第二十二話 ローバーン鎮守府長官の悩み
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魔王軍大陸侵略軍ローバーン鎮守府長官のガニスは、会議の最中、左手で腹部を押さえた。胃が痛むからだ。しかし着込んでいる黒い鎧に阻まれ、痛む胃をさすることは出来なかった。
魔王ゼルギスが人間共に討たれ、すでに五年が経過しようとしていた。
だがこの五年の間で、魔族の故郷であるゴルディア大陸からの連絡は一度もなく、連絡船である魔導船を見た者はいない。魔族は人間共の大陸に取り残され、故郷に逃げ帰ることも出来なかった。
魔王軍最大の拠点と言える、ローバーン鎮守府の長官として、ガニスは最高の地位にいると言ってよかった。だがそれは全ての責任が、ガニスにあるということだった。
ガニスは重圧と胃痛に堪えながら、会議室の机に広げられた地図を見た
地図には三方を海に囲まれたディナビア半島を中心に、詳細な地形が描き記されていた。
ディナビア半島の西端には、もはや都市とも言えるほど発展したローバーンの街並みが描かれている。ローバーンから東に進むと、ガニスが築いた『グラナの長城』が半島を横切る形で存在していた。
グラナの長城を越えてさらに東に進むと、険しいライン山脈が幾つも峰を連ねている、それらを越えると荒野が広がり、荒野の中心には綺麗な円形をした巨大な窪地が存在している。かつてそこに星が落ちたという伝説がある、ダイラス荒野と円形丘陵だ。
円形丘陵の南には、レーン川が流れておりスート大橋が架かっている。そしてすり鉢状の地形の中心には、魔王軍が人間共から奪ったガンガルガ要塞が存在していた。そしてこれこそが、現在ガニスの胃痛の原因と言えた。また胃が痛み、ガニスは低く唸った。
「おや、どうされましたかな? ガニス長官」
会議に列席する魔族がガニスの唸り声に気付く。財務長官の黒い衣を着たゲラシャだった。
「いや、考え事をしていた」
まさか胃が痛むからとは言えず、ガニスは誤魔化した。
「その考え事とは、ガンガルガ要塞のことですかな?」
ゲラシャがガニスの内心を言い当てたが、そんなことは誰にでも分かることだった。ガニスが視線を地図上のガンガルガ要塞に戻すと、要塞の周辺には白い駒が、包囲する形で置かれていた。白い駒は人間共の軍隊を意味している。
現在ガンガルガ要塞は、人間共の連合軍により攻撃を受けている。これまではよく防いでいたが、人間共はレーン川の水を引き込むことで、要塞を水攻めにするという手段に出た。
このままでは要塞にいる魔王軍の兵士が、戦うことなく飢えと病で死んでしまう。今すぐにでもローバーンから援軍を派遣すべきだった。
「確かに、これは困りましたなぁ。一体どうするおつもりですか?」
「何を言う。そもそも、もっと早くに援軍を送っておくべきだったのだ。そうすればこのような事態にはならなかったのだぞ」
ゲラシャに対し、ガニスは鋭い言葉を返した。
ガンガルガ要塞が包囲された時、援軍を出すのは軍事上当然の判断だった。堅牢な城壁を誇ろうと、単独で籠城した場合に勝ち目はない。兵糧攻めをされれば、どうしようもないからだ。しかし、ローバーンでは援軍を送らない決定がなされた。
「お前が、援軍を送るべきではないと主張したのだぞ」
ガニスはゲラシャを睨んだ。
ゲラシャこそ、包囲されたガンガルガ要塞に援軍を送るべきではないと主張した魔族だった。
「確かに前回の会議では、まだ援軍を送る必要はないと言いました。しかし前回の会議の時点ではガンガルガ要塞の防御は堅く、人間共を押し返しておりました。それに水攻めをされるなど、誰も予想しなかったではありませんか。敵の作戦を読み違えたのは、参謀部の責任では?」
ゲラシャは自分には非はないとガニスを見た。
ガニスは現在、残存する魔王軍を効率的に運用するため、参謀部の長を兼任している。
「確かに、人間共があのような策を取るとは、読めなかった」
これはガニスも、自分の非を認めるしかなかった。
城や要塞を水攻めにするという戦術は、ガニスも聞いたことがなかった。しかし敵の戦術を予想し、対策を考えるのが参謀部の仕事である。分からなかったでは済まされない。
「だから私は以前に申したのです。ガンガルガ要塞とジュネーバからは撤退すべきだと」
ゲラシャが地図を指差し、ガンガルガ要塞の北に広がるジュネーバを示した。
ガンガルガ要塞の北には、魔王軍が滅ぼしたジュネブル王国と呼ばれる国があり、現在ではジュネーバと名を変え、魔王軍の支配地域となっている。
「グラナの長城は高く、人間共を寄せ付けません。魔王軍全軍で守れば、ローバーンは安泰と言えるのです。わざわざガンガルガ要塞やジュネーバに戦力を割く必要がどこにあります」
ゲラシャは会議室で高らかに訴えた。
「私はここでもう一度申し上げます。ガンガルガ要塞やジュネーバからは撤退し、ローバーンの守備に全力を傾けるべきです。そうすればローバーンは、あと百年は安泰です」
ゲラシャの言葉に、青い衣を着た兵糧庁長官のダルバや、ローバーンの治安維持を担っている赤い衣を着た警備庁長官のズストラ、そして司法長官を示す黄色い衣を着たギランが頷く。
いずれもローバーンにおいて、大きな権限や権力を持つ幹部達だった。現在、ローバーンの会議室は、ガニスを中心とする派閥と、ゲラシャが中心となる派閥に分裂してしまっていた。
「この会議は、ガンガルガ要塞をどう救うかの会議だぞ」
「ですが、もし撤退しておれば、その必要もなかったのでは?」
ガニスに対して、ゲラシャが笑う。
この男は! ガニスは怒りが湧き上がった。
現在ガンガルガ要塞は敵の攻撃を受け、兵士達が死に瀕しているのだ。だというのに、ゲラシャはこの窮地を政治闘争に利用していた。
「何度も言ったが、ガンガルガ要塞やジュネーバから手を引くことなど出来ん」
会議で怒ってはいけないと、ガニスは怒りを抑え込み、落ち着いた声で話した。
ガンガルガ要塞はローバーンの外にある重要な拠点であるし、ジュネーバは守りが薄いとはいえ、大事な支配地域だった。その二つを自ら手放すなどあり得なかった。
確かにゲラシャの言う通り、グラナの長城の壁は高く、ローバーンの守りは強固と言える。ここを魔王軍の全兵力で守れば、百年は言い過ぎでも、十年は持ちこたえられるだろう。しかしガニスとしては、何のための長城なのかと言いたかった。
「グラナの長城は、閉じ籠るために建造したのではないぞ。攻撃に出るためのものだ」
ガニスは自らが陣頭指揮を執って、築き上げた長城の本来の目的を語った。
本拠地の防御を強化する目的は、最小限の戦力で守りを固め、残った戦力を攻勢に割り振るためのものだ。そしてこちらが攻撃に出るからこそ、敵は守備に力を割かねばならず、結果として攻め手を緩めることになる。攻撃のための防御、防御のための攻撃でもあるのだ。
「守ってばかりでは、先はないぞ」
ガニスは首を横に振り断言する。
亀のように守りを固めれば確かに十年は安泰だろう。しかし一度甲羅に閉じ籠れば、次に首を伸ばした瞬間、すぐに叩き斬られてしまう。
「それに守りを固めれば、主導権を相手に渡すこととなる。敵に主導権を取られた結果、ガンガルガ要塞が水攻めにあっているのだ」
「おや、グラナの長城付近には、川などありませんよ」
「そんなことは分かっておる!」
ゲラシャの小馬鹿にした態度に、ガニスはたまらず机を叩いた。
人間共に主導権を渡せば、何をするか分からない。それはガンガルガ要塞で証明されているというのに、なぜそれが理解出来ないのか。
ガニスは会議室にいる幹部達を見たが、ゲラシャは半笑いの表情を浮かべており、他にも同調して笑おうとしていた者が何体もいた。
こいつらはダメだな。
ガニスは会議室に居並ぶ幹部達を見て、まるで頼りにならないと見切りをつけた。
考え方の問題ではない。事態に対する姿勢が、あまりにも違いすぎた。それは現在の服装にも如実に表れている。
重要な会議に列席する際、魔王軍では軍装、もしくは役職に応じた礼装を身に着ける決まりがある。ガニスは愛用の黒い鎧を着込み、会議に臨んだ。遠く離れた場所とはいえ、敵が攻めてきているのだ。場合によっては、ガニス自身が軍を率いて出陣するための用意だ。
もちろんローバーン鎮守府長官であるガニスが、自ら兵士を率いるなどあり得ない。だがいつでも出陣する心構えは出来ている。また遠く離れていても、前線で戦う兵士達とは常に一緒に戦っている想いだったからだ。しかしこの会議において、鎧を着ているのはガニスを含めほんの少数、ほとんどの幹部達は礼装で出席していた。この温度差は致命的だった。ここにいる者の多くが、ガンガルガ要塞での戦いを、対岸の火事のように考えているのだ。
これは、壁を高く築き過ぎたなと、ガニスは自らの失敗に気付いた。
この数年間、ガニスはローバーンの守りを強固にするため、防衛設備の充実に心血を注いできた。その結果グラナの長城は比類なき高さとなり、鉄壁の城壁となった。しかし強固過ぎる城や要塞は、中にいる者に大きな影響を与える。絶対安全な場所にいるという安心感から、危険を冒す必要はないと考え、攻める気を失ってしまうのだ。
幾多もの戦場をくぐり抜けた魔王軍が、敵地ともいえる場所でこのような心理になるとは、ガニスも予想外だった。だがローバーンの幹部達は、戦場の匂いがしない会議室ですっかり牙を抜かれてしまっている。
あの者がいれば……。
ガニスはある魔族のことを思いながら、視線を会議室の端に向けた。
会議室の末席には、今は撤去されているが、以前は小さな椅子が置かれていた。
その椅子に座っていた魔族は、魔王軍にとって猛毒とも言える存在だった。
ガニス自身その魔族を嫌っており、この会議室から締め出した時は清々したものだった。だがこの弛緩した会議室には、劇薬が必要だった。
やはり我々にはあの者が必要だ。ガニスは密かな決意を下した。
次回、あいつがついに登場