第一話「くらやみのなか」
プロローグ
雨が、降っていました。
ざあざあと音を立てて降る雨の日を、女性は家の中を走り回っていました。
女性は真っ白でした。肌も、髪も、目も唇も、爪までが真っ白でした。
「あの子は、どこ……!?」
女性が探すのは、たった一人の家族。
彼女と正反対に真っ黒な見た目をした、一人の少女でした。
第一話「くらやみのなか」
少女はひとり、部屋で蹲っていました。黒のワンピースを着た彼女の黒い肌はかさかさで、頬は痩せこけています。黒い髪はいつから洗っていないのかべたべたしていて、黒い目も落ちくぼんでいます。薄く開いた黒い唇は皮がめくれていましたし、手入れしていない黒い爪も荒れています。
全身が烏のように真っ黒な彼女は、同居人である叔母を待っていました。叔母は、だいぶ前に家を出て、一度も帰ってきていません。しかし、彼女はその行方を知ることも、家を出ることも叶いませんでした。
――お前は家を出るな。ここにいろ。家事をしていろ。
それだけが、彼女が命じられたことでした。
(おなか、すいた)
冷蔵庫のものは、勝手に手を付けるなと言われていました。
(のどが、かわいた)
水を飲む自由すら、彼女は持ちません。
(あのひとは、いつ、かえってくるのかな)
ぼんやりと、テレビどころか電灯すら点けず、ひたすら待っていると。
ガタガチャン、と、扉が開く音がしました。
(かえって、きた?)
座り込んだまま、物音に耳を澄ませます。どうやら入ってきた人はかなり慌てているようで、足音は荒く、どたどたと音を立てていました。
微かに漏れる、どうして、とか、くそ、と悪態をつく声は叔母のものでした。
「おかえり、なさい」
そう言った声は掠れて、ほとんど音をなしていませんでした。
「っ、のんきに挨拶なんてするんじゃない! 早く、家を出ていけ!」
(――――)
少女は、頭が真っ白になりました。次に浮かんだのは疑問でしたが、すぐに諦めが訪れます。
(しかた、ない)
このひとはわたしがきらいなのだから。そう思っても、なんだか悲しくて。少女は一粒だけ、涙を流しました。それを見た叔母は、一瞬だけ顔をしかめて、
「……早く、行け。裏口からね」
そう、少女を促しました。その声に少女は、
(なんだか、このひとのこえが、やさしい)
ようなきがする。そう、思って。戸惑いから思わず足が止まった少女の肩を、叔母は突き飛ばしました。
「早く! 行けと、言っているでしょう! この愚図! 早く行け!」
なぜか焦っている叔母に、訳を聞きたかったけれど、叔母はぐいぐいと少女を押して、家から閉め出してしまいました。
バタン!と大きな音を立てて閉まった扉に、呆然と少女は佇んでいます。
(いま、)
あのひと、ないていたような。叔母の目元で光った何かに、少女の頭は凍り付きました。なぜ?どこに泣く要素があったのか、けれどそれよりも少女の飢えは深刻で、考える頭を持ちません。
それでも、ここにいてはまた怒鳴りつけられることはわかっていましたので、少女はあてもなく、歩き始めるのでした。
***
少女は、歩いています。あてもなく、ふらふらと。どんどん、血の気が引くような心地がして。なのに、全身が熱くて。目の前が、ぼやけます。
(ぐあいが、わるい)
のかも。そう彼女は考えましたが、それでも、休めるところなど心当たりはなく、どころか、少女はあの家の中以外のことをテレビの知識でしか知らないので、何もかもが分からないのでした。
外に出たことのない彼女は、こういうときは病院に行くという知識はあっても、近くの病院の場所すら知りません。それどころか、もう彼女には、今まで育ったあの家の場所さえ、満足に辿れない状態でした。
(さびしい)
喉が、飢えるように熱くひりついています。
(さびしい)
目が、熱い何かを零しています。
(ひとりは、さびしい)
そう、今、彼女はひとりぼっちでした。
それが悲しくて。少女は涙を流します。
ぽつん。
頭に、何かが当たりました。それはそのまま、すう、と体に沿って動きました。
見上げると、曇り空が雨空に変わっていました。
ぽつ、ぽつ、ざああああ。
勢いよく、雨が降り注いできました。こういうとき、人は傘を差すのだ、ということは知っていましたが、当然、そんなものは持っていません。
(でも、あめは、いい)
なみだをかくしてくれるから、いい。そう、少女は薄く笑いました。今は夜中で、人通りが少ないのも救いでした。
そして、たどり着いたのはゴミ捨て場でした。そこにあるものは、雨でふやけてぐちゃぐちゃになっているものが大半でした。しかし、そこに、墓標のように。真っ黒な傘が衝き立っていました。それはまだ、壊れてもいなさそうでした。真新しいというほどではありませんでしたが、それでも、まだ立派に傘としての機能は果たせそうです。
少女は、その傘を引っこ抜きました。柄も骨組みも、全てが真っ黒なその傘は、真っ黒な少女によく溶け込みました。
(なんでだろう、このかさは、あたたかい)
わたしとおなじだからかな。少女は、掠れた声で呟きました。
そこに座り込みます。傘を差そうとは思いませんでした。ただ、寄り添うように、傘を抱きしめ、そのまま、眠りにつきました。