第二十八話 ゲルドバの幸運
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砦がある岩山の麓に布陣したゲルドバは、二日経っても落ちぬ砦を見上げていた。
打ち捨てられ百年以上は経っている砦である。本来なら一日で落とさなければならなかった。ゲルドバ達の後ろには敵が迫り、挟撃を受けてしまうからだ。
だがギャミは、この国の南方を襲撃していたゲルドバの兵士達五百体を、勝手に移動させて森で足止めをさせていた。
兵士達はゲルドバの時間を稼ぐために森に火を放ち、山火事を壁として人間共と戦っている。兵士達の抵抗は、今日の夕方まではもつだろう。だがそれ以上は無理だ。敵と激しく交戦している兵士達は逃げることも叶わず、殲滅されてしまうだろう。
勝手に兵士達を移動させ、死地へと追いやったギャミに怒りを覚えるが、一日で砦を落とせなかった自分の責任でもある。犠牲となる兵士達の為にも、なんとしてでもロメリアの首を取らなければならなかった。
ゲルドバに残された時間はあと一日しかない。だが、今日は確実に砦を落とせるはずだった。
あの廃棄された砦にはおそらく水がない。精彩を欠く敵の動きを見ればそれは分かる。井戸が無い所に砦が築かれることはないから、大昔になんらかの事情で枯れてしまったのだろう。
敵に飲み水がない。これはほぼ勝利が確定したと言ってもよい状況だった。
飲み水が無ければ、兵士は満足に戦うことが出来ないからだ。
敵が砦に入る前に小川で給水していたのは知っている。だが積み込める水の量は、せいぜい二日分だ。馬に飲ませる事を考えれば、すでに枯渇しているだろう。
馬を殺して血を飲むという手もあるが……。
ゲルドバが砦を見ると、敵に動きがあった。敵は馬に乗り、正面の門から二列縦隊で飛び出てきた。
先頭を走るのは、花の紋章の旗を持った亜麻色の髪の女。ロメリアだ。
「ロメリアァァァァ!」
ゲルドバは知らぬうちに女の名を叫んでいた。
人間の、それも女の名を覚えるなど自分でも信じられなかった。だがこれほどまで、自分を手こずらせた人間はいない。必ずこの手で殺し、その首を取らなければ収まらなかった。
「重装歩兵、前へ! 絶対に敵を突破させるな。体で止めろ! 弓兵、敵の突撃に合わせて一斉射、引きつけろ! 選抜部隊! お前達は赤騎士と蒼騎士を狙え。奴らが部隊の柱だ。それさえ封じれば勝てる!」
ゲルドバは指示を下しながら、赤銅色の鎧に、巨大な槍を構える二十体の兵士を見る。ゲルドバが率いる兵士の中でも、腕の立つ者ばかりを集めた精鋭だ。こいつらならば、あの二人の騎士とも互角に戦えるだろう。
「来るぞぉ、構えろ!」
山の斜面を、落石のように駆け下りてくる騎兵部隊を見る。ゲルドバの瞳は、先陣を切る亜麻色の髪の女に注がれていた。
「弓兵、正面前方、構え!」
ゲルドバが右手を掲げる。弓兵が矢をつがえ引き絞る。だがゲルドバは手を下ろさず、放ての号令はまだ出さない。
引き付けて、引き付けて、今だ!
「放……!」
ゲルドバが右手を振り下ろし、命令を下そうとした瞬間。先頭を走るロメリアがくるりと方向転換し、左に曲がり進路を変えてしまった。
「って!」
命令を発しようとしていたゲルドバは、手を止めることが出来ず、弓兵が矢を放つ。
矢が大きく空に弧を描き、疾走する騎兵に向かう。だが遅い、すでに敵は方向転換をしている。
放たれた矢は、進路を変えた騎兵の最後尾に降り注ぎ、数人に矢が当たったのみ。矢を受けた兵士は、痛みに耐えながらも馬にしがみ付いて駆け抜けていく。
左に折れた敵騎兵は、そのまま左側面を塞いでいる左翼部隊と激突する。
「左翼、そのまま耐えろ! 選抜部隊は前に進め!」
ゲルドバは選抜部隊に命令を下す。選抜部隊が走りだした直後、左翼と交戦していた騎兵が、また進路を変える。
赤騎士が敵をなぎ倒し進路を開き、蒼騎士が後続を補佐する。
方向転換にかかった敵兵は、選抜部隊が追いつく前に左翼から離脱する。
「弓兵、構え!」
ゲルドバは再度弓兵に弓を構えさせた。だがどこを狙うかは指示を出せないでいた。
左翼から離脱した敵は、次は右翼に向かって進んでいるが、方向を転換し正面部隊を狙うこともありえる。
「正面、いや、右翼部隊前方、狙え。放て!」
ゲルドバは敵が右翼に襲い掛かると見て、右翼の前方に矢を放つように命じる。
だがその直後、またしても敵は進路を変え、今度は正面部隊に突撃を開始する。
狙いを読み違えた矢は、地面に突き刺さるのみ。
ゲルドバは騎兵の先頭で旗を振り、指示を出すロメリアを見る。亜麻色の髪の女もまたゲルドバを見ていた。
おのれ、あの女。戦場の全てが見えているとでもいうのか!
ゲルドバは唸った。
指揮官が下す命令には、どうしても時間差が発生してしまう。
発せられた命令を隊長が聞き、兵士に指示を出し、兵士達が従い行動に移す。命令の効果が出るのは、命令があってから少し後のことだ。
兵士達の練度が高ければ、ある程度解消出来るが、時間差が無くなることは永遠にない。
指揮官にはその時間差をある程度考慮し、敵の動きを予想して、先回りをする形で命令を下す能力が求められる。その未来予測の能力が、あのロメリアという女は卓越していた。
あの女の眼差しは、まるで戦場全てを見抜いているかのようだった。
矢を避けた敵騎兵部隊は、正面の部隊を攻撃した後、また左翼へと転進する。
「ええい、左翼と右翼は十歩前進! 戦場を圧迫しろ、予備隊は砦との通路を封鎖しろ。包囲して陣形で押しつぶせ」
ゲルドバは両翼を前進させ、戦場を狭くした。
徐々に小さくなる戦場の中で、騎兵を率いるロメリアは蛇のように暴れまわる。左翼、右翼、また左翼と攻撃を繰り返すが、どうあがいても袋の鼠だ。
「選抜部隊、備えろ! 敵が足を止めたら、飛び込め!」
ゲルドバは、虎の子の選抜部隊に突撃を命じる。
「全軍前進、圧殺しろ!」
ゲルドバは一気に軍を前に進め、四方からロメリア達を押しつぶそうとする。だがこの時、左翼部隊の連動が他の部隊から僅かに遅れる。その僅かな遅れが隙となり、一筋の空白地帯が生まれてしまう。
まずい!
それは一瞬の出来事だった。ほんの僅かな時間にだけ生まれた隙。
ゲルドバは左翼が遅れたことに気付き、穴を塞ぐべく命令を出そうとしたが、命令を放つより早く、ロメリアがその隙間に馬を滑り込ませた。
生まれた隙は一瞬。そして突破されるのも一瞬だった。
隙間に馬を滑り込ませたロメリアに続き、騎兵部隊がゲルドバの敷いた包囲網を突破した。
やられた!
包囲網から抜け出たロメリア達を見て、ゲルドバは自らの不覚を悟った。
無秩序に見えたロメリアの攻撃は、左翼を多く攻撃していた。左翼は他よりも疲弊し、前進が遅れたのだ。全てはこの隙を生み出すため、この一瞬をロメリアは狙っていたのだ。
「おのれ! ロメリアァァァア」
ゲルドバは指揮官でありながら走り、ロメリアを捕まえようと追いかけた。だが馬を相手に徒歩で追いつけるはずもなく、小さくなる背を見送ることしか出来なかった。
「あと少し! あと少しというところで!」
ゲルドバは叫んだ。
あとほんの僅かで、ゲルドバの手はロメリアに届いていた。しかし亜麻色の髪は、ゲルドバの手からすり抜け、二度と手の届かないところにまで走り去ろうとしていた。
ゲルドバは諦めきれず、慟哭と共に手を伸ばす。
だがその時、ゲルドバが伸ばした手が一本の髪を掴んだのか、包囲を突破したロメリアの馬が、突然体勢を崩して転倒した。
落馬し地面に投げ出されたロメリアは、全身を地面に打ち付けていた。
ロメリアを追っていたゲルドバは、目の前に降って湧いた幸運に歓喜した。
いや、これは幸運ではない、必然だった。
砦に井戸はなく、馬はほとんど水を飲めていない状態だった。それなのに全力疾走させ、何度も方向転換をしていたのだ。馬が耐えられなくなったとしても不思議ではない。
ゲルドバは腰の剣を抜き、ロメリアに向かって走る。
落馬したロメリアが、起き上がって周囲を見回す。ロメリアが駆け寄るゲルドバに気付き、さらに首を返して走り抜けた自分の兵士達を見た。
走り抜けた騎兵部隊は、主人が落馬したことに気付いて全軍で戻ってくる。だがゲルドバの方が近い。機動力の差はあっても、ゲルドバの方が先にロメリアにたどり着く。
ゲルドバは剣を掲げ、ロメリアに迫る。ロメリアは何をしようというのか、右手をただ伸ばしていた。
捉えた!
ゲルドバは掲げた刃を女に向けて振り下ろした。鮮血が宙を舞った。
次回更新は十月二十二日を予定しています。