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群青のカタストロフィ  作者: 相川 健之亮
2/8

前兆

 一


 微かな頭痛と喉の渇きで目を覚ました。


 枕元のスマートフォンを手に取ると、八月十六日月曜日、六時三二分と表示がある。約三〇分後に鳴り出す、うっとうしい目覚ましの音を想像する。夏の盛りを迎えた太陽は活発で、すでに外を光で満たし始めているようだ。


 次第に意識が明瞭になったが、やはり頭痛を感じる。

 あの夢を見るのは決まって夏で、しかも強い喪失感と疲労感を伴う。

 あの日も今頃の時期だったろうか。いやに澄んだ沖縄の海が脳裏によみがえる。

 あの後覚えているのは目を覚ました病室で見た、吊るされている点滴の袋と、心配そうな両親の顔と、一日だけ入院したという事実くらいで、それ以上は記憶をたどっても現れてこない。


 小学生のころは内気で、いじめられていた。泳ぐことと、海の生き物が好きで、よく父にねだってプールや海、水族館に連れて行ってもらっていた。

 私立の中高一貫校に入学が決まり、横浜から東京に通うようになってからは水泳をやめた。ひとりが好きで友達もあまり作らなかった。しかし、海への興味は薄れず、家では水生生物の図鑑や資料を読み漁り、よくひとりで海に行った。

 進路について真剣に考えるようになった高校二年生の三学期に、海洋生物科のある大学の志望を決めた。勉強は不得手ではなかったため、存外苦労せず第一志望の大学に合格できた。

 大学でもサークルや部活動には無縁で、友達も多いほうではなかった。しかし、同じ研究室のメンバーとは仲が良く、閉まりかけた青春の扉に辛うじて滑り込んだように、高校までとは打って変わった生活になった。

 もちろん実験やレポートに追われる日々ではあったが、研究室では海洋生物に興味がある者どうしで気が合い、飲み会でどんちゃん騒ぎをしたり、レポートの締め切りを乗り切るため研究室に泊まり込んだりと、内向していた自分が徐々に外向きに矯正されるのに十分過ぎる経験ができた。

 社会人六年目の二十八歳になる今は、品川にある海洋生物研究所に技術者として勤めている。新卒から入所できたのはラッキーだったかもしれない。

 今も夢に見るトラウマが、自分の人生の中核、「海」での出来事であるのは必然か。もしくは皮肉だろうか。



 ベッドの傍のカーテンを開き、窓を開けると潮を含んだ横浜独特の空気が流れこんでくる。

 スマートフォンには恋人の亜希子からのメッセージが見える。

「今日何時に終わる??」


 たまにこういう日がある。

 幼いころの夢を見て、タイムスリップしたような感覚が混じり、現在自分がいる場所を確認することでだんだんとそれが薄れていく朝を迎える日が、たまにある。


 ベッドを降りて、インスタントコーヒーを淹れるとデスクに座った。

 手帳で今日の予定を確認する。

 十九時くらいかな、と亜希子にメッセージを打つ。

 ふと窓の方を見ると、風で揺れるミラーレースがあの日の白い手と重なった。




 二


 平日はいつも八時十五分に家を出る。

 横浜駅まで徒歩五分の好立地のアパートを出て、品川まで電車で一本。品川から五分ほど歩いた交差点の一角に四階建ての薄汚れた建物がある。その建物が海洋生物研究所だ。


 一階の自動ドアをくぐると、

「おはようございます。」

 と受付け嬢がいつもの挨拶をくれる。

 事務室の入り口の前にあるエレベーターの前

 に、一つ上の先輩社員、片平の後ろ姿が見えた。

「片平さんおはようございます。」

 片平は振り返ると、砕けたようで落ち着いた笑みを浮かべる。

「須藤お前またぎりぎりか。課長もよく何も言わないよな。」

「片平さんこそいつもこの時間じゃないですか。」

「嫌じゃん。朝から誰かとエレベーターに乗り合わせるの。」

 と意地悪そうに笑う。

「それは同感です。」

 この時間にここでその日初めての会話をするのは幾度目か。

 エレベーターが開くと二階と四階を押す。

「そういえば須藤。今日昼一緒にどうだ。おもしろい話を聞かせてやるから。」

「ええ…、昼間から下ネタは勘弁してくださいよ。」

「いや、ちゃんとした仕事の話だよ。」

「ほんとですか?」

 二階に止まると自分だけ降りる。

「それじゃ一時からな。」

 と言い残して閉まったエレベーターはそのまま四階へ向かった。


 九時ぎりぎりにタイムカードを押すとフロアに入り、挨拶をしながら自席に着いた。

 朝礼はなく、代わりに、各個人が自分の担当する仕事・スケジュールを確認し始める空気でもって業務がスタートする。


 この研究所の部署は四つ。

 企画部、調査部、開発部、総務部がある。

 企画部は国や自治体、他社からの依頼を受けて研究・調査を行う部署で、事業や開発の際に懸念される環境への影響を観測するのが主な業務だ。片平が所属している。

 調査部は主に現地の生物や水質、環境についての実験研究を行っており、生物、化学、物理の三つの課に分かれている。

 開発部は現地調査では把握しきれない事柄についての調査を行う。

 総務部は事務と経理の役割も担っている。

 フロアはそれぞれ、一階に総務の事務室、三階に開発部、四階に企画部、地下一階に実験室があり、私の所属する調査部は二階に位置している。

 調査部生物課に配属されたのは入所二年目に入ってからで、一年目は名古屋支部の総務に配属されていた。

 五年目になる仕事はもう慣れたもので、一年目に感じていたストレスや緊張感もすっかり薄れた。

 生物課の仕事は、現地調査を経てその後所内で実験や検査を行うものがほとんどで、基本一つの案件に対してツーマンセルであたる。

 海洋生物とは言っても、調査の対象のほとんどが浮遊生物、いわゆる「プランクトン」だ。

 もっと言うと、調査の目的は基本的に生態系の調査で、プランクトンのような微生物が水域の生態系に密接に関わっている場合が多く、結果的に調査対象として挙がるという感じだ。

 今日は特に外出の予定はなく、先週行った現地調査と実験結果をまとめるだけだ。


「須藤君さあ、先週金曜日の終業後、開発部の片平が探してたよ。」

 向かい合わせに座っている同じ課の先輩、仕事の相方の大島が眠そうな顔で声をかけてきた。

「ああ、さっき会いましたよ。話があるって言われました。」

「え。」

 大島が目をぱちぱちさせながら身を乗り出した。

「なんかした? 昨日はえらく興奮してるようだったよ。片平。」

「いや、僕も覚えはないんですが。おもしろい話があるって。仕事の話だって言ってました。」

「なんだそんな感じか。」

 大島は少し落胆したような声色でうつむく。

「しかし先週の出張分のレポート、今週中に終わりそう?そんなに収穫もなかったしねえ。悪いね、今回も任せちゃって。」

 例によって話題があちこちに移動する。

「今日明日には終わりそうです。大島さんも来週の案件、便と器具の手配お願いしますよ。」

「分かってるって。あーあ、先週は山形で来週は新潟かー。せっかくだから北海道とか沖縄とか、九州でもいいや。とにかく近場じゃない飯がおいしいところに行きたいなー。」

 太った体で椅子にもたれて、脂汗のにじんだ顔をうちわで仰ぎながら大島がこぼす。

 それを聞き流しながらレポート作成の続きを始めた。




 三


 昼は片平とイタリアンに入った。

 席に着いて注文を終えるとすぐに今朝告知されていた話を始めた。

「先週、大洗にあるお得意さまの漁業団体に挨拶に行ってな。いいことがあった。それについて話したいんだ。一応調査部の中で唯一の二十代だろ、お前。一番話が分かるんじゃないかと思ってな。」

 若干早口で、興奮しているのが分かる。

 ただ。片平の嬉しそうな様子にこちらも少し胸が躍る。


「いいこと?何があったんですか?」

「俺が舞い上がっているだけで、もしかすると大したことないかもしれないが、まあ聞いてくれ。」

「先に注文しましょう。片平さん何にしますか。」

 片平は水を飲みながらメニュー上のナポリタンを指さしている。店員を呼び止め、カルボナーラとナポリタンを注文した。


「俺は化学が専門だから生物には詳しくない。けど、うちで働く上で最低限の知識はあるつもりだ。須藤、プランクトンの光合成のジレンマって分かるか?」

 学生時代の講義で取り上げられていたことを思い出す。

 プランクトンは植物プランクトンと動物プランクトンに分類できる。前者は光合成によって無機物から有機物を生成し、後者は他の植物プランクトンや動物プランクトン自体を食べて有機物を作り出す。

 生物の体を大きくするためにはタンパク質が必要である。

 植物プランクトンが光合成で作り出せるのはデンプンで、タンパク質をつくるのに必要な炭素やリンは生成できない。そのような有機物は深海へ行けば手に入るが、深ければ深いほど光は届かなくなり、光合成もできなくなる。

 このジレンマのことを言っているのだろう。


「はい。一応専門ですから。」

「海という広大な環境化でも自身の栄養が充足するとは限らない。光合成を行うプランクトンが、その他の有機物を摂取する難儀しているように。」

 私はお冷を口に含みながらうなずいて続きを聞く。

「そんな植物プランクトンが大量発生する時期、場所が存在する。海は絶えず循環している。しかし、近年の研究で、湧昇という現象が起こった際に植物プランクトンが大量発生していることが分かった。」

 湧昇というのは、比較的早い速度で海の下の水が上の方へ移動することである。

 通常、海は非常にゆっくり時間をかけて下の水が上へ動くが、湧昇はそれよりも非常に早く動く。

「知っていますよ。湧昇で運ばれた有機物が栄養源になり、植物プランクトンが大量繁殖するってやつですよね。一九八〇年代くらいから日本付近の海でもいくつも見つかっています。」

「そのとおり。やっぱ話が分かるやつでよかったわ。」

 片平は満足そうにたばこに火をつけ始めた。

 しかしこちらは全く話が見えてこない。


「ん、まあ話はここからだよ。」

 片平はたばこの煙を吐いて、落ち着いた口調で続ける。


「進化論って信じてるか。」

 急な質問で間が抜けたような感じがした。

「進化論ですか…。信じてはいないですね。」

 片平が目を細める。

「どうしてだ?」


「矛盾点が多いからです。まあよく言われていることですが、例えば仮に猿が人間に進化していたとして、なぜ中間の種が存在していないのかという矛盾ですよね。もし進化論が正しいなら、猿と人間の間の形体がいるはずでしょ?」

 片平の真剣な表情に促されるように続けた。

「あと、遺伝子の複写がうまくいかずに。つまり正常ではない遺伝子の伝達が繰り返されてさらに優れた形体になるっていうのも、なんだか…。突然変異っていう言葉もありますけど、そんな引継ぎ事故みたいなのが進化なら、生物はもっと多様化しててもいいはずなのに、とか思ったりします。」

 片平は笑みを浮かべた。

「そのとおり。」


 たばこの燃えかすを灰皿に落としながら話し始めた。

「ダーウィンが『種の起源』を出してから一五〇年以上経った今、進化論にはたくさんの疑問符がついている。お前が言ってくれたようなことも、ネット上にごまんと書かれている。そもそも、ダーウィンの時代にはまだDNAとか遺伝の仕組みも判明していなくて、進化論発表当時もかなり批判されたらしいしな。それに、俺も進化論は別に信じてなかった。シーラカンスっているだろ。あれ何億年も同じ姿のままなんだと。進化はどうしたって話だよ。」


 やはり話の核が見えてこない。

 多分こちらが話を飲み込みやすいようにかなり回り道をして話しているのだろう。

「どうしたんですか片平さん、急にこんな話。」

 専門外のことを、その専門家に一生懸命伝えようとしているのが、おかしくなった。

「僕の専門が生物ってこと忘れてます?」

 片平も真剣だった姿勢を少し崩して笑っている。

「うるせえな。」

「とにかく、仕事の話なんでしょ? 僕ら生物課になにか関係のある話なんですか?」

「まあな。関係は多いにある。けど正直、話を出し惜しみしてたよ。」

 片平は煙をふーっと吐く。


「先週な。大洗に行ったって言ったろ。挨拶がてら、現地調査したんだよ。水質と微生物の簡単な調査だけどな。前日は酒を飲んで酔いつぶれてたから、調査当日は全然やる気が起きなくてな。けどそういうときの仕事って、なんとか好奇心を引き出そうとしてか、普段とは違うことをしたくなるもんで、海周辺のコンクリートとか、乗っていた船の船べりとかのサンプルをとって持って帰ったんだよ。」

「課長にばれたら怒られますよ。」

「うちの課長ゆるいから大丈夫だよ。でな。先週の金曜に、その時採取したサンプルを顕微鏡にかけたわけよ。」

 片平は顔を近づけ、少し小声になってこう言った。


「その時な。発見したんだよ。進化した、新種のプランクトン。」




 四


「え。」

 今聞いた言葉を脳裏で反復する。

「新種ですか?」

 片平は真顔だ。

「ああ。新しい、というよりはおそらく進化した、これまで発見されていないプランクトンだ。」

 当初のテンションとこれまでの話の流れからして、冗談を言っているのではないことはなんとなく分かる。

 しかし判然としない。

 そもそも専門外の事柄で、どうして簡単に新しい発見だと断定できたのか。


「プランクトンに限らず、海には微生物なんて膨大な種類がいます。未発見のものがいても全然おかしくないですが、判別するのは難しいですよ。」

 こちらの疑惑と本音を察してか、片平はたばこを吸いながら少し考えている。

「それとも何か、明らかに目を惹くような特徴があったんですか?」

「まあそういうことだな。専門外の俺でも分かるような、な。」


 浅瀬に生息していたものなら植物プランクトンが大半だ。

 だが、動物プランクトンのほうが特徴的な形状のものが多い。

 エビのような形の端脚類。

 ミミズのように長い体をくねらせる多毛類。

 心臓の動きが見えるゾウクラゲ。

 楕円形のカイアシ類。

 細長い形のオキアミ類。

 妖精のようなクリオネ。

「ちなみにそのプランクトンが採集されたのは船べりだ。」


 片平は身を乗り出して話す。

「ダメもとだった。どうせ変わったものは何もないだろうと、所内で顕微鏡をのぞいた時、そいつがいた。最初は俺もプランクトンではない、陸上や空気中に生息している微生物か何かじゃないかと思った。だが見ればみるほどあるプランクトンに似ていてな。」


 片平は左胸ポケットから一枚の写真を取り出した。

「そいつの写真だ。見てみろよ。」

 写真を手に取る。

 白黒の写真で、極小サイズの一匹の生物にピントが合っているのが分かる。

 生物の形はほぼ真ん丸だ。単細胞生物で、一か所にくぼみがある。くぼみからは大きな触手が生えている。細胞内には葉緑体やその他の器官が見られず、液胞のみで満たされているようだ。

 一目見てある名前が頭に浮かんだ。


「これは、ヤコウチュウに見えますが。」

 片平はニヤッとして、

「もっとよく見てみろ。」

 と促す。

 一見はヤコウチュウだ。しかし異なる点がある。

 通常、ヤコウチュウの触手のさきは針のように尖っている。

 しかし、この写真の生物は、その触手のさきに丸みを帯びた、しなびた種のようなものがあるのだ。

「この触手の形は見たことがないです。何か異物がついているんじゃ。」

「いや、正真正銘、そいつの体の一部だ。」

 片平は別の一枚の写真を取り出した。

「これをみれば分かる。」


 その写真はさっきと同じ生物が同じ大きさで写っているが、異様だった。

 触手のさきにあった種のようなものが膨らんでいる。大きさは本体と同じくらいで、すぐにあるものが連想された。

「なんか、キノコの傘みたいですね。」

「さすが須藤。鋭い感想だな。」

 片平は満足そうな顔で、私のほうに向けてこの二枚の写真を並べた。

「最初に見せたほうは水に浸しているときの形状。で、二枚目は乾燥している状態の写真だ。」

 交互に指をさしながら続ける。

「一枚目の、サンプルを水につけた時の奇妙な形の触手を見たときピンときたんだよ。ヤコウチュウにはもともと葉緑体があって、光合成ができたって説、知ってるだろ?」


 ヤコウチュウは生物学的には広義に藻類と分類される。藻類には通常、光合成をおこなうための葉緑体が見られるが、ヤコウチュウの葉緑体は退化して消滅し、その代わりに発達した触手で他の動植物プランクトンを捕食できるようになったと言われている。

 またその他にも、植物の細胞によく見られる液胞という組織が発達していたりと、植物との共通点も多いが、動物のように運動性を有しているので、植物と動物両方の性質をあわせ持つ生物と言える。


「はい。発見率も高いプランクトンなのでよく見ますし。」

「さっきも言ったが、プランクトンの生きる環境は過酷で、偶発的に起きる現象にすがったりして生きて行かなきゃいけない。飢えて死ぬケースも多いんじゃないかな。あと、同じような大きさのやつと食い合ったり、何万倍も大きなやつに飲み込まれたり。」

 片平はたばこを灰皿に押し付ける。

「ヤコウチュウももし、かつては光合成をする植物プランクトンだったとしたら、自分を取り巻く窮屈な環境に抗うようにして今の姿になったんじゃないかと思う。で、こいつもだ。」

 二枚目の写真を掲げて、私に突き付けるように見せる。

「こいつも進化したんだよ。きっと。海という環境から抜け出すために。」

 傘のような触手を指さす。


「乾燥している状態に簡単な揺れを与えることでこの形体になる。揺れっていうのは、手動の振動な。試してみて驚いたよ。船べりの海面から離れた位置で採ったサンプルだったから、まさかとは思ったけど。こいつ多分、この傘で空中を飛べるんだよ。海岸に打ち上げられたり、海鳥に付着して、その後風に乗って船に着いたんだよ。」

 筋は通っているように思えるが、非現実的だ。

 さっき進化論の話を持ち出したのはこの話をするためだったのか。

 多分この人は、実際にこの生物が飛行できるのか、いや、正確には浮遊できるのか厳密な実証もなく話しているに違いない。研究所には空気中の物質を観察・観測できるような設備はないのだから。

 しかし、この写真の奇妙な形状の触手を見ると、否定の言葉が出てこなくなる。


 片平は薄笑いを浮かべている。

「腑に落ちないって顔してるな。たしかに話してる俺自身も少し飛躍が過ぎるなとは思う。たまたまこんな形状をしたヤコウチュウが生まれただけかもしれない。さっき進化論の話でも突然変異って言ってたよな。この傘なんかも、とるに足らない、すぐに淘汰されるコピーエラーかもしれない。」

「信じていないわけではないですよ。ただ新種とか進化と断定するにはもっといろいろと検証する必要があるかと。そもそもすでに発見されている生物かもしれないですし。」

「たしかに検証は必要だな。分かっていないことが多すぎる。けど、こんな生物他にいるか?体はプランクトンのヤコウチュウに瓜二つで、後からとってつけたように触手のさきに傘がある。」

 それについては否定できない。

「そうですね。海洋生物専門の僕も見たことないですし。」

「もっと言うとだ。採集できたのは何もこの一匹だけじゃあない。同じ形状のものが、船べりのごく一部のサンプルから、全部で六匹確認できた。要は単発のエラーではなくて、すでにしっかりとした前進、進化になっているんじゃないかと思うんだ。」


 ここで店員が注文していたナポリタンとカルボナーラを運んできた。


 片平はナポリタンをフォークでつつきながら話す。

「もしこれが本当に進化だったとしたら、突然変異したヤコウチュウの親は相当腹が減ってたんだろうよ。餌を求めて、もっと遠くにまで餌を探せるように自分の子どもの遺伝子を変えてしまうくらいにな。」

「そこに話を着地させないでくださいよ。」

 カルボナーラは少ししょっぱく感じる。

「でも片平さん、もし新種の発見だったら第一発見者としてメディアから取材がきますよ。それに他の所員には話さないんですか?」

「それだよそれ。俺の名前があれにつくかもな。他の所員?あんまり考えてないな。とりあえずこっそり自分だけで資料を作って学会に提出するかな。あ、けどどっちみち上司には通さないといけないな。」

「賞金出たら何かおごってくださいよ。」

「考えておくわ。」

 片平はソースで赤くなった口元を曲げて笑った。




 五


 水曜夜の新宿の居酒屋は、六時半にはほとんど満席で、予約しておいてよかったと思う。

 焼き鳥の甘辛い匂いとたばこの苦い煙が充満し、流行りの曲をBGMにして何十人もの来客の声と注文のベルの音が重なる空間を進んでいく。

 通された席は、運よく端の方の比較的人口密度の低い席で、安堵する。

 待ち合わせの相手はまだ来ていない。

 彼に会うのは四年ぶりだ。



 片平からあの話を聞かされた日。少し早めに仕事を終え、横浜の大型商業施設に入っている居酒屋に、恋人の亜希子と食事に行った。

 山縣亜希子とは同じ大学の同じ研究室の同期として出会った。別に急接近したタイミングがあったわけではなく、研究室メンバーで集まる中で徐々に仲を深め、三回生のときに付き合い始めた。

 今年で八年目の交際になる。

 亜希子は都内の生命保険会社に勤めており、千葉の実家から通っている。

 大学時代も活発で、研究室でも環境問題についてアグレッシブな研究発表をしていたので、新卒からこれまで営業として働いているのもうなずける。

 ときどき、こんなに小柄で細身の体のどこに、あれだけのエネルギーがあるのかと不思議に思うことがある。

 ビールが好きで、翌日の仕事のことはあまり構わずに飲む。酒に強いので、酔ってもあまり変わらない。

 この日もビールを片手に魚料理をほおばっていた。

「まだ月曜なんだから、ほどほどにしとけよ。」

「あのね、月曜だから飲むんだよ? 明日からも四日間仕事が続くんだからさ、気合いいれないと。淳一君も飲みなよ。」

「俺は、ビールは一杯だけな。」

 会ったときはお互いの仕事の話はあまりしない。その代わり、大学時代の思い出話で盛り上がることが多い。

 亜希子が急にスマートフォンを取り出す。

「そういえばさ、今日のお昼ごろに橘君からメールがあったよ。なんか淳一君の連絡先教えてほしいって言ってるんだけど、いいよね、教えて。」

「橘?研究室にいた橘?」

「そう。なんかスマートフォン変えて、連絡先が全部消えたから、少しずつ数珠つなぎみたいな感じでみんなのアドレスを教えてもらってるみたいなの。」


 橘康太。研究室のメンバーの一人で、飲み会をよく主催していた。橘がセッティングした合コンにも行ったことがある。同じ班になったこともあり、生物学についても趣味についても気が合うので接しやすかった。

 卒業後は社会人一年目に一度会って以来音沙汰がなかったので、懐かしく、うれしく感じる。


「久しぶりに名前を聞いたな。いいよ。教えてあげて。」

「今連絡先送った。」

 亜希子はスマートフォンをしまい、ビールのグラスに再び手をかける。

「多分すぐ連絡くるよ。淳一君にすごく会いたがってたし。」

「俺も会いたいな。五年は会っていないから、どんな風になってるのか気になるし。」

「全然変わってなさそうだよ。なんかそんな気がする。」

 その時机に置いている自分のスマートフォンが振動するのを感じた。まさかと思い、手に取ると、予期したような文字列が見える。

「おい。もう連絡来たんだけど。橘から。」

 簡単な挨拶のあと、

「水曜日飲もうぜ」

 と続く文面を亜希子に見せる。

「ね?全然変わってないでしょ?土曜行ってあげたらいいじゃん。」

 画面を自分の方へ向けなおし、返信の文字を打ち始める。

 亜希子は赤くなった顔をメニューに向け、ビールにするか日本酒にするか迷っているようだった。



 と、そこまで思い返していると、誰か近づく気配を感じた。

「久しぶりだな。須藤。」

 学生時代に幾度も聞いた友人の声が聞こえた。

 橘はほとんど手ぶらで、財布だけテーブルに置いて軽快に腰かけた。

「久しぶり。全然変わってなさそうだな、橘。けど髪が伸びたな。」

 橘は学生時代ずっと短髪だったが、今は前髪が目の辺りまである。髭も少し生えているが、肌が白く若々しく見えるため、清潔感は昔のままだ。


 酒と焼き鳥の盛り合わせを注文する。

 やはり大学の研究室での話に花が咲く。メンバー誰とでも仲が良かった橘は話題が豊富で話も上手い。


 三十分もするとお互いアルコールが回り始めた。橘が焼き鳥を串からかじりながら言う。

「亜希子ちゃんとはどうだ。まだ付き合ってるんだろ? 今同棲してんのか?」

「いや、別々だよ。そういう話もないわけじゃないから、近々するかもな。」

 亜希子と会うと、同棲や結婚の話もときどき出る。が、これだというタイミングがこれまでなかった。

 来年の三月で私のアパートの契約が終了するので、そのタイミングでと言う話はしている。お互い二十代最後の年なので、心機一転してかつ身を落ち着けるように舵をとっていくのには良いかもしれない。

「よく続くよなあ。うらやましいよ。俺なんか、大学時代からそうだけど、女と全然続かなくてなあ。もって一年だわ。」

 たしかに橘が彼女と別れたという話は幾度聞いたことか。けど逆に言えばそれだけ橘がもてるということだ。

 そんな話題に転々としていると不意に気になったので、橘に聞いてみた。


「そういや、仕事は何してんだ? 前に会ったときは大学院にいたころだったろ?」

 橘は急に得意げな顔になった。

「仕事っていうか、職場は俺らの母校だ。」

「母校? ってことは教授とかやってんのか? それか職員か?」

「まあ、教授って言いたいとこだけど、教授の助手として働いてるんだ。俺こう見えて有望視されてて、論文とかも結構書いてるんだぜ。」

 白衣を着て教壇に立っている橘を想像する。

「たしかに、教授っぽい髪型になったもんな。」

「あのな、まだ助手だって。」

 橘の機嫌の良さからも、仕事で良い成果をあげられていることが分かる。


「あのチャラかった橘がそんな真面目な仕事に就くとはねえ。」

 とは言いつつ、プレゼンテーションも得意で、研究にも没頭できる橘にとっては天職かもしれないとも思う。

「研究所勤めの須藤とも、仕事で一緒になることがあるかもな。」

 橘はうれしそうに話す。

 その時、片平から見せられた、あの奇怪な生物の姿がよぎった。

 片平が繰り返し言っていた、「進化」と「新種」という言葉がぽつぽつと頭に浮かんでくる。

 橘も生物学専攻で、今でも最新の研究に触れ、多くの生物を見て考察しているはずだ。橘の意見を聞いてみたいと思った私は、気がつくと橘に話していた。

「なあ、ぜひ聞いてもらいたい話があるんだが。で、橘の意見も聞きたい。」


 橘は一瞬首をかしげたが、すぐに興味津々な顔になり、

「なんだなんだ改まって。話してみろ。」

 と面白そうに待ち構える。


 同じ研究所に、違う部署だが仲の良い先輩がいること。その先輩と水曜日に昼飯に行ったこと。そのとき、話されたこと、見せられたもののことをかいつまんで話した。


 最後にスマートフォンで撮った例の写真の画像を見せた。

「どう思う?」

 橘は食い入るようにスマートフォンを見つめている。

 少し充血した目をこちらに向けスマートフォンを手渡すと、橘は言った。

「うーん。何とも言えんな。実物を調査してみないと。」

「まあ、そうだよな。」

「けど、見た感じじゃ、お前の言う通りヤコウチュウにしか見えないな。で、触手の形体も奇妙だ。こんなのは見たことがない。」

「だろ? 海水、淡水、もっと言えば陸上でもこんな生物は発見されていないと思うんだ。」

 私が少し興奮気味に言うと、橘もそれに同調するように笑みを浮かべ話す。

「たしかにな。長年この分野を研究してきた俺でも、気持ちが悪く感じる。それくらいこの触手は異様だ。」


 ビールをぐっと飲んでから橘は続ける。

「で、お前の先輩の、片平さん? その人が抱いた感想や推測は、多分正しいと思うぜ。」

 その言葉を聞いてより興奮を覚える。

「本当か? 何か分かるのか?」

「いや、写真だけじゃ何にも分からないって。」

「じゃあなんで正しいって。」

「勘だよ。」

「はあ? 勘かよ。」

 二人で笑うと、橘は姿勢を直し、少し真剣なトーンで話し出した。


「勘っていうのは、研究者としては少し不適切かもな。細胞にはどんな器官があるのか、それ以外の個体も全く同じ形体なのか、そもそも海中に生息しているのか、いろんなことについてなんの確証もなく、ただ憶測でものを言うのは、生物学でもなんでもない。だからこの勘は、生物学者としてではなく。俺というお前の一人の友人としての勘だと思ってくれ。」

「勘って。むしろ生物学者としての本音を聞かせてくれよ。」

「まあ、深くとらえないでくれ。とにかく、俺はその話を聞いて、写真を見て、その片平さんの解釈を聞いて、なんだか筋が通ってる、そう感じたんだ。そんな気がしただけなんだ。」

 テーブルの上に置いてある私のスマートフォンの画面に浮かび上がる、奇妙な形体の生物を指さしながら、橘は言う。


「進化とかさ。夢のある話じゃん。もちろん希望的観測なのかもしれないけど。」

「橘らしいな。前向きな感想を聞けて良かったよ。」

 橘は話も上手いが、聞き上手でもある。相手の話を否定しない。ストレスなく会話が進む。

「おいおい、勘は勘でも、多分この件についての勘は当たるぜ。」

 橘は笑ってはいるが、かなり自信を持って言っているのが分かる。

「けど結局勘だろ?」

「まあ聞け。生物の新発見自体は別に珍しいことじゃない。毎年、どこかの海で新種が見つかっているしな。それらしい報告もかなりの数あがってる。問題なのは、証拠不十分のため間違った推理と解釈がなされ、それが信じられてしまうことだ。」

「それはそうだな。けど今回は実物を採集できていて、はっきり姿かたちも観察できるわけだしな。」

「そうだ。例えば、ニューネッシーだ。写真みたことあるだろ? あれだけ見れば海に生息していた首長竜の腐乱死体が引き上げられたように見える。けど、腐敗臭とか、積みきれないってことを理由に、そのまま海に投棄してしまった。厳密な調査がなにもなされず、あのインパクトのある写真が一人歩きして、世間を騒がせた。今ではあれは未知の生命体ではなく、ウバザメの死体だったんじゃないかって言われてるけどな。証拠が何もないから後の祭りだけどよ。」

 橘は私のスマートフォンを手に取り、顔に近づける。

「けど、お前の言ったとおり、今回の発見はニューネッシーのそれとは状況が全然違う。証拠がそろってる。まあその片平さんの言ったことが本当で、写真が本物で、この生物をうまく保存してくれていたらの話だけど。」

 片平は専門でこそないが、こういった生物やサンプルの取り扱いには慣れている。心配はいらない。


「片平さんも結構気合い入れてて、学会に発表するとか言ってたな。」

「はあ、正直うらやましいよ。こんなにいい研究材料があるなんて。うちにもサンプル回してくれよ。」

 スマートフォンをテーブルの上に戻しながら、橘が冗談っぽく言う。

 なんとなく片平と橘が一緒に研究に取り組んでいる様子を想像する。二人とも馬が合いそうではある。

「相談してみようか。片平さんに。自分一人でやるとは言ってたけど、専門家の橘と協力して研究できるようになればかなりスムーズに進むだろうし、片平さんにとっても悪くない話だと思うし。」

「おお。 じゃあ頼んでもいいか?」

「うん。期待しててくれ。」

 橘は嬉しそうにグラスを傾けている。

「やっぱり同じ専門のやつと、しかも同じ研究室だったやつと話すのは楽しいな。須藤とは海洋生物の好みというか趣味というか、いろいろ気の合うところが多かったからな。」

「そうだな。しかも仕事でもつながりができそうだし。人生何があるか分かんないもんだな。」


 大学を卒業してから交友関係を無意識に狭め続けていたことに、ふと気が付いた。橘以外の大学時代の友人とも、現在はほとんど連絡をとっていない。休日のほとんども、亜希子と過ごすことに費やしてきた。

 しかし、橘との再会は、自分の人付き合いの方向に変化をもたらしそうだ。他のメンバーと再会する機会も、橘が作ってくれそうに思う。

 橘はうなずきながら話す。

「まったくだな。今日この話を聞けてよかったわ。新発見ってロマンがあるからな。新種の発見、しかも進化したプランクトンかもしれない生物の発見って。何回想像してもテンションあがるわ。」

「たしかに、自分の専門分野で新しい発見ができるってなかなかないし、学者にとってはこれ以上ない幸せかもな。」

「ああ。」


 橘は一呼吸おいて話す。

「学生のころもこんな話をした記憶があるが、人間って空を飛べて、宇宙にも行けるのに、なぜかまだ海の一番深いところには行ったことがないんだぜ。俺らの海洋生物学っていう学問は、そう考えたら新発見が連発してもおかしくない、ロマンしかない学問だと俺は思うわけよ。」

 聞き覚えのあるそのセリフを頭で反芻する。

 宇宙があって空があって、下に海がある。その中に沈んでいく。

 多種多様な生物がいる。さらに沈んでいく。

 しばらく沈むと光が届かなくなる。

 真っ暗な闇の中を手探りで進んでいく。

 目の前に青白いものが浮かび上がる。

 近づいていくと次第に明らかになってくる。

 それは幼いころに海中に見た、あの不気味な手招きをする手だ。

 そんなイメージが起こる。


「おい。須藤。」

 はっとして顔をあげると、橘が怪訝な表情を浮かべている。

「大丈夫か? 顔色悪いぞ。」

「ああ、大丈夫だ。」

 とっさに笑顔を作る。

 橘は心配そうに訊ねてくる。

「どうしたよ急にぼーっとして。働きすぎか?」

「大丈夫だって。なんでもないから。」


 橘はまだ腑に落ちないという表情だ。

 ここで何も言わないと、かえって橘を心配させてしまうと思った私はあの夢のことを橘に話してみる気が起きた。あの体験のことは仲の良い友人であってもあまり打ち明けない。亜希子と、以前に一度だけ、橘にも話したことがあった。

「実は、またあの夢を見たんだ。」

「あの夢?」


 橘は目を伏せて少し考えてから、

「なんか前にも聞いたことがあるか? 俺。内容は思い出せないけど、お前から何か夢について聞いた記憶がある。」

 と言った。

「多分それだ。俺、小学生のころ一度海で溺れたことがあって、そのことをたまに夢に見るんだ。」

「ああ! 思い出した。あの気味悪い話か。海から手が伸びて足を掴まれたってやつ。」

 橘は合点がいったようで、橋を持った手を使って身振り手振りしながら話す。


「足は掴まれてないが、まあだいたいそんなような話だ。海の底から、こんなふうにな、手招きしてたんだよ。」

 こちらも身振り手振りで内容を訂正する。

「うへえ。そっちのほうが気持ち悪いわ。」

 苦そうな顔の橘がうめくように言う。

「また、そのことが夢に出てきたんだよ。定期的に見るんだけど、見たときは鮮明に思い出されて、結構疲れるんだ。」


「トラウマってやつだな。」

 橘は頷きながら呟く。そして焼き鳥の串のさきを皿に押し付けながら話す。

「悪いな。俺が海を、しかも深海を想像させるようなことを言ったから、夢のことを思い出したんだろう。」

「いや、気にしないでくれ。最近その夢を見て、そのシーンが頭に浮かびやすくなっているだけだから。」

 場の空気を戻すため、できるだけ笑顔で自然に話す。

 橘は「まあ海に大きく関わる仕事をしてるんだし、いちいち気にしてたら身がもたないよな。」と言うと、

「せっかくだから聞くが、幽霊っていると思うか?」

 と聞いてきた。


 私は少し考えてから、

「幽霊か。どうだろうな。ただ、海の中には俺たちの知らない何かが潜んでいるような、そんな気がする。それが幽霊なのか妖怪なのか、巨大な怪獣なのかは分からないが。」

 と返すと、橘もそれに同意して言う。

「俺もそう思う。お前のような体験をしたわけでも、何かを見つけたわけでもないけど、人知を超えたものが存在していると思う。俺、陰謀論とかオカルトとか好きだから、そうであってほしいって、思ってるだけだけど。」

「まあ、実際にいたとして、遭遇するのはまっぴらだな。」

「おい。それを調査するのも仕事のうちだろ?」

「うちはどっちかというと環境保全とか、水質改善とか、そっち方面の研究所だから、教授やってる橘のほうが妖怪調査には向いてるんじゃないか。」

「まだ助手だって。」


 二人で笑い合って話すと、日ごろの仕事の疲れとともに、あの嫌な記憶が少しだけ洗われて薄まったような気がした。

 橘は少し赤くなった顔で、

「それより、この夏は亜希子ちゃんとどこか行ったりしないのか?」

 と聞く。

「特に予定はない。旅行もしばらくいってないし、久々に行こうかな。」

 と、私がその気ないような感じで答えると、

「行って来いよ。横浜に住んでるんだったら、それこそ海とか連れて行ってあげればいいんじゃないか。トラウマがあるとはいえ、海へは普通に行ってたろ?」

 と橘が急かすように促す。


 たしかに、あの体験を今でも夢に見るが、海へ行くことに抵抗は全くなく、泳ぐこともできる。仕事柄、船に乗る機会が多いとは言え、くつろぎに行く海は全くの別腹なので、橘の言うとおり行ってみると良い気分転換になるかもしれない。亜希子も喜ぶに違いない。

「そうだな。じゃあ行ってみるかな。海。」

「おう。日焼けしすぎるなよ。あと、溺れんなよ。でっかいサメとかいるかもしれないぞ。」

「お前実は俺のトラウマを刺激したいだけだろ。」

 橘は冗談っぽく意地悪そうな笑みを浮かべていた。


 橘との再会は、自分に良い影響を及ぼすと思う。大学卒業後、これまで大きく変化しようとせず、平行に移動していたのが、これがきっかけで上向きになるような気がする。ずっと停滞していた時間が動き始めたような気がする。

 その日はそんなことを考えながら帰路についた。













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