第九十二話 天啓
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ヒュースの目の前では、ヒューリオン王国の兵士達が右に左に逃げ惑い、すでに陣形もなければ指揮系統も存在していなかった。
「おい、落ち着け! 持ち場を離れるな。陣形を保つんだ!」
ヒュースは何とか軍勢を立て直そうとしたが、耳を傾ける者はいなかった。
ヒューリオン王の命に従い、ヒュースは残っていた七万の軍勢を率いてヒルド砦に攻撃を仕掛けた。その直後、西の森から魔王軍がガリオスと共に現れた。
魔王の実弟ガリオス。その名はヒューリオン王国にも鳴り響いていた。大きな口に山のような巨体は、まさに話に聞いていた通りだった。そのガリオスに後ろを取られる。それだけで恐慌状態になるには十分だった。さらにガリオスが、後方に残っていたヒューリオン王に襲い掛かり、国王旗が倒された。
国王旗は国王の存在と同義だ。旗が倒れたということは、王の死を意味する。太陽王が殺されたと、ヒューリオン王国の兵士達は絶望し、指揮系統が完全に崩壊してしまった。
「ええい、逃げるな、踏みとどまれ! 戦うんだ!」
ヒュースが声を枯らして叫ぶも、応える声は返ってこない。代わりに巨大な足音と共に大気を震わす咆哮が東から響き渡った。
ヒュースが正面を見れば、ヒルド砦の西門から、巨大な竜が現れた。
大きな口に鋭利な牙、巨体を二本の後脚で支える姿は、伝説に語られる暴君竜の姿だった。
「くそっ、ここで暴君竜を投入して来たか!」
ヒュースは顔を顰めて唸った。
暴君竜の口元は血で濡れており、短剣のような牙には千切れた人の足が引っかかっている。
ヒルド砦の内部には、ヒューリオン王国の兵士を何人も送り込んでいた。魔王軍は暴君竜を解き放つことで、巻き返しを図ったのだ。
ヒルド砦から姿を現した暴君竜が、天に向かって咆哮する。その声を聞き、多くの兵士達が狂乱状態となった。大陸にその名を轟かせるヒューリオン王国の兵士達が、右に左にと逃げ惑い、互いにぶつかり倒れる有り様だった。
「落ち着け、あの暴君竜の背には誰も乗っていない、適当に暴れているだけだ!」
ヒュースは暴君竜を指差した。
暴君竜を乗りこなす者がいないのだろう、鞍も手綱も付けられていない。陣形を組んで対抗すれば、十分戦える相手だった。しかしヒュースの声は兵士達には届かない。
ヒュースは以前、暴君竜の背に飛び乗り、魔王軍にぶつけるという荒業をやってのけた。もう一度同じことをと考えたが、前回は暴君竜に鞍や手綱が取り付けられていため、背中に飛び乗って操ることが出来た。だが今回は手綱がない。同じことをやるのは不可能だった。
さらにヒルド砦から、鬨の声が聞こえてくる。装甲竜に跨がるイザークを先頭に、魔王軍の兵士二万人が溢れ出て来た。ガリオスの奇襲に呼応して攻勢に出たのだ。砦から打って出て来たイザーク達は、ヒューリオン王国軍を攻撃しつつ、援軍としてやってきたガリオスに向かって進軍を開始する。
ヒルド砦の魔王軍がガリオスと合流すれば、もはや打つ手が無くなってしまう。そうなる前に、何とかして兵士達を立て直さなければならない。しかし軍を率いたことのないヒュースには、兵士達を立て直すなど不可能だった。せめて将軍であるレガリアの叔父さんがいればと思うが、すでに殺されている。
この戦場で、混乱したヒューリオン王国の兵士を立て直せる人間は、ただ一人しかいない。
「ええい、仕方ない!」
ヒュースは馬首を返し馬の腹を蹴った。向かう先は後方、ヒューリオン王がいる場所だ。
ガリオスの攻撃を受け国王旗は倒されているが、ヒューリオン王はまだ健在であった。千人の親衛隊がその身を盾にして王を守っている。
ヒューリオン王国軍を立て直すには、ヒューリオン王が必要だった。ろくでもない男だが、太陽王と国民に崇められるその存在があれば、兵士達は混乱状態から立ち直るはずだ。だがそれは危険な選択だった。
父を助けに行くということは、ガリオスに向かって行くということだ。
自分から殺されに行くようなものだが、幸運が二つあった。
一つは迫り来る魔王軍が、ヒュースのことを全く見ていないということ。何せ目の前には逃げ惑うヒューリオン王国軍が存在する。魔王軍は今が好機と、脇目も振らずに突撃している。そしてもう一つの幸運が、ガリオスの周りに魔王軍の姿が存在しないことだった。
ガリオスの猛威は災害にも匹敵する。敵味方の区別はなく、巻き込まれれば死は確実。勇猛果敢な魔王軍でも、ガリオスの側には近付けないのだ。
ヒュースがさらに馬の腹を蹴り、速度を上げたその時だった。
『行くな 逃げろ』
突如、ヒュースの耳元で不可思議な声が聞こえた。
ヒュースは驚き周囲を見回したが、もちろん周りには誰もいない。ガリオスと魔王軍を前にして、怯懦が生み出した幻聴かと、ヒュースは頭を横に振った。
『行くな 引き返せ』
声はまたしても聞こえた。その力強く荘厳とも言える声は、決して幻聴などではなかった。
「これは! 父上の言っていた『天啓』の声か!」
ヒュースは今聞こえた幻聴こそ、ヒューリオン王を操り、従わせていた声だと直感した。
「父上が用済みとなり、今度は私に取り憑くか! 節操のない声め!」
『グーデリアと逃げよ あの者とヒューリオン王国に逃げ帰り 二人の子を成せ』
声が更に語りかける。ヒュースはその内容に愕然とした。
グーデリアと子を成す。それはまだ夢にも思い描いていない未来だ。現実となれば、何よりも素晴らしいだろう。だがそれは出来ない。決してしてはならないことだった。
ヒューリオン王は、声は常に正しいと言っていた。声の言うとおりにすれば、この窮地を脱して、グーデリアと子供を作れるのかもしれない。しかしそんなことをすれば、グーデリアに皇帝となることを諦めさせることになる。両国の関係は悪化して戦争になり、生まれた子供も巻き込まれる。
自分はよくても多くの人を、何よりグーデリアを不幸にしてしまう。たとえ望みが叶ったとしても、それでは意味がなかった。
「そのような甘言で、私を操れると思ったか。去れ! 悪魔の声め!」
ヒュースは今後一切、声を無視すると決めた。
声はなおも語りかけてきたが、ヒュースは全て無視し、ヒューリオン王の下に向かった。