第四十五話 ソネアの本心
布で口元を押さえながら、自室に戻ったソネアはしっかりと扉を閉めた後、しばし呆然と立ち尽くしていた。
その視線は虚空を見つめ、何も見ていなかった。
不意にソネアの視線が定まり、部屋の隅に置かれた桶に目を止めた。ごみ入れとして使っている桶だ。
ソネアは桶に歩み寄るなり跪き、顔を突っ込んで吐いた。
口からは大量の血が吐き出され、鮮血が滴る。
ソネアの舌は噛み切られ、今も出血していた。
「ああ、伯父様、なんということを」
ソネアは嘆きながら顔をしかめる。痛みではなく悲しみと恐れが彼女の顔をゆがませていた。
今までのことは、すべてはソネアの演技だった。
ミアを救い出すためには、まず伯父であるカルスたちを信用させなければいけない。そのために心無い嘘をつき、母すらも騙した。伯父たちに見せた手紙も偽の手紙で、信用を得るために、わざわざ用意してもらったものだ。
「ミアさん。ごめんなさい」
ソネアは血を吐いた桶に嗚咽をこぼす。そのあとには涙が続いた。
拷問されたミアを見た時、ソネアは愕然としてその場で崩れ落ちそうになってしまった。
何とか舌をかみ切ることで意識を保ち、激痛で感情をごまかした。
おかげで演技を続けることが出来たが、ソネアはいてもたってもいられなかった。
一刻も早く、ミアを助け出すことしか考えられなかった。
すでに逃げる準備は終えてある。
今日馬車で領地に戻ったように見せかけたが、実は昨夜のうちに領地には戻っていた。城館の裏手にある森には逃走用の馬を隠してある。逃げ道も決まっており、ドストラ領やケネット領ではなく、南下してロベルク地方を離れ、カシュー地方のミレトの街に逃げる予定だ。
すべてロメリアが事前に考えておいてくれた計画だった。
あとは夜明け前を待ち、皆が寝静まったころに行動に移すだけだった。
まだ日は高く、今のうちに休んでおくべきだった。だが捕らえられたミアのことを考えると、ソネアは一睡もできなかった。
無限とも思える時間が過ぎ、日が暮れて登った月さえも沈んだ夜明け前予定通り行動を開始した。
ソネアは静かに自室の扉を開けて、顔だけ出して外の様子を探る。
周りに人の気配はなく、物音一つしていなかった。
城館の内外にはロベルク同盟の兵士がいるはずだったが、歩哨に立っている様子はない。
何のための軍隊だと思いたいが、この緩さはソネアにとっては好都合だった。
ソネアはフード付きのマントを頭からかぶり外に出る。懐には短剣を忍ばせ、左手にはもう一つフード付きのマントを抱え、右手には明かりがともったランタンを持っている。ただし明かりを見られてはいけないため、ランタンには鉄の覆いがかぶせられ明かりを絞っている。
おかげで自分の足元さえもほとんど見えないが、ソネアにとってここは慣れ親しんだ我が家である。わずかな明かりさえあれば、手探りで進むことが出来た。
壁に手を当てながら、気配を殺し、足音を消して城館の中を進む。
地下牢へと続く階段を見つけ、そのまま真っ直ぐに降りた。階段を下りた先にある細い廊下にも見張りはおらず、ソネアは誰にも見られずに牢屋にたどり着くことが出来た。
牢へとたどり着いたソネアは、ランタンにかぶせていた鉄の覆いを外し、地面に置く。そして扉に取り付けられた鍵を見る。
地下牢の鍵は一つしかなく、伯父であるカルスが持っている。ソネアは二本の針金を懐から取り出すと、鍵穴に差し込み開錠を試みた。
ソネアは事前にロメリアの部下であるカイルから、鍵開けの手ほどきを受けている。
ただし時間があまりにも無かったため、満足に訓練できず技術は高くない。
「もう、どうして開かないのよ!」
ソネアは苛立ちと焦りでつい声を上げてしまったが、落ち着けと自分に言い聞かせ、深呼吸の後にもう一度挑戦する。
落ち着いたことがよかったのか、鍵からは小さな金属音が響き、錠前が開く。
ソネアはすぐに鍵を外し、閂をどけて地下牢の扉を開けた。
「ミア……さん?」
地下牢の中に入り、ランタンを掲げる。
牢屋の真ん中で、ミアは死体のようにピクリとも動かなかった。
「ミアさん! ミアさん!」
ソネアは駆け寄り、ミアの体を抱き起してゆする。
「あっ……ソ、ネア、さん?」
ミアの腫れた瞼からうっすらと瞳がのぞき、喉からしわがれた声が漏れる。
ソネアはミアが生きていたことに安堵し、そして改めて拷問の痕に心を痛めた。
「ごめんなさい、ミアさん。私の伯父が、こんなことを」
ソネアはわびたが、許してもらえるなどとは思っていなかった。
何の罪もない人に対して、このような仕打ちをして、許されるはずがない。
抱き起したミアが右手を掲げる。爪がはがされた手がソネアの顔に伸びた。
もしこのまま首を絞められ、殺されそうになったとしても、ソネアはそれを受け入れるつもりでいた。自分の一族はそれだけのことをしたのだ。報復を受けるのも当然である。
ソネアは断罪の時を待った。
しかし伸ばされたミアの手がソネアの首にかかることはなく、口元に添えられると暖かい光が生まれた。
手にともった光に驚くソネアだったが、不意に噛み切ったはずの舌の痛みが薄れていく。癒しの技を使ったときにともる、奇跡の光だと気づいた。
「ミアさん、どうして?」
驚くソネアに、ミアが腫れた唇を僅かに動かす。
「舌、噛んで、いた、でしょ? 血が、こぼれ、たの、見、えました、よ?」
とぎれとぎれにミアが話す。
「何をしているのです。私の怪我なんかより、自分の傷を治しなさい」
誰がどう見ても、ミアの方が重症であることは明白だった。
「大、丈夫です。大きな、怪我は、ちゃ、んと直し、てますから」
ミアは心配させないつもりで行ったのだが、その言葉はソネアの心をえぐった。
これですでに治したというのであれば、どれほどの責め苦を負ったのか、ソネアには想像もできなかった。
「ごめんなさい、ミアさん。私たちのせいで」
「謝らな、いでく、ださい。私が悪、いんです。ロメ、リア様には、注意されていた、のに、外に出、て治療を、私は、調子に、乗っていたん、です」
ソネアの謝罪に首を振り、ミアが自分のせいだと話す。
「ロメリア様は、ミアさんのことをとても心配していました。私が上手くやれるように、準備を整えてくださったのもロメリア様です。さぁ、早くあの方のもとに帰りましょう」
ソネアはミアを縛るロープを持ってきた短剣で切り、戒めを解いてフード付きのマントをかぶせる。そしてふらつく体を抱き起して立たせる。
「さぁ、帰りましょう、ミアさん」
ソネアはミアに右肩を貸し、左手でランタンを掲げながら通路を歩き前へと進んだ。
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