重ねれば
二か月に一度。特に第三日曜日。三日か五日前までの天気に差しさわりがない限り、私は家にいることにしている。
やりたいことは家でできる。やりたくないことは、平日に、やる。めいっぱいやる。やりたいわけじゃないけれど、そうしないと生きていけないから。やりたいことは、生きたいことと、必ずしも一緒になってくれなかったのだ。
きっともうすぐ、トラックの地鳴りのようなエンジンの音と一緒にやってくる。私は、ほほをべったりとつけたまま、そのテーブルの円いかどをさすっている。まだ、遅い朝ごはんに少し早い時間だった。東の窓辺に置いてある、元々は自家製の梅酒が入っていた特大の空き瓶は、いまはエビの水槽になっている。もうそこそこ高いところにある日の光を受けて、漂う水草が息を吹き返しているように見えた。一度も餌をやったことのない小指の爪くらいのエビたちは、せっせせっせと、口に何かを運んでいる。あれで一応、何か食べているらしくて、定期的に脱皮をしては少しずつ大きくなっていた。いつの間にか住みついていた田螺がその横を通り過ぎて、一昨日買って沈めたばかりの水草にかじりつくけれど、いつまでたっても成果は見られない。それでも気にせず、角をひょこひょこ揺らしていた。
(あれがそれだけ動いたのだから)
水槽の少し上にかけてある時計を見ると、もうすぐ十時というところだった。時間をかけて、起き上がる。ほほが剥がれていく感覚に、思わず奇声が上がる。
姿勢をよくして、すっかり飲み忘れていた珈琲に気づいたけれど、なんとなくその気にならなくて、カップをくるくると回す。茶道の作法を思い出して、「けったいな建前で」、と、意味もなくつぶやいた。つぶやいてから、なんじゃそりゃあと思ったけれど、正しい言い方を思い出せなかったから考えるのはやめた。まだ頭が起きていないらしい。だから、少しだけ差し込んでいる陽光が遠慮なくとらえて浮かび上がらせたハウスダストの柱にも、不快感はなかった。えらいものだ、人が少し動いただけで、この部屋はこれだけの埃が舞う。けれど部屋の隅で仲良くまとまっていられるよりは、こうして早朝の晴れに散る雪みたいに煌めきながら主張してくれる方が良い。来週はお掃除しよう。
玄関に人が来たのが、チャイムで分かった。
ちょっと勢いをつけすぎながら立ち上がって、いくらか速足で向かった。きっといまごろ、瓶の中の住人たちはビクついているに違いない。
『やや!けっこうゆれたぞ!』
『びっくりしたなあ!』
『はらへったなぁ』
「―――私も腹ペコさぁ」
薄いドアを開けると、少し怪訝そうな顔つきの配達員のお姉さんと目が合った。独り言か、頬の跡か、それとも両方か。そう思うと少しはにかむことになって、別にかゆくもないのにこめかみを掻いた。
荷物はちょうど、抱えるのにやや難があるくらいの大きさの段ボール箱。ところどころ土汚れがついていたけれど、梱包のガムテープは不自然なくらいにぴっちりと真面目に貼り付けてあった。配達伝票の文字は、どちからかというとガムテープの面影がある、線のはっきりしたものだった。それだけで、思い出せるものがあった。カッターが手もとに無かったので、テーブルに置きっぱなしにしていた自転車の鍵の鋭い山で、裂いて開けた。
第一層は、チャック付きのパックに入った一面のシイタケ。もしかしたらシイタケしか入ってないんじゃないかと、一見しただけでは勘違いしてしまいそうなくらい、徹底的にシイタケが表層に敷き詰められている。パックを引っぺがして、丁寧に机に横たえた。
第二層からは、まったくもってとりとめがなかった―――いや、聞こえが悪いか。
それはそれは色彩に満ち溢れた宝箱である。
鮮やかな赤を放つ大粒のトマトが緩衝材を挟んで行儀よく並ぶ。見たところ、傷んでいるものは一つもない。深い箱だったから、キュウリは縦に差し込まれていた。こっちは不揃いだ。ゴーヤみたいなやつから、隅のほうには酢につけておくとよさそうな赤ちゃんサイズのきゅうり。青々としていて、まるで早晩毟ってきたような若々しさがある。ナスも発色は言うまでもなく、そしてだらしなさも無い。軽く指ではじいてみると、高い音が返ってくる。...トウモロコシも入ってる!私の大好物だ。粒は不揃いで見た目はそれほど良くないトウモロコシだったけれど、どの野菜よりもたくさん容れてくれていた。数が優しかった。茹でるのもいいし、焼くのもいい。こそぎ落とすのは面倒だから、大抵噛り付く。口の中が唾液でいっぱいになった。ピラミッドみたいに、台所に積んでおいた。枝豆は、薄く曇ったビニール袋に入っていた。いくつかの実が鞘ごと袋の下に転がっていた。ハサミを持ってこれない無精者なので、柔いところを引きちぎった。ずんだ色と土の香りがぱっと広がって、自分が引き抜いたわけでもないのになんだか一仕事終えたような爽快感がある。ふぅ...やってやったぜ荷ほどき。
少し休んですっかりぬるくなったコーヒーを飲み干して、いつもより空っぽの冷蔵庫に贈り物を詰めると、別な何かが満たされるような気がした。自然と鼻歌まじりになりながら、次は何をお返ししようかなんて、そんなことを考えていた。
すっかり空になった段ボールを机の上に置いたまま、私はまた、項垂れる。疲れたわけでもなく、減ったお腹に耐え切れなくなったのでもなく、午睡に沈もうと思ったのでもない。いくらかのことを思いながら、いくらかのことを思い出していた。
すっ、と。部屋に差し込む光が減って。
薄暗い部屋の中、段ボールの端に見付けた動きのある汚れ。
項垂れたのを、少し前のように、自重に任せてテーブルに、頬から着地する。
その黒い跡をもっと近くで見るために。
もっとずっと暗い所ではじまったのだ。それがこんなに明るいところまでやってきて。
それは月さえ灯かりを潜め、前後不覚の闇夜にあった。
幽鬼に紛う異質との出会い。彼が口にした初めのことば。
それは確かそう―――