が起きていた。悲鳴を上げて走り回る人々がいる。

その混乱の原因もすぐに見つかった。


一匹の巨大な黒い生物が海から顔を出し、身をひそめて獲物を見定めるかのように砂浜を窺っていた。




  三


「なんだ、あれ。」


砂浜に打ち上げられたクジラか何かと思おうとしたが、異様だ。

クジラや他の大型魚類のような皮膚ではない。どちらかというと甲殻類のように固い質感を持っているように見える。

しかも、細長い二本の触覚が頭から生えている。その触覚の動きから、打ち上げられた死体ではなく、まだ生きていると分かる。

「分からない。あんなの見たことない。」

亜希子はなおも震えながら私の腕にしがみついている。


私の頭の中には一つ、生物の名称が浮かんでいた。

「ダイオウグソクムシみたいな形じゃないか? あれ。」

亜希子に聞くと返事はない。突然現れた正体不明の生物を凝視している。

とにかくあの甲殻類のように固そうな体の表面が異様だ。エビやガニのように見えなくもないが、ダンゴムシのような丸みを帯びた形に、二本の触覚。グソクムシの特徴に近いものがある。


しかし、一つかけ離れている点がある。サイズだ。

クジラかと見まがうほど大きい。いや、もっと大きく見える。

世界最大の哺乳類はシロナガスクジラで、最大で体長三十メートルほどまで成長する。この生物の体長は、その哺乳類最大のクジラに匹敵するくらいではないか。

超巨大なグソクムシだとする。そして今海面から出ている部分が、頭と背中部分で、腹と足が海面下にあるとすると、高さは七、八メートルはありそうで、とにかく巨大だ。体積はシロナガスクジラを大きく凌ぐだろう。

海洋生物についてそれなりに学んできた二人ともが、その異様さに驚愕し、恐怖しているという事実だけで、その生物がいかに常識から外れたものか分かる。


亜希子はまだ震えながら、しかし少しだけ落ちついた声で、

「ありえないよね? サメとかクジラじゃなさそうだし、どっちかとういと虫みたいな見た目だけど、あんなの存在するの?」

と、私と同じような感想を口にする。

砂浜では混乱が起きているとは言え、逃げ出す人だけではなく、この異様な生物を撮影しようとスマートフォンやカメラを持って近づいていく人たちの姿も見える。スタッフが拡声器で「近づかないでください。」と低い声で制している。

巨大生物は触覚をくねらせているが、動く気配はない。


しばらくすると、周囲の人たちも安全だと判断したのか、砂浜のもといた位置に戻り始めていた。悲鳴はすっかり止んだ。

海に入って近づこうとしている者さえいる。

その光景を見てひとまず安心した私は、

「どうやら人間に攻撃したり、害を与えたりってことはなさそうだな。もう動けないのかもしれない。せっかくだし、俺たちも見に行ってみるか?」

と聞くと、亜希子は無言で力なく首を横に振って、

「嫌だ。なんか、怖い。」

と返す。


亜希子とは、学生時代も社会人になってからも水族館に何度か行ったことがある。海の生物に限らず、爬虫類や両生類、昆虫であっても興味を持って観察・観賞できる亜希子にとっても今回は異常事態のようで、拒否反応を示している。

 私は亜希子を連れて部屋の中へ戻り、帰り支度の続きを始めた。

「亜希子。嫌なもん見たな。けど、もう忘れよう。せっかくの海だったんだし。」

と私が言うと、亜希子も少し気を取り直したように、

「そうだね。あれを見て、驚いて、気持ち悪くもなってたけど、あんな生物もいるよね。海は広いんだし。」

と自分に言い聞かせるように言った。

 私はそれを聞いて、

「もしかしたら、今まで未発見だった生物かもしれない。それか、ダイオウグソクムシがさらに馬鹿でかくなって、あんな姿になったのかもな。」

と冗談っぽく言ったが、それと同時に、片平が発見したあのプランクトンのことを思い出していた。

「今日のことは、絶対にニュースになると思う。貴重なものを見られたって考えることにする。」

と鞄に荷物を詰めながら話す亜希子には笑顔が戻りつつあった。


例のプランクトンのことを話そうか迷った。

しかし、亜希子の怯えていた姿を思い出すと、さすがにこの話を展開するのは憚られた。

冷静になればなるほど、あの巨大生物の異様さがどんどん頭の中で膨張していくようだ。

片平の「進化したんだよ。」という言葉が浮かんでくる。

「あんな生物ありえない」と一蹴しようとしても、ついさっき実際にこの目で見た、海の中に佇む巨大な甲殻類の姿がよぎり、思考が続けられなくなる。

「淳一君はどう思う? あれ、たしかにダイオウグソクムシに似てるけど、なんであそこまで巨大化したのか。」

平静を取り戻した亜希子が聞いてくる。

「分からない。けど、そもそもグソクムシが巨大化した姿がダイオウグソクムシだ。どうやってダイオウグソクムシのように巨大化するか、そのメカニズムも明らかになってない。そこからさらに巨大化しても、おかしくないのかもしれない。海にはまだ解明されていないことがたくさんあるから。あるいは、そもそもダイオウグソクムシじゃないかもしれないし。」

と返すと、亜希子は

「やっぱりあの大きさは異常じゃない? しかも、ダイオウグソクムシって大西洋のほうにしか生息してないんだよ。本当に未発見の生物かもね。」

 たしかにダイオウグソクムシの分布はメキシコ湾、大西洋辺りで、海底に生息している。仮に巨大生物がダイオウグソクムシだとしておかしな点が多すぎる。


 帰り支度を終えるころには時計は十二時を回っていた。

 ホテルのレストランで昼食にするということになったので、いったん部屋を出ようとしていた時だった。

 ベランダの外からまた悲鳴が聞こえてきた。今度の悲鳴はより凄みを増しているように感じる。


 急いでベランダに出る。亜希子も私に続く。

 悲鳴の原因はすぐに分かった。


 あの巨大生物が動いたのだ。

 先ほどまでは体の半分が海水に浸かり、全体を視認できなかったが、かなり浅瀬のほうまで上がってきており、無数の肢が確認できる。

 予想どおり、全体のフォルムはグソクムシに似ている。

 しかし、あまりに巨大なためであろう。自重を支えきれず、脚が屈曲してしまい思うように動けないようだ。

 写真を撮ろうと近寄っていた海水浴客たちもあっという間に離散し、逃げ出そうとする人で砂浜の出入り口が混雑している。

 亜希子がまた腕をつかむ。

 「やばくない? すごいパニックになってるよ。」

とあの生物を発見した時よりは落ち着いた口調で言う。

 「ああ、こんなに大勢だと怪我人が出そうだな。」

と私もできるだけ落ち着き払って話す。

 巨大生物は非常にゆっくりだが、前進している。

 砂浜にパラソルやシート等をそのままにして逃げる人が多く、浮き輪やビーチボール等も散乱している。

 ホテル周辺の道路にも、海の方から逃げている人々が流れこんできており、砂浜に密集していた混乱の声が次第に分散している。

 子どもを抱えて走っている大人の姿もちらほら見える。

 手をつないで逃げる男女もいる。


 巨大生物は波打ち際を抜け、乾いた砂に肢を踏み入れようとしている。

 徐々に近づいてくる巨大な虫を見て、悲鳴が大きくなる。


 「淳一君!」

 亜希子が腕を引っ張りながら

 「逃げよう! このままだとあれ、こっちにまで来るんじゃない?」

 と泣きそうな顔で懇願するようにすがってくる。

 私は冷静であろうと努め、

 「落ち着いて。」

 と亜希子の手を握りながら言い聞かせる。

 「今はおそらく周辺の道は混乱している人が多いはずだ。そんな中に混ざって移動しようものなら、事故に巻き込まれる危険だってある。まずは混乱が収まるのを待つんだ。」

 「待つって。ずっとここにいたらそれこそ危険でしょ? あれがここにまで来て、ホテルに突っ込んだりしたら…。」

 亜希子は声を少し荒げている。

 ホテル内からも起こっている人の動きの音が、焦燥感を増幅させるのだろう。


 私は砂浜のほうを指さしながら、

 「いいかい? あの生物はそんなに動けない。大きすぎるということは重過ぎるということに等しい。現に見てみなよ。かなり動きづらそうにしてる。水中を出て、体が今にも潰れそうなはずだ。」

 と諭すように話す。

「それに。この砂浜にはしっかりした堤防がある。平地でさえ前進するのがやっとなのにあれを超えられるわけがない。」

 亜希子はまだ泣きそうな顔であの生物を見つめている。

 私は亜希子を自分のほうへ向けさせ、

「なあ、俺たちは曲がりなりにも生物学を学んだ、言わば専門家だろ? あれは生物だ。こんなときこそ冷静になって。俺が一緒にいるから。俺の言うことを信じて。」

 とゆっくりと、頭の中に居座った混乱を引き離すように言った。

 亜希子はそこまで聞くと、深呼吸をして呼吸を落ち着かせ、こわばっていた顔も緩ませて、

「分かった。淳一君を信じるね。」

 と言った。




   四


 波打ち際から十数メートル前進すると、その生物は再び動きを止めた。

 周辺をヘリコプターが二機、弧を描くように飛行している。おそらくこの話を聞きつけたマスコミのものだろう。

 窓を閉め部屋に戻り、テレビをつけると、そのヘリコプターからの中継映像が流れていた。

 空から全身を映された巨大生物は、やはりグソクムシによく似た形状で、砂浜に乗り上げて動けなくなったように見える。

 触覚が微妙に動いているので、まだ生きているということは分かる。


「十五分だ。」

亜希子に向かって言う。

「十五分たったら駅まで移動しよう。それくらい間隔を空ければ、逃げて行った人たちの第一波、第二派の後の、混雑していない電車に乗れるだろう。タクシーでも拾えれば一番だけど、難しいだろうな。」

亜希子は

「うん。」

 と言ったきり、テレビ画面に集中している。

 ベッドに腰かけると今度は私が深呼吸をする。


 さて、大変なことになった。自分たちの身は大丈夫だろう。しかし、この正体不明の生物の出現は…。

 これまでの生物についての学問を根底から覆すような、それくらいインパクトのある事件ではないか。

 思考がまとまらない。一体あれが何であって、なぜ出現したのか、見当もつかない。

 しかし、思考のスタートに、どうしても片平の発見したあのプランクトンの話が現れる。

 片平はあのプランクトンを大洗で見つけたと言っていた。この巨大な怪物もそれとなにか関係があるのだろうか。

 今、海の中で何かが起こっている。そんな気がする。


 スマートフォンのバイブレーションの音がする。亜希子のものだ。

 亜希子は画面を確認すると、

 「お母さんからだ。土日はここに行くって伝えたから、ニュースを見て心配してるのかも。」

 と言い、スマートフォンを耳に当てた。

 やはり亜希子の両親はかなり心配しているようで、亜希子がまだホテル内にいることを話すと、すぐに帰ってくるように言っているらしい。

 「大丈夫だって。あの怪物ももう動けないようだし。混乱が少し落ち着いたタイミングで出るから。心配しないで。」

 亜希子の通話は五分ほど続いた。


 待機していた十五分間、結局巨大生物はそれ以上前進せず、留まったままだった。


 荷物を持って一階に移動すると、ロビーにもまだ数人の宿泊客がおり、ガラスの大窓から砂浜の様子を眺めている。

 受付も機能しており、スムーズにチェックアウトができた。


 外に出ると、周辺の広場や公園に、現地住民と思しき人たちが集い、物珍しそうにあの生物が佇む砂浜の方を見やっている。

 海の方へ向かうパトカーが数台通り過ぎた。

 駅へ向かう足は、無意識に早歩きになる。スーツケースをよろよろと引いている亜希子を置いて行かないよう、また、あの生物を確認するように、何度も振り返りながら進んでいった。


 駅に近づくにつれ、海の方へ向かう若い集団が多くなった。駅周辺にいた者たちがニュースを見て、あの巨大な生物を一目見ようと移動しているのだろう。要するに野次馬だ。

 おそらく危険はないだろう。物珍しさから、未知の生物を見に行きたいと思うのも正常な心理だろうと思う。

 しかし、気味が悪い。常識からかけ離れたあの生物の姿を見ると、嫌な予感がする。これからとんでもないことが起きるような気がする。

 おそらく亜希子もそんな不安と恐怖を感じたのだろう。

 駅はホテルから歩いて二十分ほどかかる。

 まだ五分ほどしか歩いていないが、このような精神状態で歩き続けるのは、想像している以上に亜希子にとって負担かもしれない。


 目の前にバス停が見えたので、

 「バス停だ。ちょうどいい時間のがあれば乗っていこう。」

 と、亜希子を座らせ時間表を確認する。

 運良く、五分後発の駅方面のバスがあったので、それを待つことにした。

 亜希子は汗をタオルで拭きながら、

 「あの生物、どうなっちゃうんだろうね。」

 と聞いてくる。

 「どうなっちゃうって? どう処分されるかってことか?」

 と私は聞き返すと、

 「うん。保護するにしても、大きすぎるじゃない。運ぶの難しいだろうし。けどずっとあのままにしとくわけにもいかないでしょ? どうなっちゃうんだろうって思って。」

 と亜希子は砂浜の方を横目に言う。

「たしかに大きすぎるけど、格好の研究対象だ。それにさっきのテレビ、見たろ? 多分だけど、あの映像を見て保護するように訴えてくる団体がいくつも出てくるはずだ。怪獣みたいな見た目でも、人間を傷つけたり、何かを著しく破損させたわけでもないからな。」

 私は手で顔を仰ぎながら答えた。


 砂浜の方面からはまだヘリコプターの音が聞こえる。

 こうしている間にも野次馬の集団が目の前を通過していく。

 このような事態でもバスは正常に動いているようで、ほとんど時間通りにバス停に停まった。


 五分ほどバスに揺られて駅に着いた。

 亜希子を家まで送ることにし、横須賀から松戸までの長い道のりをスマートフォンで検索した。

 昼過ぎの電車は混んでおり、途中から座ることができたものの、亜希子は少しこたえたようでぐったりしていた。

 「なんか、明日からまた一週間が始まる気がしないんだけど。」

 亜希子はため息交じりに話す。

 「ああ、家帰ったらゆっくり休めよ。にしてもすごかったな、あの怪獣。急に映画の世界に入ったみたいな。それくらい非現実的に思えるよ。めったにない体験だと思うぜ。」

 と私も眠そうになりながら答えると、彼女は

 「そうだね。」

 と笑って呟き、少しして眠ってしまった。


 亜希子の実家に着いたのは、日が傾き始めたころだった。

 亜希子は玄関への階段を、スーツケースを引きずりながら上がり、玄関を開けた。

 「ただいまー。」

 家の奥からどたどたと音が聞こえ、ふくよかな体型の亜希子の母が現れた。

 「亜希子! よかったよかった! 帰ってこれて。怪我はしてない?」

 「大丈夫だよ。今日はここまで淳一君が送ってくれたんだ。」

 亜希子の一言をうけ、一礼する。

 「淳一さん久しぶりねえ! 怪我はない? 今日は災難だったわねえ。」

 亜希子の両親とはこれまで二度会ったことがあり、これが三度目の挨拶になる。

 「いえ、僕が亜希子さんを連れて行ったばかりにご心配おかけしてしまい、本当に申し訳ございません。」

 玄関先まであがり、私が謝罪をすると、亜希子の母は、

 「そんな謝ることはないよ。淳一さんが一緒でほんとによかった。これからも亜希子のことよろしくね。」

 と、亜希子のスーツケースを引き上げながら笑っている。

 「今日はありがとう。また連絡するから。」

 亜希子がそういうと、私は

 「明日仕事だろうけど無理するなよ。あと今日はもう酒飲むな。」

 といって笑いながら別れた。


 その日のその後は、完全に思考が停止していたが、あの巨大な生物の姿はずっと頭の中に留まっていた。

 家に着くと、暑いはずなのに体が冷えているような、そんな感覚がして、熱いシャワーを浴びた。








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