第四話「カレー」
そのスーパーは、シロの家から歩いて10分ほどのところにありました。500㎡の敷地の中に、食料品売り場、本屋、そして外付けのたこ焼き屋さんが備わっており、シロはもっぱらたこ焼き屋を利用していました。
「うわあ……!!」
クロは感嘆の声を上げました。
「ひろいし、なんだかさむいね!」
「そうだね、冷凍とか冷蔵の食品も多いから」
広い、という発言は聞き流します。今度出かけるときは、大型のスーパー……いわゆるスーパーセンターに連れていくか、いやむしろショッピングモール……シロはほくそ笑みました。その日のクロの反応を想像して。
「クロ。このカゴを、このカートにセットして」
「こ、こう? わー! テレビでみるやつだ!」
先ほどから、クロのテンションはうなぎのぼりです。あの、固形携帯食料を食べていた時のしょっぱい顔はどこにもありませんでした。今の彼女は、輝かんばかりの笑顔です。なんだか妹が出来たみたいだ、と、シロは少しくすぐったい気持ちになりました。しかしすぐに、その妹の方が家事を得意としていることを考えると、真顔になるのでした。
「さて、買い込むか。しゅっぱーつ、進行!」
「しんこー!」
恐らくあまり意味も分からず、しかし楽しげにクロは復唱し、ころころとカートを押していきます。
「じゃあまずは、野菜から見ていこう」
「まかせて! わたし、どういうおやさいがおいしいのか、しってるよ!」
「やだ……クロがお母さん……」
おかあさん。クロにとって、あまり馴染みのない存在の名前が出てきて、つい、きょとんとしてしまいました。
「わたしにおりょうりをおしえてくれたのは、おばさんだよ」
「そうか、ならおばさんは、厳しく叱る父親でもあり、おふくろの味を作り上げた母親でもあったってことか」
……。確かに、クロのテレビで見た知識によれば、父親とは子供を厳しく律する存在、母親は家事をし、見守る存在だという認識が一般的でした。クロには物心ついた時から両親が傍にいませんでしたが、叔母は普段は厳しい人ですがそうしてクロの世話を焼いていたことも、なんだかんだ言いつつ多い人だったのです。
「そっか……おばさんは、わたしのおとうさんであり、おかあさんだったんだね」
そう考えると、クロはちょっぴり後悔しました。彼女は叔母さんのことが嫌いなわけではなかったのですが、決して大好きなわけではありませんでした。けれど、叔母はそんなクロに、様々なことを教えてくれていたのです。せめて、その感謝くらいは伝えるべきだったと、今更のように思ったのでした。
「わたしをいえからだしてくれないのに、おやさいはどういうものがおいしいか、とかおしえてくれてたのも、おばさんだったなあ」
それを聞いて、シロは少し、儚い表情を浮かべました。
「クロ。おばさんからもらった知恵や知識は、大切にするといいと思う。それはきっと、彼女からの精いっぱいの愛情だったんだ」
「あ、いじょう……?」
クロの中にはない考えでした。叔母はクロを家から出してくれなくて、家のことを全部やらせてくる人で。けれど、さっきの会話でも思ったのです。両親代わりであったと。色々なことを教わったと。
それは、そう、もしかしたらシロの言う通り――叔母から贈られた愛情、だったのかもしれない、と。クロは初めて思いました。
ぎゅう。クロは胸の前で、両手を握りしめました。
「わた、し」
「うん」
「おばさんに、あいたい……」
わたしはあいされていたのか。どうして、いえをおいだされたのか。
知りたい、とクロは思いました。
そんなクロを、シロは真っ直ぐ見つめました。
「わかった。私の方で、クロのおばさんを探してみる」
それは、とても困難なことだとシロは知っています。クロから情報を得るとしても、手掛かりが少なすぎます。それに、仮にクロの生まれ育った家が見つかっても――。
シロはその先を考えることをやめました。
クロの押しているカートをぐい、と押して促します。
「とりあえず、今日のご飯が先だね。美味しい野菜を根こそぎ持っていきましょう」
「そ、それはほかのひとの、めいわくなんじゃないかな……?」
叔母さんのことも気になりますが、シロの言うことももっともだと思ったクロは、シロの言うことに相槌を打ちました。
その後、じゃがいもはこういうのがね……、たまねぎは~……と、クロ先生による講義を交えつつ、買い物は進んでいきました。
「そういえばシロ、おにくはどうするの? どのおにくでつくる?」
「豚肉一択。他は我が家のカレーとして認めない」
「そうなの? わかった」
すごいこだわりだなあ、とクロは思いながら豚肉を見繕いました。終始、シロは楽しそうでしたが、けれどどこかぎこちなく、険しい顔をすることもありました。
そんなシロを気にかけつつ、会計を済ませ――クロとしてはレジも物珍しかったので、そちらも気にしていましたが――、つつがなく終わったのでした。
***
「クロ、手伝えることがあれば何でも言って」
シロは気合十分です。腕まくりをして、ふんす、と鼻息荒く言いました。
「ありがとうシロ。じゃあ、じゃがいものかわむきをしてもらっていい?」
手を洗いながら、クロが言いました。
「おっと。クロっち、大事なものが抜けているぞ。そこでステイ」
シロが駆けていって、しばらくして帰ってきた彼女の手には。
「えぷろん……?」
それとも、フリルの塊だろうか、と、クロは悩みました。薄いピンクにびっしりフリルのそれは、胸当て付きで前掛け部分もあり、一応形式上はエプロンの体裁を保っています。しかし、エプロンとしての成分と、フリルとしての成分を比べてみると、どう考えても8割はフリルで出来ています。
「職場の同僚の人にもらったんだ。私は自分の分があるゆえ、さ、クロはこれを着ること」
「わ、わたしがこれを!?」
うん、さすがにこれは恥ずかしかったかな。けど他に持っていないし、とシロは思いつつ、それをクロに渡しました。ちなみに、このエプロンの製作者はアヤで、あの姉妹は上が料理系、妹は裁縫系に強かったりします。アヤが、絶対似合うからあ~、今度着て写メ送って~と、シロに無理やり持たせたものでした。しかし、シロはそれをすっぱり忘れており、クローゼットの中で肥やしになっていたのですが。
「ど、どうかな……? へんじゃないかな? わたしが、こんなにかわいいのきてて……」
パシャリ。
返答はシャッター音でした。アヤ先輩、これだよ。あなたが求めていた可愛さはここにあったよ……。無言で保存。問答無用で待ち受け。この間、3秒とかかっていなかったそうな。
「KAWAII。圧倒的にKAWAIIから何も心配はいらないクロ」
「えっ……! そ、そんなことないよ! こ、こういうのは、きっとシロみたいなひとのほうがにあうもの!」
なんだこいつはこれがエプロン姿の天使か。シロはいつもの無表情がさらに無になりました。頬を赤く染め、黒いワンピースの上に薄いピンクフリルエプロンのクロは、大層可愛らしく、シロのツボをことごとく押していったのでした。
***
結果として。シロは使い物にならず、じゃがいもの皮を剥こうとして危うく自分の皮を削ぎそうになり、包丁を持てば包丁がすっぽ抜け、食材を焼かせれば焦がしそうになるため、お役御免となったのでした。
「すまない、クロ。私も、……もっと料理ができたら良かったのだけど」
そう呟いたシロは、本当に悲しそうでした。クロは包丁を置いて、シロを見つめました。
「シロにとって、カレーはとってもたいせつなりょうりなんだね」
「ん……」
シロは、そうちょっと呻いて。
「……うん。カレーはね、その、うちの親がいなくなる時、最後に食べた料理なんだ」
「え……」
シロは歪に笑いながら話します。もう遠い、幼い日の思い出を。
「私の両親は、私が小さいときに事故で死んでいるんだ。で、その前の日に、家族全員で作って食べたのがカレーだった。楽しかったな……私は相変わらず料理は下手で、お父さんも同じく下手で、それをお母さんが笑いながらフォローして……じゃがいもとかにんじんとか、めちゃくちゃ変な形になっていた。カレーも焦げてしまうし、というかお父さんが焦がしてしまって。でも……幸せな味がしたんだ」
「うん……」
「それで次の日に二人そろって仕事だから、早めに寝たんだ。起きたら二人ともいなくて、仕事行ったんだなあと思ってたら、いつまで経っても帰って来なかった。そしたら――二人とも、死んでしまっていた」
力のない声で、俯きながら。その時の喪失感、絶望、呆然とした気持ちを……シロの口は止まらず、話し続けます。
「交通事故だ。しかも即死。遺体はひどい状態だから見せられないと言われ、当然お別れだってできずじまい」
「…………」
「実感はなかった。はっきり言えば、今でもわいていない。死に目を見てないからね。この棺の中にお父さんとお母さんがいるんだよと言われても、納得なんてできなかったな」
「…………」
「でもとりあえず、カレーは嫌いになった。そりゃあ、カレー食べたらその後、お父さんとお母さんはいなくなったんだから。なら、そんな食べ物見たくない。だからずっと、カレーだけは避けてた」
「…………」
「だから、さっきは驚いた。私は自分からカレーが食べたいと言った。あれだけ嫌いだったカレーを……カレーと言うのも、見るのも聞くのも嫌いだった食べ物を、食べたいって。今でも怖いよ。カレーを食べることが。でも、でもなぜか……クロと一緒に、カレーが食べたいと思うんだ」
そう言って、シロは顔を上げました。そしてクロを見ると、顔を歪めました。
「……クロ。なんで泣いてるの?」
クロは泣いていました。声を殺して、大粒の涙を零していました。そんなクロは手を伸ばして、シロを胸に抱きました。
「むねがいたいよ」
シロはクロの腕の中、目を見開きました。唇が震えました。
「いたい、いたい、いたいよ……どうして、あえないんだろう」
それは、クロが言っているのに。
どうしてでしょう。
どういうことなのでしょう。
どうして、クロの声に、自分の声が重なって聞こえるのでしょう……?
「かえってきて」
帰って来て。
「ひとりぼっちはいやだよ」
ひとりぼっちは嫌だよ。
「たすけて」
助けて……お父さんお母さん!
その、クロの/自分の声を聞いた時。
「う、ああ…………っっっ、うわあああああああああああ!!」
熱い、熱い、涙がシロの目から流れました。叫びが迸って、ぎゅううと目の前の身体にしがみつきます。
「お、とうさん……おかあさん! なんで、どこいったの、なんでいないの! シロここだよ、シロはここにいる! なんで、なんで、なんで……!!」
一緒に、クロも泣いています。だって、シロの叫びはクロの叫びでした。
おとうさん、おかあさん。
どこいったの。
なんでいないの。
クロはここだよ。
ここにいるんだよ。
何度も、何度も、泣き叫んだ言葉でした。けれどきっと、同じ思いをしていたシロは、一度だってその気持ちを吐き出したことがなかったのです。
***
ぎこちなく、頭を誰かの手が撫でています。それに気づいたシロは、自分がいつの間にか寝ていたことに気がつきました。
目を開けると、そこにいたのは烏の濡れ場色の少女。
「クロ……」
「ごはんできたよ、シロ」
泣いて赤くなった目を柔らかく細めて笑ったクロは、シロを起こしてくれました。
すん、と息を吸うと、とても食欲をそそるあの匂いがしました。
それに、また泣きそうになったシロの手をクロが引っ張りました。
「食べよう、シロ」
「ああ……」
席に着くと、そこにはやはり、カレーがあるのでした。
「いただきます」
「い、いただきます……」
シロはそっと、スプーンにカレーを乗せます。でも、やっぱりどこか、気持ちがひんやりしてしまいます。
それを、クロはハラハラと、けれど期待を持って見ています。
シロの話を、クロはトラウマというものだ、と理解していました。でも、それをどうしたらいいかなんて知りません。でも、もしそのトラウマよりも、おとうさんとおかあさんとのおもいでをだいじにできたら、きっとシロはうれしいだろうな、と思うのです。
だって、シロは言ったのです。カレーは、幸せな味がしたのだと。
それを思い出せたら、トラウマなんてなくなるんじゃないか、とクロは思うのです。
シロはなおも、口を真一文字に引き締めて、カレーを凝視しています。
がんばれ! がんばれ!
クロは、心の中でずっと、祈り続けます。
シロは、ぷるぷると手と、唇を震わせ、それでもスプーンを近づけて――
ぱく。
もぐ、もぐ。
――たべた……!
それだけで感激してしまったクロですが、そこでふと気がついてしまいました。
シロの家族で作ったカレーは幸せの味でした。しかし、このカレーを作ったのは、シロのお父さんとお母さんではなく、クロです。
――どうしよう……! カレーが、しあわせのあじじゃなかったら!
とたんに、クロは落ち着かなくなりました。
しかし、何回も時間をかけて咀嚼をしていたシロは、スプーンを置きます。
かちゃり、というその音に、クロはびくつきました。そして、おそるおそる、シロを伺います。
ごっくん、とカレーを呑み込んだシロは。
「……おいしい」
しあわせのあじだ。
そう言って、泣きながら笑ったのでした。