願いを叶える魔法の鏡
これは、鏡に話しかけるようになった、ある若い女の話。
「ただいま~。今日も疲れたわ。」
その若い女が、帰宅するなり愚痴をこぼした相手、
それは、鏡に映った自分の姿だった。
その若い女には、友人と呼べるような人がいなかった。
家と学校とアルバイト先、それらを往復するだけの毎日。
学校で隣の席に座っている人の名前も知らず、
同じアパートにどんな人が住んでいるのかも知らない。
必要最低限の会話以外は、他人と話すこともない。
そんなその若い女の話し相手と言えば、自分だけ。
その若い女は、自宅で独り言を言うことが多かった。
独り言を言うにしても、言う相手が欲しくなるもので、
その相手は、最初はテレビだった。
しかし、テレビの中の人達は、
その若い女に話しかけられても、反応することはない。
テレビにすら無視されて、その若い女の孤独は深まっていった。
そうして、
テレビに話しかけることもはばかられていって、
次にその若い女の話し相手になったのは、大きな鏡だった。
その若い女の部屋には、古くて大きな鏡が設置されていた。
前の住民が残していった物のようで、
その若い女が入居した時から置いてあった鏡。
全身が映るくらいの大きさで、いわゆる姿見というものだった。
壁に据え付けられたように設置されている、古くて大きな鏡。
その鏡に映る自分の姿が、その若い女の話し相手になった。
鏡の中の自分は、
自分が話し終わるまで、きちんと話を聞いてくれる。
その若い女は、自宅にいる間、
鏡の中の自分に話しかけることが多くなった。
今日もその若い女は、
鏡に映った自分の姿に向かって話しかけている。
「おはよう。今日も頑張ろうね。」
「ただいま。
今日も課題の出来が悪いって学校で怒られたわ。」
「バイト先に嫌な先輩がいるの。
あんなバイト、辞めてしまいたいわ。」
鏡の中の自分は、どんな愚痴でも最後まで聞いてくれた。
そんなことが続いたある日。
その若い女は、学校の教室で、
他の学生たちが話をしているのを耳にした。
「ねえ、知ってる?
魔法の鏡っていうものが、あるらしいの。
なんでも、
魔法の鏡は、鏡の中の世界と繋がっていて、
鏡の中の魔法使いが、願いを叶えてくれるんだって。」
「そんな鏡があるなら、見てみたいわね。
どこにあるの?」
「それが、
最初は古いお屋敷にあったらしいんだけど、
そのお屋敷の主が亡くなってから、
人の手に渡って、古道具屋の売り物になったんだって。
それも売れてしまって、今では所在不明らしいわ。
でも、噂によると、
この街のどこかにあるんじゃないかって話よ。」
「へ~。
あたしの家にも古い鏡があるんだけど、
魔法の鏡だったりしないかなぁ。」
「魔法の鏡は、古くて大きな鏡らしいよ。
同じような鏡だったら、可能性あるかも。」
「あんたたち、
そんなことより、試験の相談をしましょうよ。
試験はもう来月よ。
悪い点数を取って、落第したくはないでしょう?」
その若い女は、
次の授業の用意をしながら、
聞くとはなしにその話を聞いていた。
それから夜になって、
その若い女は、その日の学校の授業とアルバイトを終えて、
アパートの自分の部屋に帰ってきた。
玄関で靴を脱いで部屋に上がり、明かりを点ける。
「ただいま~。」
いつもどおり、部屋にある鏡に向かって話しかける。
そこでふと、学校で聞いた話を思い出した。
願いを叶えてくれる魔法の鏡があるらしいという、あの話。
その若い女は、上着を脱ぐ手を止めて、
鏡を見つめた。
部屋に設置されているその鏡は、
古くて大きな鏡で、噂で聞いた魔法の鏡の特徴と一致している。
その若い女は、思わず独り言を漏らす。
「・・・この鏡が、魔法の鏡だったりしないわよね。
まさか、魔法の鏡なんて、
そんなものがあるわけがない。」
自分の独り言を一笑に付して、着替えを続ける。
部屋着に着替え終わって、それからテレビを点けた。
テレビの中では相変わらず、
有名人たちが、その若い女の存在など無視して、楽しそうに会話をしていた。
置いてけぼりにされた疎外感を感じて、
その若い女は点けたばかりのテレビを消してしまった。
それから、もう一度あの鏡に向き直る。
「・・・願いが叶う魔法の鏡なんて、あるわけがない。
それはわかってる。
でも、
わたしのように友達もいないような人間には、
魔法の鏡くらいしか頼るものがない。
だからせめて、わたしの相談を聞いて。
わたし、
勉強もバイトも上手くいかなくて。
もう、どうしたらいいかわからないの。」
その若い女は、
鏡に向かって、絞り出すように語りかけた。
それから、両手で顔を覆ってしまったのだった。
その若い女が、
自分の部屋にある鏡に向かって、さめざめとしている。
そうしていると、
ふと、どこからか、
小さな音が聞こえてくるような気がした。
何度も聞こえてくるその音は、ささやき声のように感じられる。
「・・・いで。・・・めないで。」
その若い女は、顔を上げて周囲を見渡した。
部屋の中にはもちろん自分しかいない。
「・・・気の所為かしら。
どこからか、人の声が聞こえてくるみたい。
何て言ってるのかしら。」
よく耳を澄ませてみる。
そうして何度も聞いていると、
そのささやき声が言葉として聞き取れるようになった。
「諦めないで。
あなたがいつも努力と苦労を重ねているのは、
私がよく知っています。」
ささやき声はそう言っていた。
声の感じからして、その若い女と同年代の女の声に感じられる。
「誰?
どこから話しているの?」
その若い女は、
どこからか話しかけてくる、ささやき声の主を探した。
トイレのドアを開けたり、押入れを覗いたり、
それでも、ささやき声の主は見当たらない。
しかし、そうしている間も、
ささやき声は聞こえている。
その若い女は首を傾げた。
「この声は、どこから聞こえてくるのかしら。
そんなに遠くからじゃないみたいだけど。」
その時、
その若い女の視界に映ったのは、あの鏡だった。
ささやき声は、鏡の方から聞こえてくる気がする。
「まさかとは思うけど、あの鏡から聞こえてきてるんじゃないわよね。」
鏡の前に立って、鏡に耳をつけてみる。
すると、
ささやき声がはっきりと聞き取れるようになった。
「やっぱり。
声は、この鏡から聞こえてきてるんだわ。」
学校で聞いた話を思い返す。
鏡の中の魔法使いが願いを叶えてくれるという、魔法の鏡の話。
「鏡の中から声が聞こえるなんて、
この声は、鏡の中の魔法使いの声?
まさか、魔法の鏡なんてあるわけがない。」
そう思うが、
しかし実際に今も、ささやき声は鏡から聞こえてきている。
ともかく、返事をしよう。
その若い女は、鏡に向かって話しかけた。
「あの・・・。
もしかして、あなたは魔法の鏡の魔法使い?」
しかし、ささやき声は反応しない。
「反応がないわね。
わたしの声が聞こえてないのかしら。
向こうから聞こえる声がこんなに小さいんだから、
こっちも大きな声で呼びかけないとだめかな。」
その若い女は、少し大きな声で、
何度も呼びかけた。
「わたしに呼びかけているあなたは、魔法の鏡の中の魔法使い?」
すると、
やっと声が聞こえたようで、ささやき声が返ってきた。
「・・・私の声が届きましたか。よかった。
あなたの声がこちらに聞こえてきて、
居ても立っても居られなくて、話しかけたんです。」
それから、その若い女は、
鏡の向こうから聞こえる声と、話をすることが出来た。
鏡の向こうから聞こえてくる声が言うところによれば、
その若い女が毎日鏡に向かって話していたことの大体が、
向こう側に聞こえていたのだそうだ。
学校の勉強が上手くいかないこと、
アルバイト先で怒られたこと、
誰にも相談できなくて悩んでいること。
そんな悩みや愚痴を毎日聞いていて、
親近感を覚えたのだという。
そういう説明を聞いて、その若い女が応える。
「まさか、本当に魔法の鏡があるだなんて。
でも、話を聞いてみると、
鏡の世界もこちらの世界も、大差ないみたいね。
魔法の世界といわれて、理想郷のような世界を思い描いたのだけど。」
その若い女の言葉に、鏡の向こうの人が応える。
「どちらの世界も、似たりよったりみたいですね。
私から見れば、
あなたがいる世界の方が鏡の世界ですけれど。
私もあなたも、悩み事は尽きないみたいですね。」
「わたしたち、
お互いに声色も似ているし、
それ以外の部分も似てるわね。」
「そうですね。
あなたも眼鏡を掛けているのでしょう?
それも、黒縁眼鏡を。
私とそっくりだわ。」
「お互いの世界は鏡映しの世界だから、似ているのでしょうね。」
その若い女は、鏡に手を突いてみた。
鏡の中の相手も同じ場所に手を突いてきたので、鏡の中には入れなかった。
その若い女が、鏡を見ながら話しかけていた相手。
黒縁眼鏡を掛けた、冴えない若い女の姿。
鏡に映った自分の姿に話しかけていたつもりだったが、
まさか、鏡の中の世界に、自分とそっくりな人がいただなんて。
きっと鏡の向こうの人も、同じ様に思っていることだろう。
その若い女はそう理解した。
それから、
その若い女と鏡の向こうの人は、
お互いに悩み事を相談し合った。
「わたしの声がそちらに届いていたのだから、
もう知っているとは思うけど。
わたしは、勉強もバイトも上手くいっていないの。
相談する相手もいなくて。
あなたは、魔法の鏡の魔法使いなんでしょう?
魔法で何とか出来ないかしら。」
「残念だけれど、それは無理です。
私は魔法使いではありませんから。
私から見れば、あなたこそ、魔法の鏡の魔法使いなのです。
でも、一つ言えるとすれば、
努力は結果が出るまでに時間がかかるものです。
だから、諦めないで。」
そんな鏡の向こうの人の声に、その若い女が食って掛かる。
「でも!
試験は来月なのよ。
その試験の成績が悪ければ、わたしは落第してしまう。
うちには金銭的な余裕は無いし、
落第なんてしたら、もう勉強を続けることはできないわ。
かといって、
今のわたしに出来る仕事なんて思いつかない。
バイトも上手くいかない。
努力の結果がいつか出るとしても、
それが今よりずっと先じゃ、間に合わないのよ。」
半ば叫ぶようなその言葉に、鏡の向こうの人が冷静に応えた。
「必要な結果を期限までに得られるように、
工夫する必要がありそうですね。
努力や勉強は、
辛い思いをした分だけ結果がついてくる、
というわけではありませんから。
効率を考えてみましょう。」
「わたしは要領が悪いから、効率と言われても。
魔法の鏡の魔法使いの力で、なんとかならないかしら。」
「何度も言いますが、私は魔法使いではありません。
むしろ、
鏡の中のあなたが魔法使いだと思って、
私の方があなたに頼るつもりでした。」
「鏡の中のあなたにも悩みが?」
今度は、
鏡の向こうの人が、悩みを打ち明ける番だった。
「私にだって悩みはあります。
私は、
普段から人に相談されるばかりで、
自分が相談できる相手がいないのです。
誰かが、相談する相手を探しているとして、
相談する相手が悩みを抱えていたら、
救いにはならないでしょう?
人は相談する時、自分よりも優れた人を探そうとするものです。
そんな救いを求める人の期待を、裏切るわけにはいきません。
私は、周囲の人から相談されることが多い分、
逆に自分の悩みを相談し難いのです。
自分の悩みは、黙って抱えるしかありません。」
鏡の向こうの相手の悩みにまで乗ってくれるその人でも、
相談相手に困ることがあるものらしい。
その若い女は、鏡の向こうの人に語りかけた。
「わたしには、
相談に乗ってもらっても、お礼できるものがないの。
勉強も出来ないし、要領も悪いし。
でも、話を聞くことくらいはできる。
もしよければ、わたしが鏡の中のあなたの相談に乗りましょうか?
鏡の向こうのそちらとは別の世界に住んでいるのだから、
秘密は守れると思う。」
その若い女の申し出に、鏡の向こうの人の声がぱっと華やいだ。
「本当ですか?
話を聞いてもらえるだけでも、嬉しいです。
ではお互いに、
問題を解決できるように相談していきましょう。」
そうして、
その若い女と鏡の向こうの人は、
お互いに悩みを相談するようになった。
その若い女と鏡の向こうの人とが、お互いに悩みを相談するようになって。
お互いが抱える問題が解決した、ということにはならなかった。
魔法の鏡の魔法は、
鏡の中の世界の人と話ができるくらいがせいぜいで、
それ以上の効果は無いようだった。
鏡の中の世界も、こちらの世界とあまり違いはなく、
その若い女と鏡の向こうの人も、できることに大差は無かった。
聞くところによれば、
鏡の中の世界でも、来月試験があるのだとか。
「きっと、左右が違う位の差しか無いんだろうな。」
その若い女はそう納得する。
できることといえば、
優劣ではなく、違う考え方を聞ける程度。
お互いに問題を抱えている不完全な者同士、
相談し合うようになっただけでは、劇的に変わることはできない。
それでも、
相談ができる相手がいるのは、大きな利点だった。
勉強にしろ何にしろ、
複数人の知恵を集めることで効率が上がることもある。
そうして、
その若い女は、勉強やアルバイトの仕方について、少しずつ上達していき、
鏡の向こうの人も、その若い女に相談することで、
何らかの上達はしているようだった。
そうして、
その若い女と鏡の向こうの人が相談するようになってから、
ひと月ほどが過ぎて。
その若い女が試験を受ける日がやってきた。
鏡の向こうの人に相談に乗ってもらうようになって、
勉強の効率も上がり、試験勉強は概ね上手くいっていた。
しかし。
「せっかく勉強しても、
試験に遅刻したら、意味ないじゃない!」
その若い女は、
昨夜遅くまで勉強していたのが祟って、
朝寝坊してしまったのだった。
今から大急ぎで学校に向かっても、
試験開始に間に合うかどうかというくらいに、遅い時間になっていた。
用意してあった荷物を引っ掴んで、玄関から慌てて外に飛び出す。
すると偶然、
丁度その若い女の部屋の目の前に、人影があった。
どうやら、アパートの廊下を、
他の住民が通りがかったところだったらしい。
危うく、その人影とぶつかりそうになった。
「ひゃっ!」
通りがかったその人影は、小柄な若い女で、
驚いて地面に尻餅をついてしまった。
その若い女は、小柄な若い女に向かって慌てて頭を下げた。
「す、すいません!
わたし、急いでいて・・・お怪我はありませんか?」
その若い女が、小柄な若い女に声をかける。
地面に尻もちをついている小柄な若い女は、
驚いてつぶっていた目を、ゆっくりと開けて応えた。
「申し訳有りません。
わたしの方こそ、前をよく見ていなかったもので・・・。」
そう返事をした小柄な若い女は、
その若い女と同じくらいの年代のようだ。
学生のような風貌で、黒縁眼鏡を掛けている。
それは、
その若い女が掛けているのと同じ黒縁眼鏡。
そして何より、その声に聞き覚えがあった。
もしかして。
その若い女は、気がついたようだった。
探るように、小柄な若い女に問いかける。
「あの・・・失礼ですけど、
わたしたち、どこかで会ったことがありませんか。」
話しかけられた小柄な若い女は、
尻もちをついていた地面から立ち上がると、
ずり下がった黒縁眼鏡を直して応えた。
「面識、ですか?
わたしもこのアパートの住民ですけど、
あなたと直接お会いしたことは無いのでは・・・」
お互いに間近で言葉を交わして、
それからピーンと閃いた顔になった。
それもそのはず。
顔をきちんと見たのは初めてだが、
その声には、よく聞き覚えがあったから。
その若い女が、ため息と共に言葉を漏らした。
「その声は・・・。
そうか、そういうことだったのね。
魔法の鏡なんて、あるわけがないわよね。
うちのアパートはオンボロで壁が薄いから、
偶然、あなたとわたしの部屋で、
鏡のように向かい合わせになっていただけだったのね。」
きっと、アパートの薄い壁を挟んで、
お互いの部屋の鏡に向かって話しかけていたのだろう。
照れくささ半分、がっかり半分。
そんな表情で、納得したように頷いていた。
同じく、
全てを理解した小柄な若い女は、くすっと笑って応えた
「なるほど。
そういうことだったのですね。
でも、がっかりする必要はありませんよ。
魔法の鏡は、確かに存在したんですもの。」
「どういうこと?」
「魔法の鏡が、
私達ふたりを引き逢わせてくれたってことです!」
小柄な若い女が、その若い女の手を取ってぎゅっと握る。
それから、
その若い女と小柄な若い女は、笑顔になって顔を寄せ合った。
願いを叶えてくれる魔法の鏡。
魔法が存在するかどうかはともかく、
相談相手が欲しいという、
その若い女と小柄な若い女の願いは、叶ったようだった。
終わり。
自分の家で独り言を言っている時に、この話を思いつきました。
家で話し相手もなく独り言を言う者同士で救われて欲しいと思って、
このような物語にしました。
お読み頂きありがとうございました。