第百四話 ソネアの決断
自室の中で、ソネアは深いため息をついた。
手の中には、赤い液体が満たされた小瓶が残されている。救世教会の司祭であるギルマンが残した、恐るべき毒薬だった。
ギルマンはあろうことか、この毒薬をロメリア様に盛れと言ってきた。
ロベルク地方を救ってくれたロメリア様を、暗殺などできるわけがない。こんな恐ろしい物、触れていることすら忌まわしく、今すぐにでも窓から投げ捨ててしまいたかった。だが暗殺を拒否すれば、ギルマンは確実にソネアを恨むだろう。
もちろんソネアはどのような責苦でも、受ける覚悟はできている。しかしギルマンが憎しみの矛先を向けるのは、ソネアではなく残されたミカラ領の人々だ。あの酷薄な聖職者がどのような報復を行うか、想像するだけで恐ろしかった。
ロメリア様に暗殺の示唆があったことを報告し、ギルマンを訴えることも考えたが、すぐに分の悪い賭けだとソネアは気付いた。
貴族に対する暗殺は、計画しただけでも重罪となる。場合によってはロベルク同盟の貴族たちは全員処刑される可能性もあった。だが訴えたのがソネアであれば、聞き入れては貰えない。
今のソネアには全くの信用がない。何せ明日にでも貴族の地位を失いかねないのだ。全てを失おうとしている者がなにを訴えても、助かろうとするための言い逃れにしか聞こえない。ソネアがギルマンを告発しても、耳を貸す者はいないだろう。
一方ギルマンは、救世教会の司祭というだけで信用がある。それに後ろ盾である救世教会も、司祭が貴族の暗殺を企んだという醜聞を認めはしない。優秀な法律家を雇い、必ず無罪を取りに行く。
無実の司祭を訴えたとなれば、ソネアは不信心者と見られ、破門されても文句は言えない。教会から破門されれば、一つの場所に定住することもできなくなる。もちろん俗世を捨て、尼になるという道も断たれるだろう。ソネットも不信心者の妹として扱われることとなる。
ソネアはため息をつき、寝台に目を向けた。寝台の上では、ソネットがあどけない寝顔を見せていた。
せめてソネットだけでも何とか助けたかった。一番いいのは、信頼できる相手に預けることだが、今のソネアにはソネットを預ける当てがなかった。
ソネアには貴族の交友関係があるが、それはミカラ男爵家が存続していればの話しだ。没落した家など何の役にも立たない。ソネットを貴族の家に預けるということは、ギルマンの言うとおり、召使か奴隷として妹を売り払うに等しい。
人に預ける場合はソネアが死んだとしても、約束を守ってくれるような相手でなければいけなかった。
悩むソネアの耳に、扉をノックする音が聞こえる。入室を許可すると、左頬に生々しい傷を持つ侍女が入室してきた。
母であるカーラが、いつも側に置いていた侍女のキュロットだ。彼女は魔王軍がミカラ領地を襲った際、母カーラと共に城館にいた。そして魔族の攻撃を受けて、顔に大きな傷を負ったのだ。
幸いにして命はとりとめたものの、頬には傷跡が残ってしまった。
「ソネア様、お手紙です」
手紙を差し出すキュロットの表情は暗い。以前は笑顔のかわいい子だったが、今や笑うこともない。魔王軍の襲撃の際、彼女は顔に怪我をしただけでなく、家族のすべてを失ってしまったからだ。
今のキュロットにはかける言葉もない。黙って手紙を受け取ると、差出人はドストラ男爵家のハーディーからだった。彼は二日と開けずに手紙を出してくれる。
封蝋をはがして手紙を確認すると、中にはソネアを心配して慮る言葉がつづられていた。そして最後には、ソネアに対する求婚の言葉が書かれていた。
ソネアはそっと手紙を閉じだ。
ハーディーの気持ちはうれしく思う。しかし今となっては、あまりにも状況が読めていない行動だ。
兵士を率いて魔王軍と戦ったハーディーは、グラハム伯爵家で出世を遂げることは確実だった。そしてドストラ男爵家も、ロメリア様が行った経済支援により成長を遂げ、ロベルク地方を代表する名家となる可能性がある。
ドストラ男爵家の成長を確実なものとするには、権力と財力を持つ貴族との婚姻が不可欠だった。決して、明日にも貴族の地位を奪われる女ではない。
今ソネアと結婚すれば、ハーディーは一族の信頼を失い、下手をすればドストラ男爵家が分裂する可能性がある。
もちろんハーディーもその程度のことは理解しているだろう。それでもなお求婚してくるのはソネアを想ってのことに違いない。それはわかるが……
「……まったく、男の人というものは」
ソネアの口から、つい愚痴が漏れてしまった。言っても仕方がないと首を横に振り、手の中の瓶に目を落とす。
この毒薬を、ロメリア様に盛るなど論外だった。
恩人を殺すことはできないし、それにギルマンを信用することもできない。ギルマンは毒殺の責任をロベルク同盟の領主たちに押し付けると言っていたが、自分のことしか考えていないような男だ。都合が悪くなれば誰だって切り捨てるだろう。
ソネアの口から嘆息が漏れた。
もはや希望はない。毒を盛ろうが盛るまいが、自分の結末は変わらないのだ。何をしてもうまくゆかぬのであれば、いっそのことこの毒薬をあおり、全てを終わらせてしまうかと、自暴自棄な考えが頭をよぎる。
もちろんそんなこと、できるわけがなかった。自殺は救世教会の教えに反している。何より妹のソネットを残してはいけなかった。
「ソネア様」
何も選べないソネアに対し、侍女のキュロットが声をかけた。
「もう、お好きになされてはいかがですか?」
「好きに? 何を好きにするというの?」
「実は先程、ギルマン様との会話を扉越しに聴いてしまいました」
キュロットはギルマンとの密談を、盗み聞きしたことを告白した。
「これまで、ソネア様はミカラ男爵家の事情やハーディー様への想い、カルス様の専横。周囲の人々や状況にいつも振り回されていました。もうそろそろ、御自分のお好きになさってはいかがですか?」
「好きにって……、そんなことできるわけが……私には、貴族としての責任が……」
ソネアは首を横に振った。貴族としての責任がある。好きに行動するなど許されなかった。
「その御心には敬服します。ですが、その地位も奪われるではありませんか」
キュロットはソネアを射貫くような目で見た。
「私は早くに母を亡くし、カーラ様のことを実の母のように慕っておりました。しかしそのカーラ様も今回の一件で命を落とされ、父も魔王軍の手にかかり殺されました。私もこの顔では結婚は望めません」
キュロットは傷の残る頬を見せた。
ソネアが全てを失うように、キュロットも多くを失っている。もはや取り戻すことはできない。
「もう十分ではありませんか。失うものは何もないのです。さんざん振り回されてきたのですから、最後ぐらい好きにしても」
キュロットの言葉は、ソネアの心を開放する作用をもたらした。
指摘されるとその通りだった。これまでずっと、ソネアは周囲に振り回されてばかりだった。ミカラ男爵家や愛するハーディーのため、責任ある貴族として自分が成すべきことを優先し、ずっと本心を押し殺してきた。
その判断を誤りだったというつもりはない。その都度その都度、正しいと思える選択をしてきた自負がある。だがその結果はこの様だ。全てを失い、行くも進むも出来ない。しかもこの期に及んで、自分はまだあちこちに顔を立てようとしていた。なんとも馬鹿馬鹿しい話だった。
自分のくだらなさにソネアは笑いだしてしまい、その声は部屋中に響き渡り、眠っていたソネットが目を覚まし泣き出したが、ソネアは笑いを止めることが出来なかった。
泣き声と笑い声が部屋を覆い尽くす中、ソネアはこれまでにない解放感を味わった。何とも愉快だった。これほど愉快な気分は久しぶりだった。
「そうね、全くその通りね」
ひとしきり笑い終えたソネアは、キュロットに向かって頷いた。
どうせすべてを失うのだ、なら最後ぐらい自分の想い通りにしてやりたかった。
「この薬は使えそうね」
ソネアは赤い液体で満たされた小瓶を笑いながら見た。
「派手にこの薬を使ってみようかしら。キュロット、その手伝いをしてくれる?」
「はい、ソネア様の御心のままに」
キュロットは恭しく頷いた。
いつも感想やブックマーク、評価や誤字脱字の指摘などありがとうございます。
ロメリア戦記の三巻が、小学館ガガガブックス様より発売中です
またマンガドア様より、上戸先生の手によるコミカライズが好評連載中です
こちらもよろしくお願いします




