出発
闇から意識が浮き上がった。
落下の感覚はいつの間にか止まり、まるで初めからそうであったかのようにアキラはそこに立っていた。
閑散とした森の中だ。
生えている樹々は見窄らしく、間隔も空いていて、病的な空気が漂っている。そして、降り注ぐ脆弱な日光。どうやら時刻的には日中のようだ。
アキラは改めて自分の姿を見下ろす。
手はやはり自分の知る10才のものではなく成長したままだった。
そして、服装は現代のものではなく、布を縛り付けたような簡素なものだった。
これがこの世界の衣服なのだろうか。
なぜかアキラの頭に『ぬののふく』という言葉が浮かんだ。
これから例えば戦闘をするような展開が待っているのだとすれば、いかにも防御力が低そうだ。
なんというか突飛な考えがポンポンと浮かぶ自分にアキラは違和感を持つ。
すると脳内に自分とは違う声が響いた。
(伝え忘れたが、お前には少しばかりゲーム知識やらを刷り込んでおいてやったぞ。そういう素養がなさ過ぎるからな。ファンタジーまがいの世界観だったら、そういう前提があった方がスムーズだろうよ。それに現代知識も与えてはあるから、お前が知らなかった常識レベルの知識は知ってたかのように引き出せるだろう。それによってお前の本質が歪まないように制限はかけてあるがな。……ちなみにこの通信は初回特典だ。俺が直接ちょっかいをかけるのはこれで最後だ。お前は好きにすればいい)
言うだけ言って神の声は途絶えた。
いわゆるRPGの世界……魔物がうろついていて、歩いているだけで襲いかかってくるような世界か。
ゲームなんて生きている時にはしたことがなかったな。暴力で問題を解決するゲームなんて、やっても楽しめたかどうか疑問ではあるけれど。
とにかくこの森の中に突っ立っていたって仕方がない。
世界の欠片――神様紛いの力を得たからなのか、あまり心細さは感じなかった。
まあ、何ができるかもまだ把握できてないんだけれど。
アキラは深い森の中、勘だけで方角を決めて、ただ歩き出した。
歩きながらアキラは考える。僕はシスターみたいに誰かを救いたくて、神に力を与えられてこの世界に来た。だけど、誰かを救う為には具体的にはどんな力が必要なんだろう?
シスターのことを思い出す。シスターは僕を見つけてくれたんだ。僕は両親の家に隔離され、世間とは関わりがなかった。それなのにも関わらず、僕を見つけ出した。
まず、助けを求める声が聞こえなきゃ始まらない。
そんな風にアキラは考えた。
だから、彼の初めての力は、助けを求める心の声をキャッチするというものになった。
ただ、今は森の中にいる。人間だけが助けを求めるとは限らないが、アキラがまず力の対象としてイメージしたのは人間だった。こんな場所に人間がいるだろうか?
しかし、アキラの懸念は杞憂だった。
森の中を行く内に、はっきりとアキラの中に声が届いた。
その声には誰かに助けを求めようとする余裕なんてなかった。もう縋る希望もなく絶望と悔しさと諦めに支配されている。そんな暗闇に囚われた重苦しい響きが、アキラには聞こえた。
神が先程飛ばしてきたテレパシーとは違い、空気の震えを無視してアキラに心の声が飛んできたみたいだった。だから方角がわかる。
アキラは走った。一歩、二歩、三歩。足を振り上げる度にその幅が飛躍的に向上していく。四歩目からは一歩一歩が走り幅跳びの跳躍に等しかった。樹々の群れを置き去りにし、一気に森を駆け抜けた。普通に走ったら数十分かかる道のりを、一分に満たない異様な速度で通過する。
森を抜けた先は草も生えない荒れ地だった。遠くに無数のパイプを這わせた物々しい深い灰色の建築物が見える。
しかし、今のアキラが集中すべきものは他にある。
まず少年少女がいる。年が若い男の子は地面にへたり込み、それを庇うように女の子が手を広げ前に出ている。もしかすると姉弟なのかもしれない。
そして、その目の前に脅威が存在した。
トカゲ人間だ。RPGゲーム風に言うならリザードマン。鎧を着込み、剣を構えた直立するトカゲが、ジリジリと姉弟に迫っている。怪我でも負っているのだろうか。その眼は完全に正気を失い、ただ単なる敵意を超えた凄まじい狂気が宿っていた。
アキラが姉弟の声にならない悲鳴をキャッチしてから数十秒の猶予があったように、その動きは鈍い。しかし、その威圧感は凄まじく、存在の重みとでも言うもので、姉弟の動きを恐怖で封じていた。
そこには獲物と怪物がいるだけだった。ある意味二つの犠牲はただの既定でしかなく、一種の膠着状態に近い時が流れていた。
しかし、アキラがここに現れたことで事態は変わった。
第三の標的を視認したことで、リザードマンには先んじて姉弟を始末しようという優先順位が生まれ、その動きを早めた。
どうやって止める?! アキラには当然、戦闘の経験なんてものはない。神に与えられたRPGの知識で戦闘がどういうものか理解はできても、その認識だけで現実に身体が動くはずもない。
ただアキラはリザードマンが姉に向けて振り上げた剣をじっと凝視した。
戦う方法がわからないのなら模倣するしかないだろう。
アキラが何かを掴み取るように前方に手を伸ばすと、そこに空気を圧縮したかのような剣が現れた。本来視認できないはずのその剣は、アキラの力の影響か、クリスタルのように透明な煌めきを放つ。
一瞬で姉の前に躍り出たアキラは、リザードマンの剣を透明な剣で迎え打った。
そのまま打ち払う、つもりだったのだ。
しかし、透明な剣の切れ味は凄まじ過ぎた。
アキラの剣はリザードマンの剣をあろうことかいとも簡単に両断し、その勢いのまま、リザードマンの胸に深い斬撃を与えたのだった。
アキラは深く動揺した。彼の中で暴力というものは両親と叔父叔母の象徴であり、自分を救済してくれたシスターの正反対にあるものだ。自分が暴力を振るう機会が訪れることなど一度も想定したことがなかったし、まさか殺傷に近い痛みを誰かに与えるなどあってはならないことのはずだったのだ。
倒れ伏すリザードマンにすぐさま駆け寄ると、胸元の傷に手をかざす。時間旅行すら可能にする世界創成の沼の力が、リザードマンの胸部の傷の時間を逆戻しにし、あっという間にその傷はなかったことになった。
しかし、それにより当然リザードマンは致命傷を受けた状態から回復、自らに起こったことがわからない混乱のさなか、前回の剣戟の鏡写しのように今度はアキラに折れた剣でもって深い斬撃を与え、怯えるようにその場を去っていった。
アキラは口から血を吐き、自らに回復を施す余裕もなく、その意識は闇に落ちていった。
※ ※ ※
リザードマンの振り上げた剣、それにいよいよ自分の命運が尽きること、そしてその後には弟も殺されること、どうしようもないその結末を姉が受け入れた時、誰かが凄まじい勢いで目の前に割り込んできた。
まさか村の誰かが追いかけてきたのかと思ったが違う。
背格好だけで村では見たことのない誰かだとわかるし、それに着ている服もそれほど上等な品ではないにしてもありえないくらいに真新しすぎる。
その誰かは透明な剣の一太刀でリザードマンを斬り伏せた。
何でできているかもわからない透明な剣は音もなく消え失せる。
しかし、姉にとってそこからがその少年の意味不明さの真骨頂だった。
少年はどうやってかはわからないが、手をかざすだけでリザードマンを治療したのである。そして、挙句の果てにリザードマンに逆に斬りつけられ、致命傷を受けて崩れ落ちてしまった。
他者から奪うのが、弱い者は切り捨てられるのが当然のこの世界において、せっかく倒したリザードマンをわざわざ回復するなんてことは、本当に何がしたいのかわからない行いだったのだ。
「お姉ちゃん……この人、どうしよう?」
幸いリザードマンは逃げ去った。困惑する弟の声に、姉はしばし考えた。そして、悩みながらも一つの決断を下した。
「この人に救命マスクを使うわ」
「えっ?! 確かにこの人に命を救われたけど……でも、お姉ちゃん、あれはお母さんに使うんじゃ……」
「そうね。そのつもりだったわ。だけど考えてみて。救命マスクを使っても母さんは完治しない。少しだけ死ぬのを先延ばしにするだけ」
弟だって当然そんなことはわかっている。それでも姉弟はそのひとときを得たいがために、救命器具を探しに廃棄された研究所へと向かったのだ。
姉の今の言葉はそんな姉弟の選択を裏切るようなものにも思える。
「お姉ちゃん」
弟の小さな呟きには姉を否定するニュアンスが込められているように思えた。
「わかってる。それでも私はこの人に賭けてみたい。見てたでしょ? あの透明な剣――仕組みも材質もまったくわからなかった。もしかしたら、この人は魔王軍とは違う技術を持っているかもしれない。それにこの人はあのリザードマンの致命傷を治療してみせた。行動としては意味不明だけど……それに……」
姉はそれ以上の言葉を紡ぐことはしなかった。あまりに荒唐無稽な妄想だったし、それに自分自身でも信じ切れているわけでもなかったからだ。
もしかしたら、この男の子は神様の使いなのかもしれない、だなんて。
この男の子に治療マスクを使うという選択肢が正しいのかどうかなんてわからない。普通に考えるなら生命を助けられた幸運を、母さんに救命マスクを届けるために使うべきかもしれない。
それでも。姉はこの少年を見ているとどうしようもなく胸がざわざわするのだ。
敵さえも救おうとするだなんて。その気持ち悪い選択が。
もしかしたら、この少年はこの世界の外から来たのではないか、とバカげたことすら思わせるほどに。
救命マスクを少年に装着すると、彼の呼吸は落ち着いたものになった。
そして、明らかに救命マスクの医療効果を超えて、ただそれをきっかけとして、少年本来の治癒能力が発動したように、胸の傷の肉がボコボコと盛り上がり、躍動した。そして、多少不格好で歪な痕を残した状態ではあったものの、少年の胸の傷は完全に塞がってしまった。
姉弟はその人智を超えた回復力に気味の悪いものを感じながらも、だからこそ新たな可能性を見つけた気にもなって、二人で協力して意識のない少年を引きずるようにして村へと運んでいくのだった。